梅雨明けの青空。合歓の花が盛りです。
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最近、「国民」という語が気になっています。
「国民」という語の指し示す内容が気になるからです。
たとえば、社会保障のありかたについては、「国民会議」の下で論議を深める、とのこと。
はて「国民会議」とは?
何のことはない「有識者」に論議していただく会議らしい。
そういう場合、これまでは「有識者会議」「有識者委員会」などと称してきたはず。それが、今度は「国民会議」だと言う。
「国民」とは「有識者」のことなのか?。
「それ以外」は何?「有識者」は、すべての人びとの代理者?
だいたい、「有識者」とは何?
大学教授、「その道の」専門家は「有識者」なのだろうか?
そもそも「有識」とは何を言うのか?
これらについての「解釈」「説明」は、いまだかつて聞いたことがない。
もちろん、「有識者」の会議がなぜ「国民会議」なのか、その説明はない・・・。
政府が主催する「エネルギー・環境会議の意見聴取会」というのが開催中です。
これは、「国民的議論」の場にする、というのが政府の「見解」のようです。
「意見聴取」という以上、「集った方がたの意見を聴く」のであろう、と思っていたら、まったくそうではないようです。
「原発依存0」、「原発依存15%」、「原発依存20〜25%」の三つの選択肢のそれぞれについて、「無作為で選ばれた人」が「意見」を述べるのを、集った人びとが、一切質問も意見も言えず、ただ黙って「聴く」だけの会、のようです。
しかもその意見陳述者の「選択」は、原発0、原発15%、原発20〜25%、の選択肢ごとに
「公平に」3人ずつ、「公正に」選んだのだそうです。
意見を述べたい人の数の割合は、原発0>原発15%>原発20〜25%、とのこと。
「東京web」のデータを転載。
「公平」「公正」の「概念」についても見解を糺したくなります。
しかし、人数に応じて意見を述べることができれば事態が正された、ということにはなりません。
それは、いわば瑣末な話。
この場合の本質的な問題が三つあります。
一つは、「国民」的議論、の「国民」とは何を指しているのか。
一つは、こういう形式の会をして、何ゆえに「意見聴取の場」と言うのか。
そして、それをなぜ「国民的議論の場である」と称するのか?
この形式の運営を企画したのが「広告代理店」だそうです。さもありなん・・・。
しかし、「企画」は明らかに政府が出したものの筈。
そしてもう一つは、
「意見」を、なぜいわば先験的に、この「三択」だけに集約するのか。
この二つの事例は、結局は「根」は一つである、と私は思っています。
簡単に言ってしまえば、
人びとを「言いくるめる」ための「政治家たちのたくらみ」。これをして「政策」と言う?
「・・・人間として大事なのは、自分が相手の立場になった時にどう思うかだ。その痛みを感じる心を持ってもらわなければならない・・・。」
この「素晴らしい講話」は、誰が、何について語ったのでしょうか?
「いじめ」について、わが現・総理大臣が語ったのだそうです(「毎日新聞」17日付朝刊)。
そういう気持ちをお持ちなら、福島の多くの人びとの立場に立って、原因解明も、将来の姿も不明な、まして廃棄物の処理も未決なまま、大飯を再稼動する、などと言うことはできないはずです。いったい、この「決断」の際、どんな「相手」の「立場」に立っていたのでしょう?
