PDFリンク 「筑波通信 №1」1981年4月 A4版5頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)
「筑波通信 №1」 1981年4月
「落」語考
ことし卒業していった学生の一人から、卒業論文にからんで、よく「自然発生的な集落」などと言うけれども、「集落って何ですか」 「自然発生的というのはどういうことですか」という半ば挑発的にして容易ならざる質問をもらってうろたえたのは、あれはまだ寒い二月のころではなかったか。いまは四月、筑波の野にも陽炎がたち、花のにおいが空気にひそみ、そしてその彼女ももういない。
そのときのうけこたえの内容はさておき、この「集落」の「落」の字が、やたらと気になってきた。集落、村落、部落、この「落」の字はいったい何か。
漢和辞典で調べると、「落」の字には、「おちる」「おとす」「死ぬ」‥という「落」の字に対する日常的な感覚からいってまあ分る意味につづいて、「はじめ」「完成」という意味があるのにいささか驚く(とはいえ、我々は「落成」「落慶法要」といったことばを、「落」の字をとりたてて気にもせず、それなりの「成語」として平気で使っている)。そしてその次に、「むら」「むらざと」の意という説明がでてくる。つまり、「落」の字一つで既に集落の意味がこめられていることになる。それにしても、日常的感覚での「落」の意味、そして我々の日常的な「しゅうらく」「そんらく」ということばに対するイメージからは、ちょっと思いおよばない。
「集落」を辞書的に説明すれば、「いくつかの住居が集まって生活が展開している場所をいう。……集落は村落と都市に大別される。」(平凡社:大百科事典による)。 しかし、この説明ではあまりにもstaticすぎる。なにかしらないが、人が(住居が)まったく偶然に天から降ってわいたかのおもむきがある。それでは、この語に対する外国語はどうか。英・独語では、それはそれぞれsettlement、siedlungになり、それは辞書によればいずれもその本義は、「ある土地への定住」を意味している。つまり、いわば「ただよって」いた人々が定住すること、定住したところなのであって、そこには「天から降ってわいた」という感じがない。人々の「意志」がある。因みにsettlementの語幹settleの項を見ていたら、「据える」「移住する」「落ちつかせる」「決定する」「片づける」という意味があり、私のひいたその辞書のこの語の解説の末尾に、日本語の「すむ」(=住む、済む、澄む)に同様、という説明があって驚いた。
同様にsiedlungの動詞siedelnは、sitzen,setzen, と同源であるとされ、(動いているものが) 「すわる」あるいは「すわらせる」つまり「おちつかせる」という意味がある。こうみてくると、先に「集落」の説明をstaticに感じたのは、それは、その説明がいけないのであって、「集落」という語そのものには、もともとこれらの外国語同様の意味のあることに気づくのである。つまり、「落」の字の日常的意味、おちる、おとす、おちつく、といった意味が、きわめて重要な意味を担っているのにちがいない。もともとdynamicな意味をもつ事象であるにもかかわらず、説明がstaticにしてしまっているのだ。
このように、我々がなにげなく使っていることばを次から次へと順にたどってゆくことは、そういうことばをもった我々人間の心が見えてきて、ふと我にかえる場面が多い、いってみれば収穫の多い作業なのだが、ここでは、単にことばのもつ隠れた意味に驚く以上に、もっと「まじめ」に(つまり単なる「教養」あるいは「ものしり」的興味としてでなく)驚き考えねばならないことがあるように思う。
つまりいま、我々は「すむ」とか「すまう」とか「すまい」「住居」ということの(あるいは、ことばの)本来の重い意味を、あまり重く考えていない、あるいは考えないでまるで当然のように済ましてしまうようになってしまってはいないだろうか。
いま我々は、とくに都会風に住むのになれた我々は、ある場所に住むということを、まことに他愛なく考えてしまう。それどころかそういう都会風な考えかたが、それこそが「中央文化」の模範であるかの如く、「地方」へも流れてゆく。その他愛なさとは、人はどこにでも住める、ある広さの「地面」さえあれば住める、と気楽に考えてしまう他愛なさである。先に見た集落、siedlung、settlementということばの本来の意味は、あきらかにこの他愛なさに抵抗を示すはずである。
