PDF「筑波通信 №7」1981年10月 A4版16頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)
「筑波通信 №7」 1981年10月
七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか・・・・
青森県上北(かみきた)郡七戸(しちのへ)町と言っても、知る人は少ないだろう。東北本線の特急で上野からちょうど8時間三沢で私鉄に乗りかえ30分、終点の十和田市から更にバスで30分、国道4号(陸羽街道)沿いにある小さな町である。地図(別図)でわかるとおり、八甲田連山の東側のすそ野にひろがる火山灰台地に切りこまれたひだのような低地:数本の小河川の合流点にある町だ。
それらの河川は全て小川原(おがら、あるいは、おがわら)湖にそそぎ、周辺には縄文期の遺跡が点在するそうである。古来、この火山灰台地では馬の放牧がさかんであったようで、江戸時代南部支藩七戸藩の城下町(柏葉城という:いまはわずかに跡をとどめるのみ)陸羽街道の宿場町として栄えるとともに、本邦産馬の中枢地(七戸馬として世に知られたという)としても大いに栄えた町であったようである(いまから18年ほど前訪れた当時、まだ馬市場が残っていたように思う)。いまでも人々の生業は、低地での水田(特に第二次大戦後発展)台地での畑作(殼類の他に、ながいも、たばこを多く見かける。以前は桑も多かった)と馬(戦前は軍馬、戦後は競走馬)牛(肉牛:昭和30年代より)の放牧が主たるもののようである。人口は現在約一万三千。一歩町なかをはずれると、一見のどかな風景が展開する。それというのも、明治の鉄道敷設に反対したため、東北本線は野辺地(のへぢ:下北半島の入口)まわりとなってしまい、そういった意味での発展からはとりのこされたからであろう。しかし、いま考えてみて、それが町にとって損失であったとは一概には言えないように私は思う。
この町のどこを歩いていても大概、ふと西の方を見やると、八甲田連峰のすばらしいながめを目にすることができる。秋から冬へ、冬から、春へ、この山は季節の移り変りをもののみごとに表現してくれる。
今回と次回、この七戸町との係わりにまつわることどもを中心に書いてみようと思う。というのも、私にとって、この七戸町との出会いというのが即ち設計という行為との初めての、そしてほんとうの出会いに他ならず、そのとき手さぐりで考えたことというのが、おそらくその後の私の建築に対する考えかたそのものに、決定的といってもよい影をおとしているように思えるし、また、この間七戸町において行なわれてきた各種の建物づくり:町づくりというのは、これは十分注目に値することのように思えるからである。
いまから18年前(1963年)私はこの町の小学校を設計した(私の意識では、この町に小学校を設計したというのではない)。私が26歳のときである。はるか昔のことである。
この8月の末、久かたぶりにそれを見に七戸町へ行ってきた。その学校の完成以来ほぼ五年に一度は訪れているし、設計の前年から工事中にかけての数年間というものは、ひっきりなしに通いつめたから、町なかの様子も大概分っているつもりではあったのだが、それでもやはり役場が新しくなっていたり、道が付けなおされていたりして、多少道に迷うこともあった。けれども雰囲気は相変らず昔のままであった。
「航空写真」は次号「筑波通信№8」より
「建築 1965年5月号」より 青銅社 設計 東京大学吉武研究室 (後方の山は八甲田連山。2枚の画像は共に投稿者による挿入です。)
今回は初めて、鉄道を使わず車で訪れたのであるが、着いた日の夕刻、七戸の手前十和田市のあたりから見えだした落日の八甲田連山は、思いのほか大きく、おそらく初めてそれを見た同行の人たちも、きっとその姿に感激をおぼえたことと思う。実際それはすばらしかった。
けれども私は、それにも増して、その姿に「懐しさ」を覚えたのである。「帰ってきたな」「着いたな」そういう少し大げさに言えば胸さわぎを覚えるような、そんな感じを抱いたのである(おそらく同行のだれ一人として、この私の気持には気づかなかったと思う)。それは、すばらしい風景が見えたなどという以上の、そんなのとはまるっきり違う感情である。そして私は、その町に住んでいない、住んだことのない私が、そういう「懐しさ」を覚えたということで、実はほっとしたのである。
それはどうしてか。
