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「Ⅱ-1竪穴住居~掘立て~礎石建の過程」 日本の木造建築工法の展開

 PDF「Ⅱ-1竪穴住居~掘立て~礎石建の過程」 A4版10頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 投稿者より:goo blogで投稿画像仕様の一部変更があり、PC(ディスクトップ)によっては、画像の位置がずれてしまいます。画像は大きめに挿入していますので、ご理解のほどお願い申し上げます。

 

「日本の木造建築工法の展開 Ⅱ 古代・中世」 

遠藤新の言葉    ・・・・・ 日本の建築家は「新しい」という事許(ばか)り考えて「正しい」という事をおろそかにした。  何が正しいか、立体建築観が正しい。・・・・・  此迄(これまで)の建築家は人の心を考慮に入れていない。  心理の考慮なき建築は死人を容るるに適して生きたる心の住家とはならない。  いま有りとあらゆる建築家は棺箱を作ってそれに人を入れることを強要してる罪人だ。・・・・・ 「建築評論」大正九年四月号  

 ・・・・・ 建築を大きくばかり造っても、其所に材料の持つ大きさが出て来ないと意気地がない。  今日の構造学には、こゝな用意がない(尤(もっと)も構造学というものは、いつになってもそんな用意を知らないものだが)。  そして、建築は材料に引きずられずに構造学に引きずられる。  そこで、建築が意気地なくなる。  思いつきや、利口さや、小手先やの細工は、更にも建築を弱く、小さく、意気地なくする。  文化の爛熟の間にも、一脈の単一至純な原始的な力が潜んで居るようでなくてはいけない。・・・・・  「アルス美術講座」(昭和二年刊) 「建築美術」

 

主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります。 日本建築史図集(彰国社)  日本住宅史図集(理工図書)  日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)  奈良六大寺大観 (岩波書店)  国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書(浄土寺 刊)  古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅修理工事委員会)  滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)  日本の民家(学研 絶版)  日本の美術 (至文堂)      

          

 Ⅱ-1 竪穴住居~掘立て~礎石建の過程

  1.竪穴住居・・・・原始的な木造軸組工法の住まい

 下の図は、木の豊富なわが国の原始的な住まい、竪穴住居のつくりかたの順番を示した図です(日本住宅史図集から転載。なお、西欧の竪穴住居の例は44頁参照)。

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  先ず深さ50cmほどの穴を掘り、2本の柱を立て、その上に横材:梁を渡して門型をつくり、これと平行に、同じ門型をもう一組並べます。次に、今の門型に直交して、横材の上に新たに横材:桁(けた)を2本架けます。4本の柱の上にできた横材のつくる長方形の枠からまわりの地面に向け、屋根材を受ける木:垂木(たるき)を斜めに渡します。大きな建屋の場合は、門型を2組以上つくればよく、小さな場合には稲掛けのように、柱を立てず垂木(たるき)だけで円錐状の形とすることもあります。木と木の接続には、縄や蔓でしばる方法がとられていたようです。

 屋根は、藁(わら)や芒(すすき)・葦(よし)の類(茅かや)を葺く茅葺(かやぶき)が主でした。これは西欧でも同じです(44頁参照)。

  竪穴住居の復元例は、各地の郷土資料館などで見ることができます。下の写真は、1945年ごろに発掘された登呂(とろ)遺跡(静岡市)の復元家屋です。

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 静岡県 登呂遺跡 復元竪穴家屋     復元にあたって、出雲地方の右図のタタラ小屋(砂鉄精錬用施設)が参考にされた。

下左は登呂遺跡の全体平面図。  登呂遺跡には、掘立て高床式の備蓄倉庫と考えられる建物(下の写真)もあったと考えられている。            図、写真は日本建築史図集より

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 2.竪穴住居から掘立柱の軸組工法へ・・・・上屋(じょうや)と下屋(げや)(あるいは母屋(もや)と廂(ひさし))

 竪穴住居にしたのは、空間内の保温のためと考えられていますが、ただ湿気やすく、また垂木も地面に接していて腐りやすいため、生活面は徐々に地上へと変ってきます。

 そこで生まれたのが、掘立柱を立て、屋根を架ける現在の木造建物の原型と言える建て方です。これは、2本の掘立柱に横材:梁を掛けた門型を2列以上並べ、その両端に直交して横材:桁を流して直方体の外形をつくり、その上に屋根を載せる方法です(次頁の図参照)。

 垂木は地面まで延ばさず軒先だけです(古墳時代には、すでに屋根が地面から離れた建物が現れたと考えられています。下の平出遺跡復元家屋写真参照)。次いで、四周の柱と柱の間に壁や窓や出入口をつくれば安心して暮せる空間ができあがります。これが軸組工法のつくりかたの原型です。 なお、順番を逆にして、先に長手に桁を架け、次に梁を架ける方法もできます。

 掘立柱による建て方は、柱を立てるのが簡単なため、人びとの住まいばかりではなく、たとえば奈良時代の平城宮の建物にも使われており(34頁の写真および下の写真参照)、また伊勢神宮では掘立柱をしきたりとして守って現在に至っています(20年ごとに建替える:遷宮(せんぐう))。

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上左は、長野県塩尻市の平出(ひらいで)遺跡に復元された掘立式の竪穴住居。   平出遺跡には、縄文期から古墳時代に至る間の住居址が発掘されていて、この写真は古墳時代の住居の推定復元。 地面に残された痕跡から、この時代には、垂木が地面を離れ建屋の四周に低い壁が設けられていたと推測されている。 日本建築史図集より

