PDF 「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー4-1」A4版12頁
Ⅲ-4 中世の典型-4:千年家・・・一般の建物も、壁に依存していなかった
古代~鎌倉時代には、一般の住居の遺構が存在しないため、ここまでは遺構のある寺院建築など上層階級の建物を観てきました。
一般の住居の現存最古の遺構は、中世末、室町後期の千年家と呼ばれている住居です。現在、兵庫県下に古井家と箱木家の2戸の千年家が保存されています。
この2戸の建物のつくりかたには、後の住居のつくりかたの原型と考えられる点があります。それは、貫、飛貫(ひぬき)の活用です。詳しく観てみたいと思います。
1.古井家 室町時代後半 所在 兵庫県宍粟市安富 古井家は現地にて保存
兵庫県下には、千年家と呼ばれる建設年代が中世まで遡る住居が多数存在していた。その理由として、中世、兵庫県下の農村部は財政的に豊かであったため、一時しのぎではない家屋をつくることができたからではないか、と考えられている。
古井家は、姫路から20数㎞北に入った山間の地にあるが、一帯は古代~中世の瀬戸内と鳥取をつなぐ重要な街道筋で豊かな地であったという。
復元 平面図
平面・断面共に日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集
復元 桁行断面図 着色部は貫 足固貫(断面)、内飛貫、小屋貫
古井家は、上屋+下屋の典型的な架構。平面図の網掛け部が下屋。下屋の壁は大部分を土塗り大壁で囲う。
折置で梁を架けた軸組を7列並べ、四周に下屋をまわす。柱間は均一の数字ではないが、桁行は約6尺5寸、梁行は約7尺を目途にしていたと推定されている。 礎石を据える地盤面が東へと傾斜。
モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より
立地状況(南側から)
敷地周辺 右奥の茅葺は離れ座敷
▽ 修理時 南面 1970年(昭和45年)解体修理工事着手時の状況と復元後の写真。 ▽ 修理時 北面
復元後 南面
復元後 北面
写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より
敷地は東側半分を盛土で造成。修理時には礎石の不動沈下が著しく、周辺地盤のかさ上げにより四周の礎石は地中に埋もれ、柱の多くは根腐れを起こし、座屈や折損、仕口の変形などが見られた。
建設後、江戸時代に2回大きな改造が行なわれ、その後も改修、改造がなされている。
復元 梁行断面図 着色部材は、貫 日本の民家3 農家Ⅲより転載・編集
壁の仕様
修理前 大戸口まわり 復元竣工 大戸口
▽ 復元竣工 南面および開口部近影 板戸、明り障子片引き 日本の民家3 農家Ⅲより
修理前 おもて南面
復元竣工 おもて南面
モノクロ写真は、重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より
壁の仕様 重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より
壁は大壁と真壁があり、何れも江戸中期頃の改造以降のものであるが、下屋廻りにはにわ(土間)北側となんどの北及び西側に粗朶(そだ)を小舞とした外大壁(江戸中期と推定)、にわ(土間)東側にやや新しい(江戸末期と推定)丸竹小舞の外大壁がある。
粗朶(そだ)小舞の材料は長さ2~3cm・元径2~3cmのソヨゴ、リョウブ等延びのある雑木で、これを横間渡と縦小舞に用いている。 註 粗朶:切取った木の枝のこと ソヨゴ:モチノキ科の常緑樹 リョウブ:リョウブ科の落葉樹
間渡縛りは柱の見込み両面へ竹箆(へら)様の釣子つりこ(幅1.5cm内外、長さ7~8cmの肉厚竹を方刃尖かたばとがりに削ったもの)を間隔45~60㎝に打込み、その柱外面へ付けた間渡を、釣子と縄掛け二巻きで縛りつける。
小舞は縦を間渡の内側へ構目(かきめ)5cm内外に連れ巻きに縛りつけ、横小舞は径2~3cmの丸竹を縦と同様の構目で柱間3箇所程度構きつけ、隅では横小舞を柱角に沿って折り曲げ見廻しに通している。 註 構きつけ:掻きつけの意と思われる。したがって、掻目は掻く間隔
また小舞を柱に緊結する手法として、柱内側で柱頭部より約20cm下ほどの高さに丸竹を横に通し、その竹と柱外側の小舞を縄搦み(がらみ)した箇所もある。
壁土は藁苆(わらすさ)がかなり多く切り込まれ、石粒も大分混入したものが塗られており、にわ(土間)には所々に方30cmぐらいの下地窓を明けている。
地盤面と壁の立上りには、見切りがなく、いわば地面がそのまま立ち上がる形になっている。復元では足固貫、胴貫があるが、当初はなかったらしい。
(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 復元後の内部写真」に続きます。)