つまりこれは、「人なんか言いくるめればいいのだ」、「言い負かして、勝てばいいのだ」(それをしてディベート: debate と思い込んでいる人が結構いるらしい)という「己のあり様:実像」をすすんで「証明」してくれたようなもの。
そして、今の政府の要人たちは、どうやら、皆そのようです。
それは、この「意見聴取会」なるものについて、未だにその「正当性」を説く企画担当大臣、原発担当大臣や、
「この程度の線量は、直ちに危険ということはない」と意味不明なことは言って平然としていた大臣、の「発言」を見れば分る。
今の政府の「要人」たちは、(若いのに!)その「発想」すなわち「精神」が、本当によく「似ている」。
人びとというのは、言葉の上で言いくるめれば済む、と「今の偉い立場にいる」方がたも、相変わらず、「かつての偉い」方がたと同じく、考えているのではないでしょうか。
たまたま見ていたTVで、フィンランドの核廃棄物を10万年間埋設処理する地下施設を訪ねた方が、
何万年後かの人たちに、「ここは近づいたり掘ったりしてはならない」ということをどうやって伝えるのか、
と問うたのに対して
フィンランドの専門家は、それが悩みの種なのだ、と素直に応じていました。
日本の「政治家」や「専門家」なら、何と言うでしょうか?
多分、それまでには方策が見つかっているでしょう、見つけるよう今努力しています・・・、とか
あるいは「専門用語」を並べて煙にまく、・・・など、「言いくるめ」に「熱中」するでしょう。
日本の「政治家」は、「言いくるめ」を「身上」「信条」とする方がたがほとんどであり、
日本の「専門家」は「科学者」であっても、scientist ではないからです。
念のために付け加えますが、日本人が昔からこうだったのではありません。
こうなったのは、明治になってからです。
今の姿は、「近代」化策の成れの果て、と言ってよいでしょう。
たしかに、天は人の上に人をつくらなかった。
しかし、明治以降の偉い人たちは、すすんで人の上に人をつくる策を講じてきたのです。
その結果、人びとは、「偉い人(:言いくるめに没頭する人)」と「普通の人びと(:否応なく言いくるめられる人)」に二分されてしまったのです。
この「流れ」は、いったんは第二次大戦の敗戦で断ち切られたものの、それから半世紀以上経つ間に再び「復活」し、しかも、今「権力」の座にある方がたは、それを更に強固にし、なおかつ永続させようと願っている(誰の、何のために?)、としか思えません。これが私の歴史認識:理解です。
「国会の原発事故調」が、その英語版で、
原発事故は人災であり、それを惹き起こしたのは日本特有の「精神的風土」:島国根性・・にある、
と書いてあるそうです。
しかし、江戸時代の日本人なら、こういう人災は起していないでしょう。
そこで触れられている日本特有の「精神的風土」・・なるものは、
明治以降、いわゆる「近代化」の下で生まれたものなのです。
調べると分ることですが、
江戸時代の人びとは「国際的」です。
もちろん専門家もいます。しかし、「今の世で見かけるような専門家」はいません。
視野が「萬屋(よろずや)的」で、偏狭ではないのです。それぞれが scientist なのです。
さて、なぜ「国民」の語を私が気にするか。
最近の「大政翼賛」的な動きに併行して、頻繁に、「国民」「国民的」議論などという言葉が使われるようになったからです。
その向う側に見え隠れしているのは、「非−国民」という「呼称」ではないか。
今行なわれているさまざまな「画策」の「結果」、何か「方針」が決まったとしましょう。
たとえば、「原発依存15%」という策に方針が決まった、とします(このあたりを落としどころとする《シナリオ》があるのかもしれません)。
それは「国民的議論」を経て決まった策だ。
だから、決まった後、それに反するような意見を言う者は、「非−国民」である・・・。
つまり、「選別」の手段の《合理化》を急いでいる・・・。
政府の要人(三党《合意》の合意者も含みます)たちの「行動」を見ていると、そういう「方向」に「発展する気配」がきわめて濃い、と私は感じています。
もしそうではない、と言うのならば、
「国民」という語を、「人びと」という語に置き換えることができますか?
多分、できないでしょう。
なぜなら、もし「できる」のなら、耳に入ってくる「人びとの叫び」をして、「大きな音だね」などとして聞き流すことはできないはずだからです。
「国民」の生活は考えるが、「人びと」の生活は考えない。(偉い方がたの)言うことに叛く「人びと」は「国民」ではない・・・のかもしれません。
「人びと」はたしかに侮辱されているのです。
これでいいわけがありません。