ある所に住んでいる限り、どうしようもなく気にかかって(というより、気にかかるように)見えてきてしまう地物などの光景というものがあるが(いま書いている話では八甲田山がそれにあたる)、それを見るあるいはそれが見える、見えてしまう、ということは、そこに住む人々にとって、極めて重要なことなのだ。それは単なる観光的景色:最観なのではなく、自分の住む場所、あるいは住んでいるということそれ自体を言わば象徴する(それが見えるということが即ち生きている、住んでいることに他ならず、そのことの象徴・履歴として、永く心に沈潜し、故に「懐しさ」となる)従って、そこに住む以上欠くべからざることなのであって(先号の言いかたで言うならば、「私の地図」のなかに、かならずその姿が表われでるということ)、だから、そうである以上、設計をする:その町に住む人たちの生活が展開する場所づくりに係わる:にあたって決して見逃がすことのできないことである。これが、その当時、その小学校を設計したとき、私が考えた極めて重要なポイントの一つであった。前ページの末尾で、この町にではなくてこの町のという意識であると書いたのはこういう意味なのである。
普通、学校といえば、「子どもたちの教育の場」であると考えられ設計されるのが常なのだが、私がここで言ったのはこの学校に来るのは「一般的な子どもというもの」という子どもたちなのではなく、あくまでも「この町の」子どもたちなのだということなのである。そして、「この町」の「この」の内容を特定するものの一つとして、こういったどうしても「気になる」地物などの光景が重要な役割をはたしているのだ。こう考えたのである。その当時、一般には、この「この」なしに、つまり固有:特定名詞でなく一般名詞でことが処理されてゆくのが常で(いまだって変りないのだが)、それに対し、それは絶対に誤まりであると私は思っていた。
しかしながら、いまここで書いてきたようなことがらというのは、言わば「見えない」ことの話であるから、当時、このことについていくら口で説明したり文章を書いたりしたところで、なかなか分かってもらえなかったし、とりわけ、建築をやっているなかまのなかで、私の言わんとしたことを分かってくれる人、分かろうとしてくれる人は、ほんとに少なかった。それに、第一私自身、先回書いたように、そういった気になる地物を目の前にするような生活というのは、疎開のときのほんの一年そこそこの体験しかないし、それだって竜王での南アルプスは八甲田の山容に比べめりはりがなく壁のようで、気になりかたが少なかったように思う。だから、いま簡単に述べた私の考えかたというのは、私自身のほんのわずかな体験が基になり、あとは言わば頭のなかで組みたてた、どちらかといえば、私の「推量」にすぎないことであった。きっと確かなことなのだとは思っても、「実証」し「説得」する力に欠けていた。
当時、この説明の為によく使ったのが、「ふるさとは遠くにありて想うもの」ということばであった。ふるさとに居続けるかぎり、さしづめ空気のようにその存在の有無が分らないものとなっているふるさとも、そこを離れたとき初めて見えてくる、しかもそれはかならず、そのふるさとを言わば象徴する光景の姿を想い描くことによってなのだ、それをこのことばは言っているのである。私はこう説明した。その場所を離れ、あるいは十年後、二十年後、時間が離れたとき、初めてその意味が明らかになるはずだ。十年後、ここに育った町の人に尋ねてみたい、尋ねてみれば分る、苦しまぎれにこうも言った。しかし、ほんとはそれは難しい。いまここで言っているようなことは、そういう状況のまっただなかに在る人は意識しておらず。むしろ、知らず知らずのうちに浸っていると言った方があたっている。尋ねられたところで答えようがない。そういうことは、よほどのことでもないかぎり、普段は意識にのぼらない。いったいこれを、どうやって「実証」したらよいのだろう。
いま現実に十数年たってみて、私自身、その光景に「懐しさ」を覚えたとき。これでよい、これで十分だと私は思った。誤っていない。私の考えていたことは、当っている。自分自身の体験という「実証」ができつつある、そう思ったのだ。だから内心ほっとしたのである。そこに住んでいる人に比べれば、私のその町での体験は全くとるに足らないほど少ない。そうであるにも拘らず、その私が「懐しさ」しかも「帰ってきた」という感情さえもったのだから、あとは推して知るべし、そう思ったのだ。
