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「第Ⅳ章ー3ーB2 高木家」 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B2」

 

 B-2 高木家  天保年間(1840年頃) 所在 奈良県 橿原市 今井町

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みせのまの外部 柱脚部の横材は地覆   日本の民家6 町屋Ⅲより

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平面図                  図は日本の民家6町屋Ⅲ(高木家住宅修理工事報告書)より                

 

 

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 桁行断面図

 

 

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  日本の民家6 町屋Ⅲより

 みせは庇部まで畳敷(梁行断面図参照)  豊田家は庇部は縁として板戸で仕切っている。 格子の内側に2枚折りの明り障子の蔀戸(しとみど)を設けている。上は障子を開けたところ、下は閉めたとき。

 

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どま東面  貫:4寸×8分 下から3段目は込栓、他は楔締め    どま 通り側・大戸口を見る  日本の民家6 町屋Ⅲより

 

 高木家は代々酒造業を営み、嘉永7年(1854年)頃の当主が、この建物で、醤油屋を始めた、と伝えられている。

 豊田家のおよそ180年後の建設で、土台を用い、いわゆる大黒柱はなく、通し柱、管柱とも4.2寸角で統一している(北面庇部を除く)。

 飛鳥川に近く、地下水位約80cmの場所ながら、豊田家に比べると良好で、礎石の沈下は、東西両側の土台下で約2~4cm、礎石建て部分で約7cm程度と少なかった。 ただ、敷地四周の度重なるかさ上げにより、土台下や柱脚部の腐朽、虫害が激しい場所があった(豊田家ほどではない)。

 小屋組の損傷はきわめて少なく、雨漏りによる腐朽が見られる程度であった。(解説は高木家住宅修理工事報告書による)

 6尺3寸の畳を基準にした内法制。どま部分の逃げで調整。

 

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 1階 ざしき 床と違い棚

使用材料   礎石:自然石、切石   土台:ヒノキ 5寸角 継手:腰掛鎌継ぎ  柱:総数61本  内通し柱32本 ヒノキ  管柱ともすべて4.2寸角(北側庇部3.6寸角) 根枘 平枘 頭枘 平枘または重枘  大引:足固め貫は使用せず、大引、根太で代用。ヒノキまたはスギ 4.5寸×4寸程度 転用材が多い  貫:ツガ 4寸×0.8寸程度  差鴨居:マツ 6.5寸~10寸×4寸 柱仕口 込み栓 差鴨居~差鴨居 シャチ継ぎ  二階根太受け(胴差・床梁)マツ 丈6.5寸×幅4寸程度

 

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架構分解図            日本の民家6町屋Ⅲ (高木家住宅修理工事報告書)より

 

 豊田家の約180年後に建てられた建物。 いわゆる大黒柱、太い柱を用いず、通し柱、管柱とも4寸2分角とし、東側、西側の壁面では土台建てとしている。

 今井町で土台が使われるようになるのは、18世紀後半と考えられている。 土台は、礎石天端をある程度均した上、土台下端を削って据えている。  土台は、東西の側壁にだけ使われていることから水平の定規として扱われたのだろう。

 高木家では、足固貫が使われず、大引、根太がその役目を担っている。 これは、土台を据えた東西の軸部には足固めの必要がなく、その延長の考え方と思われる。

 

 豊田家では、貫は小屋貫以外では、軸部でどま東側面にわずかに使われているだけだが、高木家では開口の必要のない東西の面には徹底的に使っている。

 その場合、東西面では、柱を半間ごとに入れている。これは、大断面の材料(太い柱、差鴨居など)を多用しないことへの対策と考えられる。

 2階床は、豊田家と同じく、差鴨居の上の束柱で支えた根太掛け(床梁)に根太を架ける方法(後出の ほ通り分解図参照)。

 

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六通りの差鴨居 取付け分解図               高木家住宅修理工事報告書より(着色は編集)

 

 

へ-六 柱 差鴨居 仕口詳細図

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                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より 

 柱への差鴨居の仕口は、長い枘(竿)をつくりだし、① 込み栓でとめる ② 柱を貫通し、反対側の差鴨居に差し、シャチ栓で締める の方法がとられている。 これは、が4.2寸のため、貫通する孔の加工が容易だったからだろう(道具の進歩もあった)。 込み栓は、仕口内にあるため仕上がると隠れる。

 

 

ほ通りの根太掛け(床梁)の支持法と継手 ほ通りは、みせのま~だいどころ中央の南北の通り(平面図参照)。

                   

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                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より                                   

 根太掛けは、間仕切上の六通り、十四通りで腰掛鎌継ぎ継がれるが、その継手部を、各通りの差鴨居上の束柱が受ける。 それゆえ、束柱の頭枘:平枘を受ける枘孔は、継がれる2材に、半分ずつ彫られる。

 

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                                     日本の民家6 町屋Ⅲより

2階は全面竿縁天井を張り、すべてザシキとして使われている。 左:上がり口 右:全室を南から見る

 

参考 高木家の地震履歴

 高木家は、天保年間(1830~1843年)に醸造業を営む本家から分家しているので、その頃に建屋が建てられたと推定されている(嘉永7年=安政元年:1854年に醤油屋を開業しているから、どんなに遅くとも、その時には既に建っていた)。

以下、発生年月日、被災地、マグニチュード、被災状況の順で記載。

〇1854年07月09日(安政01年) 伊賀・伊勢・大和一帯        M7.2 奈良で潰家700戸 

〇1854年12月23日(安政01年) 東海・東山・南海諸道        M8.4:安政東海地震

〇1854年12月24日(安政01年) 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陽 M8.4:安政南海地震(前記地震の32時間後)

  註 上記安政期の三つの大地震に遭ったかどうかは建設時期によるが、おそらく遭ったと考えてよい。

〇1891年10月28日(明治24年) 岐阜県西部 仙台以南で有感   M8.0:濃尾地震 内陸地震で最大、全壊14万 

〇1899年03月07日(明治32年) 三重県南部           M7.0 大阪・奈良で煉瓦煙突被害多数

〇1936年02月21日(昭和11年) 奈良県北部           M6.4:河内大和地震

〇1944年12月07日(昭和19年) 紀伊半島南東沖   M7.9:東南海地震 静岡、愛知、三重などで全壊17599戸

〇1945年01月13日(昭和20年) 三河              M6.8:三河地震

〇1946年12月21日(昭和21年) 紀伊半島南方沖   M8.0:南海地震  中部以西各地で全壊11591戸

〇1948年06月15日(昭和23年) 紀伊水道南部          M6.7

〇1952年07月18日(昭和27年) 奈良県北部           M6.7:吉野地震

〇1955年01月17日(平成07年) 兵庫県南部     М7.3:平成7年兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災) 

 

 高木家は、建設後、何回も大きな地震に見舞われていることが分る。この地域の人たちは、昔から何度も大きな地震を経験しており、建物の「対地震策」についても十分検討がなされていた、と考えてよい。

 

 

参考 視覚と屋根の形

① 屋根勾配と見えがかり

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② 視覚矯正の手法

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③ 狭い道と屋根の形体  今井町の例

 

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④ 広い道と屋根の形体  妻籠宿の例

 

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