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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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この国を・・・・4:「利」に乗じる「理」

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[追加 17.27][追加 17.35]

下記のように、地震学会の「様子」が話題になっています。

「従来の考え方はリセットを」 地震学会が反省のシンポ
「大きな敗北」「非常に反省」=予知不可能の意見も―大震災で特別シンポ・地震学会

この「様子」に違和感を感じたのは、私だけでしょうか。
先日、「建築家」たちの震災後の「言動」が「理解不能」であると書きましたが、この地震の専門家たちの言動もまた、私には「理解不能」なのです。
「リセット」だとか「敗北」だとか「反省」などという言葉が発せられる「背景」は一体何なのか。

一言で言えば、皆さん「理系」と自他とも認めているはずですが、「理」とは縁遠い。
ギャンブルでもやっている感覚でもないかぎり、「敗北」などという言葉は出てきません。
「地震予知」の「賭け」でもやっていたんでしょうか?

そして、「反省」などと言うことばは、自分たちの立てた「理論」、平たく言えば「考えていること」は、「絶対的に眞」であるとでも思い込んでいなければ出てこない。
つまり、「人知」が「自然」を乗り越えた、と「信じて」いたに違いない。
それで平気で居られる、だから「理」とは縁遠い、と私には思えるのです。
「耐震工学」の「専門家」の思考構造とまったく同じです。

本当に「理系」ならば、人は「自然」の一部に過ぎない、ゆえに、「自然」は人の存在以上の存在である。と思って当たり前です。

この「様子」を観て、私は、いまや、「理」の人たちも、「工」の人たちと何ら変りはなくなった、と感じています。
つまり、本物の「理系」の方がたが少なくなったのではないか。「理」が「利」になっている。「利系」の人びと。
それでいて、この人たちは、「普通の人びと」を「指導」したがる。「専門家」「有識者」・・として。
しかし、誰が「専門家」「有識者」として認めたのか?自称ではないのか?
   もちろん、全部の人がそうだというわけではありません。
   しかし、このような「様子」が「持続」してきたのは何故か、考える必要はありそうです。

   参照 「専門家を専門家として認めるのは誰か」

私は、私たちが、私たちの感性に信を置き、いろいろと学べばよいのだ、と考えています。そして自信をもって、王様は裸だ、王様の耳は驢馬の耳、と言うのです。
      

次は、毎日新聞に載っていた「過疎地に押し付けるな」という発言。
北海道幌延町に、使用済み放射性廃棄物の墓地をつくろう、という「計画」への地元からの反論。
こういう計画の「推進」に、「専門家」は、関係・協力していないでしょうか?
   モンゴルでの墓地計画(日米両国が秘密裏に行っていた)はモンゴル政府の決断で沙汰やみになったようです。

   註 私は、このコラムの標題「地方発」の「地方」の語が気になります。
      「中央」に対する「地方」でなければ幸いです。
      参照 「山手線はローカル線だ」

 


ついでに、「正論」をもう一つ。 [追加 17.27]
さらにもう一つ紹介。
「リベラル21」最新記事 書評 『原発とヒロシマ―「原子力平和利用」の真相』(岩波ブックレット) [追加 17.35]

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