けれども一瞬、しかしこれは、自分が設計したという「思い入れ」がそうさせているのではないかという疑念が頭のなかをよぎった。しかし、設計当初はともかく、設計して十年以上もたってしまうと、設計者は意外と冷静でいられるもので、その建物を客観的、第三者的に見ることはもちろん批判・批評することもできるようになるものである。設計者であり同時に観察者であるということが、ほぼ可能になってくる。言うならば、昔の恋人に会っても、確かに一方である種の感懐を抱きつつも、割とクールに話ができるような、そういった年月というフィルターがかかってしまうようなのだ。というか、年月がいろいろな夾雑物を流し去ってしまうのだろう。私はそんなことを頭のなかで反すうしながら車を走らせていた。そして、何度も思いなおしながら、やはりこの「懐しさ」はほんものだ自然にわき起ってきたものだ、そう確信に近い感じを抱いたのであった。
私は先号のあとがきで、いつも山々に囲まれている人たちが、いまその山々にいかに対しているか尋ねてみたいと書いた。先々号でも、「幼き日の山やま」という随筆を引用して、山への対しかたの話を書いた。しかし、先々号の場合には、そり焦点は別なところを目ざしていた。けれども、私がこの随筆に目をとめたというのも、このある程度確信はもてても、いま一つ「実証」し難いこういう地物の光景の人との係わりそしてその大事さということに対して、この間ずうっと関心があったからなのだと思う。考えてみれば、私はこの間、はるか昔に考えたことを、自分の身で体験し感じて「実証」するために生きてきたのかも知れない。それはきっと、私自身が体験をつみ重ねてゆくなかで、徐々にその姿が明らかになってくることなのだろう。これは人間の心情に係わることだから止むを得ない。
けれども、十分にかたちを成していなくても言わなければならない。そう私は思い続けてきた。こういった「目に見えない」ことは、「目に見える」ことだけにかかずりあい、それらに分解するだけでこと足りるとする「合理主義」の下では、どんどん無視されていってしまうからである。「体験の内容と成り得る」ものが無視され、忘れ去られてしまうからである。そのように、どうしても私には思えてならなかった。だから、どうしてもそれを言わなければならない、しかも、建物づくりをしつつ、あるいはそれを通じ、言わなければならない、そう思ってきた。しかしながらそれは、それを確かなものにしようとしつつある途中の(その途中がいつ終るのか分らない、というよりむしろ多分終わりがない)段階で言わなければならないことだ。だからずうっと、はがゆく、もどかしいことの連続だった。ときには、これは全く私の独りよがりの考えかたなのではなかろうか、既にして出だしを誤まったのではなかろうか、そう思うこともたびたびあった。そのたびに、こう考えた方が、人々の諸々の営為:人々が生き暮してきたこと、やってきたこと、・・・・言集のほんとうの意味、詩や文学の存在の意味、そういったことが、少くとも私にはよく分るような気がしたし、それにも増して、ほんの少しではあるけれども現に同じように思い、語りかけてくれる人たちがいるではないか、そう思いなおしては、気をとりなおしてきた。
翌日の朝のこと、同行した人の内の一人が、朝もやのなかに浮いた八甲田山をながめていて、しばしの沈黙ののち、いつもこれを目の前にしている人たちには、これはどう見えるのだろう、そういった内容のつぶやきをもらすのをきいて、だから私は、無性にうれしかった。この人も、単に景色を見ているのではないぞ、そう私には思えたからである。
いま私は、八甲田の光景から話をすすめてきた。けれどもそれは、なにもこういった目だった地物についてだけの話ではない。私たちをとり囲んでいる一切のものというのが、それなりにそれぞれ、私たちにとって、「気になる」ものとして存在しているのだと言った方がよいのである。けれどもこれも、そのことに先ず気づくことから始めなければならない。いま、そのことの一環として、先ず、このような「目だった」ことの話からすすめたにすぎないのである。
私たちは私たちが「私たちの地図」をもっていることに気がつくべきだ、このように私は先号で書いた。いま書きつつあることは、これに関係してくる。いったい何故、こういったことに気がつくべきだと言うのか、どうしてもこの点についてもう少し説明を、無理してでも、する必要に迫られる。
私たちがいま、たとえば、ハイキングなり山歩きをしていると仮定しよう。大分歩いておなかが空いてきた、ころあいもよいし昼食にしようということになる。そのとき私たちはどうするか。目的は「空腹を満たすこと」にあるとして、所構わずすぐさま弁当をひろげるだろうか。そんなことはない。ないはずである。私たちは、場所を探し腰をおろす。そして、落ちつけたことを言わば確認して、それからおもむろに弁当をひろげる。だいたいそういう手順になるはずだ。
