最近たびたび訪れている山梨県で、戸惑っていることがあります。
それは、町の名称。
甲州市、甲斐市、山梨市、笛吹市、・・・。
いずれもいわゆる平成の大合併で生まれた市の名称です。
訊ねてみたところ、地元の人でさえ、分らなくなることがあるそうです。
山梨県は、かつては甲斐国、甲州とも呼びます。ゆえに、江戸と甲斐国を結ぶ街道を「甲州街道」と呼んだ。現在の国道20号は、それを踏襲しています。
県都「甲府」は、甲斐国の府(中)である、と言う意味で付けられた名前。
ところが、これらの新しい市の名称は、そのあたりの謂れを完全に無視していると言ってよいでしょう。
笛吹市という名は、笛吹川沿いに展開していた町村が合併して生まれた市。しかし、流域にある町は他にもまだありますから、その名にもとる(笛吹川は、山梨県を出ると富士川になります)。
「山梨県の地名」(日本歴史地名大系19 平凡社)によると、
「甲斐国」は古代律令制の下ですでに在り、
「甲斐」の名の謂れは「界」ではないか、とされています。
山中の地域であるところから、他国の人からは、山隠る陰気な国として見られ、
万葉集での甲斐国の枕詞である「なまよみ」は「半黄泉」、
つまり「黄泉国」への「境」に近いから付けられたのではないか、という。
しかし、実際の甲府盆地は、そんな暗い場所ではなく、明るい場所。
特に、これから、四月になると、まさに桃源郷になります。
雪をまだ被っている富士、南アルプスそして八ヶ岳、そして秩父山系に囲まれた一帯が、花で埋まるのです。
「山梨」は、古代の「山梨郷」を継いだ名前。現在の山梨県東部の地域。今は峡東とも言われています。
明治の廃藩置県で、当初、「甲府県」とされたのが、後に「山梨郷」の名をとり「山梨県」になったとのこと。
その改称の謂れはよく分らない。
どこの地域でも、現存する地名のうち、いわゆる字:あざ(大字:おおあざ)に相当する地名は、ほとんど、明治期に(つまり江戸末までには)存在していた「集落名」です。つまり、歴史が古い。東京など都会でも、かなりの数の地名が近世以前からの名前です。
それらの集落は、決して連なっていることはなく、ポツンポツンと点在するのが普通です。
おそらく、都会の姿、特に日本の現在の都会に慣れてしまうと、それは不可思議に思われるかもしれませんが、本当は、その都会の姿が異常なのです。
つまり、集落がポツンポツンと点在するのが、本来正常な姿。
これまで、アアルトの設計法と、現在の大半の建築家の設計法の違いから SURROUNDINGS について考えてきました。
今回は、この「集落はポツンポツンと点在するのが普通だ」ということから、 SURROUNDINGS について考えてみたいと思います。
次の地図は、「建物をつくるとはどういうことか」の最終回に載せた、明治20年頃に造られた福島県北部の地図の再掲です。
「建物をつくるとはどういうことか」で載せたのは、近世までにつくられた町やそれらをつなぐ街道が、今回の津波の被害を見事に免れている、という事実を紹介するためでした。
そのとき、あわせて、集落:街や村はどのようにしてその地に定着したかについても、街道というのは、本来どのようにして生まれたか、若干触れました。そして、なぜ往古の道はくねくねと曲るのかについても触れました(だいぶ前の話の重複です)。
今回は、それらの点について、SURROUNDINGS の視点で触れてみたいと思います。もっとも、このことについては、すでに「再見・日本の建物づくり−1:人は何処にでも住めたか」で、SURROUNDINGS という語を使わないで書いています。
そこで書いたことを要約すると、次のようになります。すなわち、
?人が住み着く、ある場所に定着・定住するには、つまり「集落」を築くには、先ず生物としての生命を維持するのに必要な食料、水が得られる場所でなければならない。
しかし、
?食料と水が得られたとしても、そういう場所なら何処にでも住み着いたわけではなく、選択が行われる。
そして、?を、集落が成り立つための「必要条件」、?の選択にあたっての選別の「拠りどころ」を、「十分条件」と仮に名付けました。
日本では、?を充たす場所は、比較的容易に見つけることができました。それについては、先の「再見・日本の建物づくり−1:人は何処にでも住めたか」でいくつか例を挙げましたし、その他でも触れています。
現在の日本の都会の暮しに慣れてしまうと、?はともかく、?はきわめて分りにくい。
なぜなら、都会では、?も?も、深く考える必要がないからです。つまり、どこだって住める(ように思えてしまう)。
特に?を差し迫って考えることもなくなっています。強いてあるとすれば、最寄の駅に近いか、通勤に便が良いか、まわりに商店があるか・・・、などなどでしょう。それは、「十分条件」というよりも、むしろ「必要条件」。
