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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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「Ⅱ-3 参考, Ⅱ-4 貫で軸組を縫う」 日本の木造建築工法の展開

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(「Ⅱ-3」より続きます。)


参考1 桔木と筋かい―――古建築と斜め材の使用  

 ・・・・鎌倉時代(1200年代)には、柱間に筋かいを設け、間渡し材(塗壁の下地)を密に入れ壁を塗ることが行われたが、間もなく使われなくなり、主に小屋束まわりの補強に用いるだけになる。

 中世以降、軒まわりに桔木を使い、桔木上に小屋束を立てる小屋組が増える。

 桔木には1本ごとに形状の異なる丸太が使われるため、桔木上の小屋束の寸法が決めにくく、屋根の反り・流れを決めて母屋を所定位置に仮置きし、束を1本ずつ現場合せで切断、桔木、母屋に、枘なしで釘打ちとする粗放な手法が増え、その転び止めとして筋かいが使われた。

 ・・・(その後)、あらかじめ地上で梁、桔木ごとに墨付けを行う技術が確立、梁、桔木、母屋に枘差しで束を立て貫で固める小屋組が普通となり、筋かいの使用はなくなる。・・・・文化財建造物伝統技法集成より                                 

 

参考2 現存古建築で唯一の斜め材使用例 

 銀閣寺東求堂(とうぐどう)(1490年ごろ)で使われているたすきがけ

 銀閣寺東求堂の東面(2間+1.5間が全面開口部)の鴨居(内法)上の小壁に、力板を併用したたすきがけの例が遺されている(下図参照)。斜め材は、相欠きで交叉している。

 はつりは塗り壁の付着をうながすため(ただし、塗壁面に、筋かいに沿って亀裂が生じたものと思われる)。

 写真の竹小舞の裏側に、小壁の2/3程度の丈まで力板(厚約1寸:30㎜)が仕込まれ、筋かいは竹小舞の上に組まれ、力板は貫(厚約7分:21㎜、丈約2寸7分:80㎜)と継手で継がれる。小壁全体を合成梁として、東面の内法:鴨居下を、全面開口にするために考えられた工夫である。このような仕様は他に例を見ない。 全面開口にすることを第一に考え、それを可能にするように考えられた技術的な工夫。  

   

 

 

図は文化財建造物伝統技法集成より

 このほかの現存古建築には、又首、方杖以外、斜め材使用の例がない(49,50および60頁参照)。 

 

 

 

PDF「Ⅱ-4 貫で軸組を縫う」 A4版3頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

4.貫(ぬき)で軸組を縫う・・・・大仏様(だいぶつよう)の出現

 二重屋根で桔木(はねぎ)を使い、天井を張り、寺院のシンボルとして化粧の斗拱を取付ける建て方は、平安時代を通じて寺院建築に用いられます。その間、技術面では大きな進展は見られませんでした。

 この寺院建築の技術的な停滞を打ち破ったのが、鎌倉時代の初頭(平安時代の末期)に表れる大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる架構法です(なお、ここでは、鎌倉時代以降を中世として呼ぶことにします)。

 大仏様とは、源平の争乱の末、治承4年:1180年、平重衡の焼き討ちで焼失した東大寺の再建にあたって使われた架構法:工法のことを言います(東大寺大仏殿再建に使われたために付けられた呼称です)。

 それは、古来の寺院建築の形式にこだわらず、二重屋根をつくらず、化粧のための細工をせず、長押の代りに柱列を何段もの横材:貫(ぬき)で貫き固め、必要とする空間を架構だけでつくる方法です。

 その意味では、架構=空間という建物をつくることの原点へ戻ったつくりかたと言えるでしょう。 

 大仏様は、東大寺の再建を委ねられた僧重源(ちょうげん)の下で、中国宋の技術者、とりわけ中国南部の福建省出身の技術者によって伝えられた工法で、日本にはなかった工法である、と言われています。

 たしかに福建省には、下の写真のような貫を多用した一般の人びとの建物が残っていますから、福建省あたりでは普通の工法であり、当然寺院建築にも使われていたと考えてよいでしょう。 

  

    

永安槐南 安貞堡内の建物(年代不詳)貫が多用されている 老房子(江蘇美術出版社)より 

  しかし、それは中国・宋だけに特有の技術で、それがこの時代に日本にはじめて伝来した、とは思えません。 なぜなら、木造軸組工法が主体の地域では、開口部などをつくるときに、柱の間に横材を取り付けることは日常的にあるからです。