私の住む筑波研究学園都市のある小学校のグラウンドは、起伏のある広い芝生、樹林、池(林や池は、大かた昔からのもの)のある公園に隣りあっている。ここでは、学校にも公園にもヘイというものがないから、どこまでが学校で、どこからが公園なのか、一見したところ区別がつかない。この小学校の秋の運動会は、これまたいま都会では考えられないほど昔風で、学校の行事ではあるけれど、むしろ子どもを軸にした家族ぐるみ町ぐるみの行事として、結構にぎわいをみせる。その運動会の昼の休憩は、それぞれの家族が思い思いに、このグラウンドから公園に散らばって昼食をとるのであるが(運悪くその日親が都合のつかなかった子どもたちは、よくしたもので、知人の家族と一緒にやっている)、それを観察していると、その席とりの様子が、まことにむべなるかなという様相をとるのがよく分る。決して、どこでもよい、というようなことにはならない。出おくれた家族が、止むを得ず、所在ない場所にとり残される。
二年ほど前、子どもと八ヶ岳の一画に登ったとき、一休みしようとして腰をおろし、持参のカンジュースをのみ、ふと座ったところの地面に目をやったところ、そこにカンジュースの引きぬいたフタが数個、泥にまみれて落ちているのを見つけ、なんだ、みんな私と同じ格好をしてここに腰をおろしたなと思い、なんとなくおかしく思ったことがある。
こういったことはまた、喫茶店の席とりのことを頭に浮べてもらっても分る。だれと(何人で)いかなることのために、つまり、恋人と密やかに人目を気にしてお茶をのむのか、公然とのむのか、あるいは一人で物思いにふけりたいためか、単なる時間つぶしか、あるいは数人集まって楽しい話をするのか、それとも深刻な話をするのか、‥‥それによってみな座りたい場所がちがっていて、ときには喫茶店そのものの選びかたさえも違ってくる。
いまここに思いつくままにならべた事例をどう見たらよいか。
これは、私たちがなにかを為す場合、そのなにかを為すためのそれなりの場所を要しているということであり、また、私たちのまわり(の空間)には、そういう具合に私たちがなにかを為すのに向いたそれなりの場所、つまりいろんな性格を感じさせる場所、というものが無数に存在し・・・・より正しい言いかたをするならば、私たちが私たちをとり囲む空間のなかに、いろんな性格の存在を(瞬間的に)感じとっている‥‥私たちはそのなかから適宜、そのときの私たちのありように応じ、それなりの場所を私たち自らの感じるままに(瞬間的に、そして決して信号機の青・赤の約束ごとに機械的に従うようにではなく、言わば主体的に)取捨選択し探している、ということなのである。
先日の夜、我が住む町の近くを車で走っていたときのこと、隣りに座っていた私の友だちが、まわりに展開してゆく景色を見ていて(私は目をこらして道を見ているからそういう余裕はないのだが)「こわい森だ」とか「心なごむ林だ」とか「ほっとする揚所だ」とか感想を述べ続けていた。昼間見なれた風景も、夜になると際だってその特徴が露わになって見えてくるものだ。そしてこういう感想は、次の段階として、ここなら住めるとか、ここには怖い伝説でも生まれてもおかしくないとか、そんな話へ発展していった。つまり、ある感じをいや応なく私たちに抱かせる光景(場所)というものが、私たちのまわりには充ち充ちており、それがそこでの私たちのふるまいを、言わば支配するのであり、また当然のことのように、私たちは私たちのふるまいを(実際に行動に移さなくても)予測することができるのだ。
いったいなぜ、単なる木の集まりにすぎない森が、ある森は人をして「怖い」と思わせ、またある森は「なごんだ」と思わせるのか、これは詮索したらきりがない。しかしここでは、そういう事象があるということ、そういうものなのだということ、このことを認めてもらうだけで十分だ。
私たちの普段の生活において、かくあることがある以上、建物づくりもまた、まさにこういうことを認め、理解することから始まるべきではないか、なぜなら、建物づくりによってできてくる場所というのもまた、いま述べてきたような場所の一員になかまいりすることになるからだ、これが、その昔私の考えたことであった。以来、基本的には少しも変っていない。