日本の都会の暮しで、?を感じるとき、それは多分、突然、自分の暮す場所の目の前に、予想もしなかった大きさの建物が建ち、それまで当たり前に享受していた陽射しがなくなった・・、眺められた富士山が見えなくなった・・・などというときでしょう。
そこから、日照権、景観権などという「権利」が問題になる・・。
しかし、その先にあるのが、SURROUNDINGS についての根源的な議論の筈なのですが、残念ながら、そこから先に進みません。何時間陽が当たればいい、とか、建物に使う材料や色はこれこれだ・・・、などといういわば瑣末な話にすり替わってしまっているのです。
私が現在暮している土地の名は、平成の合併以降、「かすみがうら市」といいます。ついこの間まで、つまり合併前は「霞ヶ浦町」、そして町になる前は「出島村」。つまり、「村」が「町」になるときに旧名を消したのです。
もっとも、この旧村名「出島」も、明治22年(1889年)の「町村制」施行によって生まれた6村が、昭和30年(1955年)に合併したときに付けられた名前です。
ややこしいので、整理すると次のようになります。
明治以前、すなわち近世末には、霞ヶ浦に飛び出ている半島状の地には、21の村落・集落がありました。
明治22年、それらが6村にまとめられます。
この6村は、地勢的に近接した村落・集落で構成されています。村の数で言えば、二つが一つになったものから八つが一つになったものがあります。平均すれば三つが一つが多い。
そしてこの6村が更に昭和30年に合併して「出島」村になったのです。村の名は、自分たちの村の在る地域の地形的な「姿」から採ったものと考えられます。冒頭の例とは違い、自分たちの根ざす土地に拠っていた、と見てよいでしょう。
近世末の村落・集落は、戸数、人口は、すべては不明ですが、分っている中の多い例で114戸・939人、小さい場合は14戸・63人程度だったようです。
このシリーズの一回目「SURROUNDIGSについて−1」で、初冬の夕暮れ時、旧友の家を探し歩いてきた女性の話を書きましたが、この女性が当地へわざわざ足を伸ばしたのは、彼女の生い立った村が、私の今いる土地と同じ村に属していたからなのです。
訪ねようとした「友だち」は、学校が同じだったのです。つまり、「暮しの範囲・領域」が同じだった、ということです。
このことは、「集落・村落」とは何か、「隣り近所」はいかなる意味を持つか、雄弁に語ってくれているのです。隣りは単なる隣りではない、のです。
明治の「合併」にあたっては、そのあたりについての「認識」がしっかりとあったように思います。当地の例で見ても、地縁を大事にしています。
昭和の合併も、多少はその認識があったように見えますが、平成の合併は、単なる寄せ集め、規模が大きければそれでいい、というもの。つまり、合併する正当な謂れがない合併が多い。
何が一番変ったか。
合併の奨めの歌い文句は、「行政の合理化」。「行政のムダをなくす」。
しかし、現実は、「暮しやすさ」「暮しの質」の「劣化」です。
なぜなら、明らかに、「行政」は、暮しから遠くなっています。
行政の「目」が、地域の隅々へ、行き渡らなくなったのです。
私が筑波研究学園都市に移り住んだ頃、そこは「桜村」と言い、昭和30年、近世の「栄村」、「九重(ここのえ)村」、「栗原村」の三村が合併して生まれた村でした(栄のサ、九重のク、栗原のラを並べたのが村名の由来)。
移り住んだ当初、村役場の職員たちの村内の把握の確かさに驚いたものでした。
隅々の状況について、きわめてよく知っているのです。
考えてみれば(むしろ、考えるまでもなく)当たり前です。見える範囲が、普通の人の「知覚の範囲」内にあるからです。
その村も、学園都市へと合併し、目配りは劣化しました。
その一つの因は、職員が「地域に定住しなくなったこと」にある、と私は考えています。
近世末まで、村落・集落の単位がきわめて小さかったのは、村落・集落発生に血縁的な要素が大きかったからであるのは勿論ですが、
同時に、普通の人の「知覚の範囲」内に納まる大きさが、暮してゆく上で必須である、と考えていたからではないか、と私には思えます。
おそらく、このことは、いかに「文明」が「発達」しようが、社会の成り立つ基本的な原則なのではないか、と私は思います。
にもかかわらず、現在、平成の合併を越え、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きがあるようです。。
簡単に言えば「大きいことはいいことだ」「数の多さが力になる」・・という発想。その理由として挙げられるのが、またもや「行政の合理化」。
「行政の合理化」とは何か?