 その場合、横材の大きさより大きめの孔を柱に彫り、そこに横材を差し、横材と孔の隙間に埋木をすることは、あたりまえに行なっていたと考えられます。

 その孔を貫通させ、横材を通して埋木をすると丈夫な枠ができあがることにも気がついていたと思います。 

 つまり、木造軸組工法が主体の地域では、貫状の部材を柱の間に組み込むことは早くから行なわれていたと考えられるのです。現在の歴史観では、文化や技術が一発祥地を起源として下流へと伝播する(いわゆるルーツ論)とは考えず、同じような状況では同じような文化が生まれる、と考えます。

 佐賀県で発見された弥生時代の巨大な集落・住居遺構吉野ヶ里遺跡で発見された数多くの巨大な掘立て柱痕に対して、貫状の部材を使った櫓(やぐら)状の建物が推定復元されていますが、これは、弥生時代でも、柱に孔をあけ横材を差す仕事ができた、という判断が復元者にあったものと思われます。 

 日本でも、宋の技術者に教えられるまでもなく、貫状の材を柱と柱の間に設ける技術は身につけていたと考えられます。寺院建築で、この技術を使わなかっただけなのではないでしょうか。 

 また、東大寺再建という大仕事は、宋の技術者がかかわったとしても、宋の技術者だけで行なったのではなく、わが国の技術者も多数協働していたと考えられます。後で詳しく見るように、大仏様の工法は、細部の設計から施工手順に至るまで、きわめて精緻に考え抜かれた仕事がなされていますから、この工法:仕事の仕方に技術者たちが手慣れていたと考えられます。

 それゆえ、同じような工法が当時の一般社会ではあたりまえに行なわれていて、その方法・工法に慣れた技術者がまわりに多数いた、そしてそれが寺院建築にも応用された、と考えられるのです。  

 この技術者たちは、多分、一般の人びとの建物づくりに従事してきた人たちだと思われます。

 一般の暮しには、形式はいりません。彼らは、より実質的な、現実の暮しに合い、環境にも合った丈夫な建物をつくることに努めてきた人たち、と言ってよいでしょう。

 平安時代の末期は、それまでの公家・貴族に代って武士が台頭し始め、一般の人たちが力をつけて、それを表すことができるようになった時代ですから、そういうことが起きてもおかしくないのです。同様の現象は、後の戦国時代の城郭建築においても見ることができます。

 では、大仏様とは、どのようなつくりかたなのか、具体的に見てみます。

 大仏様の名の由来になっている再建された東大寺大仏殿は、その後ふたたび消失してしまいましたから、その姿は、そのとき同じ工法で再建された東大寺南大門(36頁参照)や兵庫県小野市にある浄土寺・浄土堂(下の写真参照)の姿から想像するしかありません。

 浄土寺・浄土堂の上棟は、東大寺大仏殿の上棟後の1194年、南大門の上棟の5年前にあたり、浄土寺・浄土堂については、詳細な「国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書」(浄土寺)が刊行されていますので、その調査・報告を基に、大仏様のつくりかたを紹介します。 

  

正面外観 日本の美術 №198 鎌倉建築(至文堂)より        堂内上部  国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書より     

    堂内東側 日本の美術 №198 鎌倉建築 より

  浄土寺・浄土堂は、写真のように、軒先は水平で、垂木の端(鼻)は、鼻隠し板があるため、見えません。また、斗拱も外に向かっては一方向しか出ていません。そのため、従来の寺院建築とは、外観が大きく異なります。多くの人が、この外観から受ける感じと、堂内に入って受ける感じの落差に驚嘆します。

 

 

参考 浄土寺・浄土堂、東大寺南大門以外の現存する大仏様の主な建物(86頁参照)

                            図・写真 奈良六大寺大観 法隆寺一、文化財建造物伝統技法集成より

 

東大寺・法華堂(ほっけどう)(三月堂) 

 

 

  左側の正堂は、奈良時代:749年(天平宝字3年)以前の建立で、基壇を版築で設け、亀腹に仕上げている。右側の礼堂は鎌倉時代、1199年(正治元年)大仏様により建替えられた。なお、小屋裏の筋かいは後補。

  西立面(右写真)では、奈良時代の長押と鎌倉時代の貫の違いを観ることができる。

 

 

東大寺・鐘楼(しゅろう)

 

 1207~10年(承元年間)ごろ、栄西によって建てられた。 横材は、下から地貫、飛貫、内法貫、そして頭貫。組み方の手順を間近で観ながら考えることができる。

  

 

東大寺・開山堂 

 

 

 当初、1200年(正治2年)ごろ、1間四方の内陣が建てられ、1250年(建長2年)現在地に移築、外陣を増補。内陣は重源による。 大仏様の手法が各所に見られ、右図の柱-頭貫-繋虹梁の取合いはその一例。

  


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