いま我々は、再びこの重い意味を考えなければならないときにきているのではないかと私は思う。なるほど確かにいま、都会には各地から(中央をめざして)人々が集まり定住するようになるという点は、「現象的」には集落の語義のとおりにみえる。しかしそのときその「定住」は、そもそも先に示した集落、settlement、siedlungなる語の意味では既にない。人々は、「ある場所」にたどりつき、落ちついたのではない、いわば金のなる木にたどりつく、いや、ことばが悪ければ「文化」にたどりつくのだ。「都会の文化」「都会の文化的生活」に。だから「文化」さえあればよいとしてしまう。「すまい」でいえば、「近代的、合理的、機能的」な「すまい」であればよいと思うのだ。いや、それでよいと思うように仕向ける人たちと、それに安易に従ってしまう人たちがいるのだ。 「すまい」の地面、「職場」の地面、「公園」の地面、「レジャー」の地面、‥そういった近代的・合理的・機能的に用意された地面があれば、我々の生活が total に遂行し得ると、あまりにも安易に考えすぎてはいないだろうか。こう考える限りにおいては、ある「土地」の必要はさらさらなく、「地面」がありさえすればたしかにそれですむ。
しかし、たちどまって考えてみればすぐわかることだが、この考えかたの根には、明らかに、人間(の生活)を理解するには、それをいくつかの要素に分離・分解すればよいという、とんでもない考えがひそんでいる。我々の生活というのは、そんなに他愛ないものなのか。
そして、いまのほとんどの建築や都市についての考えかたは、こういう「都会風」な考えかたがもとになっている。もはや「土地」ではなく、いかにその「地面(のひろがり)」を「有効に(そこからあがる収益がいかに高く、有効に)」使えるかという視点で律しようとする。よく考えてみると、いわゆる環境破壊というのは、この、ある土地に人がすむということの重い意味を見失なったことに発していると断言して、これは決してまちがいでない。だから、土地を地面としてしかみない人たちが、その一方で自然保護、環境保全‥をとなえたりするのは(つまり視点をかえないのでは)、まったく悲劇的な漫画なのだ。
しかし、たとえはじめは「地面」にすみついたとしても、あるいは「地面」にすみついているのだという「習慣」にならされていても、人はふと、人が住むというのは「地面」に住むのでない、「土地」に住むのだと気のつくことがある。ことしの二月、世間を一定程度にぎわした中野の教育委員準公選制実現への原動力となった中野・江原の人たちの、あの息のながい運動というのも、この人たちが、このことに気がつき、そしてつい忘れそうになるのを忘れられなかったということにその一因があるのではないかと、私はこのごろ、しきりにそう思う。(この中野・江原の人たちのこと;、やってきたことについては、別の号で紹介をかね私の見方を語らせてもらおうと思う。たぶん、語ることをゆるしてもらえると思うから。)「地面」志向が「特色」の都会にも、「土地」に気づく人たちがいる一方で、いまや、本来それこそ地面でなく「土地」とむかいあわなければならなかったはずの農村にまで「地面」志向の考えかたが浸透しはじめているし、またそれを積極的に推進する人たち:専門家!がいる。それがまた同時に「地方の時代」や「伝統的環境の保護」を説いたりするから、はなしがややこしくなるのである。(因みに、研究社の英和辞典でlocalという単語をひいてみてください。そこに重要な注釈がかいてあります。)
私はよく学生諸君に、文化財なるものを保存・保護する(すればいい)というのはおかしい。古来人々はいさぎよくこわし、建てかえてきたではないか、どんどん建てかえよう!だいたい文化財などといいだしたのは、それをこわしてしまったあと、それ以上のものをつくれそうにないと(なさけなくも)思うようになってしまったからなんだ、とはなすのだが、そうすると、学生諸君は、まさかという顔をしてきいている。悪い冗談かもしれないが、しかし、半分以上本気である。要は、人々のやってきたことの重い意味を分る気もないままに、「伝統的環境の保護」だとか「地方の時代」とか、はたまた「人間的な都市」「豊かな農村」「調和ある開発」等々という、その場かぎりのおためごかしは、おことわりしたいのだ。
ことばというのは、なんの気なしに慣れてしまうと恐ろしい。それを使う人の考えかたまで、ことによると左右しかねないからだ。最近ある人に教えてもらった田ケ谷雅夫氏の山梨新報にかかれたエッセイに、台湾では、国際「障害者」年のことを国際「残障者」年ということが紹介されていたが(その他、盲学校といわず啓明学校という、などいくつか紹介されている)、私はそこに重い意味の差、つまり、我々の「障害者」に対する対しかたまで左右しかねない重い意味の差を、どうしても見てしまう。
はたして、私たちの使い慣れていることばは、その重い意味を担っているか? 1981・4・6
あとがき
こんな調子でかき続けたいと思っています。 いろんな人たちに会ってきたけれど、そしてその人たちと話をしたいのだけれど、 いかんせん、みんな遠すぎます。 そこで、こういう具合に一方的に話しかける方法を、 ある人の、ふとした一言をきっかけに思いついたわけです。 田ケ谷さんのエッセイのように、ともすれば埋もれてしまうようないいはなしがあったら、教えて下さい。 そして、こんな文でも読んでくれそうな人がいたら、教えて下さい。 五月にまたかきます。 それぞれなりのご活躍をいのります。
下山 眞司