先の例で示したように、巷間で言われる「行政の合理化」は、「暮しやすさ」の維持・向上とは逆の方向への動きを生む、と私は考えています。
つまり、「合理化」という名の「手抜き」の奨励にすぎない、私はそう思っています。
「合理化」の名の下で、「理に合わない」方向へ進む。これは言葉による詐欺。
唯一、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きが生むメリットがあります。
それは何か。
おそらく、そういう都市集中化を促進する動きが活発になればなるほど、それとともに、いわゆる「過疎」「限界集落」と呼ばる地域が更に増えてくるでしょう。
私は、むしろ、この日本という地域にとって、これほど素晴らしいことない、と思っているのです。
なぜなら、都市に集中して暮す人びとは、その暮しかたが永遠に続くものと(何の保証もないのに)思っているはずです。多分、古代ギリシャ人と同じです。
古代ギリシャには、日本のような甦生可能な森林地域はありませんでした。
そして、第一次産業で国内の暮しを賄おうという考えもなかったと言います。国外に依存したのだそうです。そしてそれが、古代の都市国家ギリシャ滅亡の因だ、という説があります。
幸い、日本の森林は甦生が可能、そして、「過疎」「限界集落」と呼ばれる地域は、ほとんどが、甦生可能な森林地域にあります。
今、日本の人口は減り始めています。
その人口のほとんどが非森林地域の(危険極まりない平坦湿地である)都市へ集中し、多くの為政者はそれを是とし、更に進めようとしています。
先に何が残るか。
「過疎」、「限界」地域に残された、新たに人びとが住み着くことができる豊かな「自然環境」です。おそらく、この先原生の姿に戻っているかもしれませんが・・・。
今、「過疎」、「限界」地域に、都会への流れと逆に、住み着く若い方がたが増えているそうです。
その方がたには、「先」が見えているのかもしれませんね。
そこにふたたび、本来の「村落・集落」が蘇るのではないでしょうか。
つまり、道州制や都市化推進策は、一大自然環境保護運動・・・!?
それは、町の名称。
甲州市、甲斐市、山梨市、笛吹市、・・・。
いずれもいわゆる平成の大合併で生まれた市の名称です。
訊ねてみたところ、地元の人でさえ、分らなくなることがあるそうです。
山梨県は、かつては甲斐国、甲州とも呼びます。ゆえに、江戸と甲斐国を結ぶ街道を「甲州街道」と呼んだ。現在の国道20号は、それを踏襲しています。
県都「甲府」は、甲斐国の府(中)である、と言う意味で付けられた名前。
ところが、これらの新しい市の名称は、そのあたりの謂れを完全に無視していると言ってよいでしょう。
笛吹市という名は、笛吹川沿いに展開していた町村が合併して生まれた市。しかし、流域にある町は他にもまだありますから、その名にもとる(笛吹川は、山梨県を出ると富士川になります)。
「山梨県の地名」(日本歴史地名大系19 平凡社)によると、
「甲斐国」は古代律令制の下ですでに在り、
「甲斐」の名の謂れは「界」ではないか、とされています。
山中の地域であるところから、他国の人からは、山隠る陰気な国として見られ、
万葉集での甲斐国の枕詞である「なまよみ」は「半黄泉」、
つまり「黄泉国」への「境」に近いから付けられたのではないか、という。
しかし、実際の甲府盆地は、そんな暗い場所ではなく、明るい場所。
特に、これから、四月になると、まさに桃源郷になります。
雪をまだ被っている富士、南アルプスそして八ヶ岳、そして秩父山系に囲まれた一帯が、花で埋まるのです。
「山梨」は、古代の「山梨郷」を継いだ名前。現在の山梨県東部の地域。今は峡東とも言われています。
明治の廃藩置県で、当初、「甲府県」とされたのが、後に「山梨郷」の名をとり「山梨県」になったとのこと。
その改称の謂れはよく分らない。
どこの地域でも、現存する地名のうち、いわゆる字:あざ(大字:おおあざ)に相当する地名は、ほとんど、明治期に(つまり江戸末までには)存在していた「集落名」です。つまり、歴史が古い。東京など都会でも、かなりの数の地名が近世以前からの名前です。
それらの集落は、決して連なっていることはなく、ポツンポツンと点在するのが普通です。
おそらく、都会の姿、特に日本の現在の都会に慣れてしまうと、それは不可思議に思われるかもしれませんが、本当は、その都会の姿が異常なのです。
つまり、集落がポツンポツンと点在するのが、本来正常な姿。
これまで、アアルトの設計法と、現在の大半の建築家の設計法の違いから SURROUNDINGS について考えてきました。