だから、先号で書き、またこの文の初めにも触れた「私の地図」というのは、私のまわりにある場所のなかに、そのときの私なりに(子どもなら子どもなりに)いろんな性格の差をみつけだし、それらを私なりに頭のなかで組みたて描いている、そういった地図のことだ。それは決して測量図としての地図そのものではなく、それに比べれば不完全だ。けれども普段、私たちには測量図は必要でなく、こういった「私の地図」で十分間に合ってしまう。そして、私たちがなにかをしようとするとき、私たちは即座にその「私の地図」の一郭に、そのための湯所を探しだし、あるいは逆に(子どものころを思いだしてもらえば分ると思うが)その地図に描かれた、自分のものとなっているあたりをなんとなくそぞろ歩いていて、出くわした場所場所で、そこなりの遊び(やること)が触発される。
先回、川を渡った向う岸は「私の地図」には載っていないという書きかたをした。けれども実は、その言いかたはほんとは正しくない。載ってはいるのだ。ただその載りかたがちがう。なにか得体の知れない場所、怖い場所、ない方がいいけれどある、そういう場所としては載っていたはずなのだ。なにかおどろおどろしい場所がそこにある、近づけない、そういう風に。そのかわり、それに対置して、こちら側には、私の意のままになるところが、ちゃんとあるのである。これが「私の地図」なのだ。
おそらく人々が「測量した地図」というものをもっていなかったとき(先回、これを私は「本物の地図」と表現したのだが、この通信をいつも熱心に読んでくれ必らず批評してくれる人から早速クレームがついた。本物は「私たちの地図」の方なのではないかと。そこで今回は、測量した地図と言いなおしているのである)、人々はこういう具合に、住める・住めない、行ける・行けない、等々といったことに基いた「地図」をもっていた。そして、それに拠って自分たちの住む場所を確保してきた。もちろん何を食べて生きてゆくか、それは住む場所を決めてゆく必要な条件であったことは確かではあるけれど(採集経済と農耕経済では場所がちがう)、それで十分な条件なのでは決してなく、つまり食えればどこでも所構わず住んだのではないことは、こういう見かたで遺跡分布図などを見てゆくと、自ずと明らかになってくる。むしろ、いま以上によく考えられていたのではないかとさえ思いたくなる。いまの文明下の生活に比べれば比較にならないほど貧しい生活の時代(つい最近まで)人々はむしろいま以上に、自らの心情において豊かであった、こうも言えるのではなかろうか。
先ほどの山歩きのときのはなしだとか、いくつか思いつくままに記した事例について、多分(というより、きっと)全ての人が、そういったことがあることを、共感をもって認めてくれるはずである。であるにも拘らず、いま、人々は、「食う」ということは「食べものを食う」ことであればよいとして平然としていられるし、「住む」ということは家さえあればどこでもできる、つまり必要条件だけでこと足りると思いこんで平然としていられる。平然としているように見える。十分な条件など願っても無理だし、それは付加的な価値、ゆとりあってのはなしなのだ、そう思われているのではなかろうか。そこにあるのは、必要な条件と十分な条件が、それぞれ独立にあり、しかも必要な条件の上に十分な条件(強いてなくてもよい)が追加される、なにかそんな風な考えかたがその根底にあるのではなかろうか。しかし。こういう考えかたは先の全ての人の共感が得られるはずの事例とは、全く相反することであるのは明白である。そして、現実にはむしろ、この私たちの日ごろのふるまいかたと相反する方向でことが進んでいる。それがすなわち、私が何度か書いてきた、私たちの日常を「逆なでする」方向に他ならない。
言うまでもないことだが、ある事象は、必要にして十分な条件がそなわらなければ成りたたない、これは確か中学校あたりの数学で習った論理学の初歩だ。にも拘らずその一方だけでことがなりたつと、どうして思うようになってしまったのか。
いつの日からか、人間(の生活)を対象として観察し、人間の生活とは、その観察において見えてくるところの、食う・働く・寝る・・・・といった「行為」の(単なる)集合だとみなす癖が横行しだしてしまったのである。そこでは、その観察の対象となっている人間の生活というのが、実は、その生活をまさにしている、営んでいる人間の主体的な活動の結果物なのだということが、もののみごとに忘れられ、見失なわれているのである。更に、忘れている、見失なっていること自体さえも忘れ、見失なっているのである。