 下左は、平城宮址で発掘された掘立柱の柱脚。埋戻しまでの間、柱の直立を維持するため柱底部に噛ませた十文字型などの木材も発掘。鈴木嘉吉著 古代建築の構造と技法より  下右は、伊勢神宮 外宮・御餞(みけ)殿の実測図。掘立部の詳細は示されていない。       日本建築史基礎資料集成 一 社殿Ⅰより

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  この掘立柱の架構でできる空間の大きさは、横材:梁の長さで決まってしまいます。人力で運んだり、持ち上げたりするには、横材の長さや重さに自ずと限界があり、材種にもよりますが、その長さは、おおよそ4~5mぐらいのようです。そのため、門型の大きさにも、空間の大きさにも限界があることになります。

 時代が経つと、横材を継ぐ方法・技術も生まれますが、当初は、材料を継がず、1本でつくるのが普通です(もちろん、多数の人数を集めることのできる東大寺などの建物では、横材に長大な材料を使っています)。

 空間拡大のために考えられたのが、最初につくった建屋の周囲に新たに柱を立て横材でつなぎ、空間を増やす方法です。最初につくった部分を、上層階級の建物では母屋(もや)(身舎)と呼び、追加した部分を庇(ひさし)(廂)と呼びますが、一般には本体を上屋(じょうや)、追加部分を下屋(げや)と呼んでいます(図A参照)。

 図A 

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B図

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 追加部分:下屋は、各面につけることができ、寺院の建物には、図Aの右側の図のように4面全部に下屋:庇を付けた形が多く見られます。寺院では、図Aのように、三間四面などと上屋の正面柱間数と下屋が何面に付いているかを示して建物の大きさを表すことがあります。また、その場合の屋根の形を、母屋が中に入っていることから入母屋(いりもや)屋根と言います。なお、下屋には、上屋を支えることにより、風や地震に対して丈夫な構造にする効果がありました。

 掘立柱による建物づくりは、柱の根元が腐りやすいため、徐々に礎石の上に柱を立てる方法(礎石建て、石場建て)に変わってきますが、上屋+下屋=母屋+庇の方式は、そのまま継承されます。註 西洋の教会堂も、側廊+身廊+側廊の構成をとっている(上図の二面庇に相当)。

 

参考 西欧の竪穴住居、掘立柱 

竪穴住居、あるいは掘立柱は、木造で建物をつくる地域には、共通に存在する。最も容易に「住まう空間」を確保できる方法だからと考えられる。以下はスイスの例。図版は Fachwerk in der Schweiz (Birkhauser)より

 棟木(桁)の架け方 Image may be NSFW.
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小型の竪穴住居 最も簡単な屋根                大型の竪穴住居         

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上:地面に叩き込む 下:柱を据え石や土を詰め固める、 柱は柱脚に置いた繋板を貫いて地面に差す、 紀元前1600年頃の掘立柱の建屋        

 

参考 礎石建て高床式建物 法隆寺・綱封蔵(こうふうぞう) 平安時代初期の建設(所在は、58頁 法隆寺寺域図参照)             

 建造物の復元にあたっては、類似の建物が参考にされる。掘立て高床建物の場合、柱の痕跡しか分らず、復元にあたり礎石建ての高床建物が参考にされた。下は、法隆寺・綱封蔵の平面図、吹き抜け部分、床組の継手・仕口。 このように、床組を先ずつくり、その上に上部の柱を立てる方式は、校倉造の蔵(正倉院など)も基本的には同じで、登呂遺跡の高床復元建物もこれに倣っている。 図・写真は奈良六大寺大観、文化財建造物伝統技法集成より

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3.掘立柱から礎石建ての軸組工法へ

礎石建てになっても、地上部の架構のつくりかたは掘立柱の方法と大差はありません。下図は、礎石建ての建物で、上屋+下屋=母屋+庇方式でつくってある例です。

 図で薄く色を付けたところが庇=下屋にあたります。新薬師寺本堂は、奈良時代初期の寺院建築の姿を今に伝える建物で、中国にならい、盛土をしてよく叩き締めて(版築はんちく)基壇をつくり、その上に礎石を据えて柱を立てています。また、屋根の勾配も、中国にならい緩いのが特徴です(図は日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰより。

 古井家は、すでに触れていますが、わが国の住宅遺構で最も古い建物の一つで、礎石建て、茅葺屋根です。中国山地にあり、外壁(下屋の外壁)は土壁で塗り篭めています(内部は真壁)。

 新薬師寺本堂では、約30尺(約9m)隔てた2本の柱の上に梁(はり)を掛けて門型をつくり、それを6組横並べにして母屋:上屋の外郭をつくります。柱と柱の間隔は両脇の2間は10尺、中央は約15尺です。

 古井家では、約6m隔てた2本の柱の上に梁を掛けた門型を7組、ほぼ等間隔に並べ、上屋の外郭がつくられています。古井家の場合は、梁が細めのため、中央にも1本柱を立て梁を支えています。

 両者とも、庇:下屋は、母屋:上屋の4面に付けられています。 

 一般に、古代の寺院では、母屋:上屋部分は仏像を安置する聖域とし、庇:下屋は拝む場所として使い分けています。三十三間堂は聖域の母屋:上屋の正面の幅:間口が33間あることからの通称で、四面に1間幅の礼堂になる庇:下屋が付いています(三十三間四面堂、外観では柱間が35間あります)。 

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新薬師寺本堂(57頁参照) 8世紀中ごろ 奈良市高畑町          古井家 15世紀末ごろ 兵庫県宍粟市吉富

 住宅の場合は、そういう使い分けはなく、部屋の中に上屋柱が立ち並び、暮す上の障害になっている例が多数あります(近世になり、その部分を縁側にする例はあります)。そのため古井家では、江戸時代に不要な柱を取り去る工夫がなされて改造されていました(28頁間取り変遷図参照)。

 

(Ⅰ-4へ続きます。)


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