だからいま、この文の初めの部分で書いたように、この町の学校でなく、この町に学校をつくっても平気でいられるし、先号で書いたように、半径500メートルの円を描いて、そのなかに住む子どもたちがみな一様にこぞってその円の中心の児童館によろこんで集まってくるなどと思って平然としていられるのだ。そんなことでつくられるものが「体験の内容と成り得る」ものとなるわけがない。そこでは初めから、人々の主体的な活動:主体性を無視している、というよりその存在が認められていないのだ。体験とは主体的なものなのであって、信号機にただ従順に従うようなものなのではない。
いったいなぜこういう事態になってしまったのか。私はこの通信でほとんど毎号、こういう事態に到らしめたのは、その基にある、近代的、近代合理主義的、「合理主義」的、あるいは都会的等々といった言いかたで呼んだ独特なしかも支配的な考えかたにあるのだと書いてきた。この考えかたのよってきたること、その内容の分折・検討といったことは、だから絶対にしなければならないことだ。近代とはなにか、ということである。かといって、そういう大上段にふりかぶって攻めるなどというのは、私には不向きであるし、第一そういう能力はほんとのところない。だから、というかむしろ、現実の局面で私たちが遭遇する諸々の事象の解釈を通じ、そういった近代の考えかたの落とし穴を露わにしてゆきたいというのが私の思うところであり、またその方が、理論的分析よりもほんとは強い、そう内心では思っている。なにしろ私は、現実に建物づくりをしなければならないという破目のなかで考えてきたから、いまさら哲学教師や評論家にはなれないのである。それ故いまここでは、この近代について述べられた平明にして要をえた文章を引用するに止めておこうと思う。
「日本の中世文化は、人間を深く究め、その主体的可能力を発掘しようとする生き方によって生産されたものである。古代文化は、これと違って、人間を超越した神を畏れ、魂を信じ、その働きに寄り縋ろうとする生き方から生産されたものであった。近代文化は、そういう超人間的なものに寄り縋ろうとするのでもなく、また、人間の可能力に頼ろうとするのでもなく、対象としての自然および社会を究め、そこに行なわれている法則を発見することによって、対象の世界を客観的に認識し、それを支配しようとする生き方によって生産されつつある。
現代は、このようにして、自然を究め、そこに行なわれている法則を客観的に認識することによって、自然を支配するために、かえって、その自然に随順するほかはなくなり、自然に支配されようとしているのが、人間である。言い換えると、近代文化は、人間の主体性を喪失することによって成立し、発展している。これこそ人間の危機でなくて何であろうか。人間は、このような危機に直面して、われわれの生活と文化の中に人間の主体性を確立しようともがいているのが現状である。(西尾 実:中世文学と道元に関する党え書:1962年著:冒頭より、道元と世阿弥 所戴)」
私の見解と多少違うのは、その最後の部分である。むしろ私は、いま、人間はそんな危機にも気づかず、その気のついていない、危機を危機と見ることもできない状況へ、自ら進んで、ときにはよろこびいさんで、入りこもうとしているのではないかとさえ思いたくなる。とりわけ、私のまわりの建物づくりや町づくりに係わりをもつ人たちの世界は、残念ながら、まさにそういう状態だ。彼らの多くは(大半は)人間を単に観察の対象としてしか見ない。人間の主体性など、つめのあかほども念頭にないのである。そうすることが、そうすることこそが「科学」だと主張するのだ。そのように見るのが「研究」であり「学問」であると強弁するのだ。ことによると(おそらくきっと)彼らは、彼らだけが主体性をもっているとでも思っているのだ。人間は、彼らにとって、操作の対象でしかない。彼らは既に、「お上」を「公共」と言いくるめる側にたっている。彼らには、人間の主体的営為というものが全く分らない。だから彼らには、古代とはなにか、中世とはなにか、人間の歴史とはなにか、そういう視点はどこを探してもないだろう。それはもう終わった話。それはそれ、なのである。昔は昔なのである。これこそ危機なのだ。
私が何を考えていたか、考えてきたか、それをなんとか説明しようとしているうちに、大分遠くまできてしまった。再び元へ戻ろう。要するに私がその学校の設計に際し考えたことは、一言で言えば、この町の子どもたちの「体験の内容と成り得る」場所をつくるということであった。(もっともこういう便利な言いかたは、当時思いつかなかった。)
それではそのとき、「学校とは教育の場である」という言いかたのなかの「教育の場」は、どこへいってしまうのか。その点についても、私は少し変わった考えをもっていた。
(「筑波通信№7後半、あとがき」に続く)