今回は、この「集落はポツンポツンと点在するのが普通だ」ということから、 SURROUNDINGS について考えてみたいと思います。
次の地図は、「建物をつくるとはどういうことか」の最終回に載せた、明治20年頃に造られた福島県北部の地図の再掲です。
「建物をつくるとはどういうことか」で載せたのは、近世までにつくられた町やそれらをつなぐ街道が、今回の津波の被害を見事に免れている、という事実を紹介するためでした。
そのとき、あわせて、集落:街や村はどのようにしてその地に定着したかについても、街道というのは、本来どのようにして生まれたか、若干触れました。そして、なぜ往古の道はくねくねと曲るのかについても触れました(だいぶ前の話の重複です)。
今回は、それらの点について、SURROUNDINGS の視点で触れてみたいと思います。もっとも、このことについては、すでに「再見・日本の建物づくり−1:人は何処にでも住めたか」で、SURROUNDINGS という語を使わないで書いています。
そこで書いたことを要約すると、次のようになります。すなわち、
?人が住み着く、ある場所に定着・定住するには、つまり「集落」を築くには、先ず生物としての生命を維持するのに必要な食料、水が得られる場所でなければならない。
しかし、
?食料と水が得られたとしても、そういう場所なら何処にでも住み着いたわけではなく、選択が行われる。
そして、?を、集落が成り立つための「必要条件」、?の選択にあたっての選別の「拠りどころ」を、「十分条件」と仮に名付けました。
日本では、?を充たす場所は、比較的容易に見つけることができました。それについては、先の「再見・日本の建物づくり−1:人は何処にでも住めたか」でいくつか例を挙げましたし、その他でも触れています。
現在の日本の都会の暮しに慣れてしまうと、?はともかく、?はきわめて分りにくい。
なぜなら、都会では、?も?も、深く考える必要がないからです。つまり、どこだって住める(ように思えてしまう)。
特に?を差し迫って考えることもなくなっています。強いてあるとすれば、最寄の駅に近いか、通勤に便が良いか、まわりに商店があるか・・・、などなどでしょう。それは、「十分条件」というよりも、むしろ「必要条件」。
日本の都会の暮しで、?を感じるとき、それは多分、突然、自分の暮す場所の目の前に、予想もしなかった大きさの建物が建ち、それまで当たり前に享受していた陽射しがなくなった・・、眺められた富士山が見えなくなった・・・などというときでしょう。
そこから、日照権、景観権などという「権利」が問題になる・・。
しかし、その先にあるのが、SURROUNDINGS についての根源的な議論の筈なのですが、残念ながら、そこから先に進みません。何時間陽が当たればいい、とか、建物に使う材料や色はこれこれだ・・・、などといういわば瑣末な話にすり替わってしまっているのです。
私が現在暮している土地の名は、平成の合併以降、「かすみがうら市」といいます。ついこの間まで、つまり合併前は「霞ヶ浦町」、そして町になる前は「出島村」。つまり、「村」が「町」になるときに旧名を消したのです。
もっとも、この旧村名「出島」も、明治22年(1889年)の「町村制」施行によって生まれた6村が、昭和30年(1955年)に合併したときに付けられた名前です。
ややこしいので、整理すると次のようになります。
明治以前、すなわち近世末には、霞ヶ浦に飛び出ている半島状の地には、21の村落・集落がありました。
明治22年、それらが6村にまとめられます。
この6村は、地勢的に近接した村落・集落で構成されています。村の数で言えば、二つが一つになったものから八つが一つになったものがあります。平均すれば三つが一つが多い。
そしてこの6村が更に昭和30年に合併して「出島」村になったのです。村の名は、自分たちの村の在る地域の地形的な「姿」から採ったものと考えられます。冒頭の例とは違い、自分たちの根ざす土地に拠っていた、と見てよいでしょう。
近世末の村落・集落は、戸数、人口は、すべては不明ですが、分っている中の多い例で114戸・939人、小さい場合は14戸・63人程度だったようです。
このシリーズの一回目「SURROUNDIGSについて−1」で、初冬の夕暮れ時、旧友の家を探し歩いてきた女性の話を書きましたが、この女性が当地へわざわざ足を伸ばしたのは、彼女の生い立った村が、私の今いる土地と同じ村に属していたからなのです。
訪ねようとした「友だち」は、学校が同じだったのです。つまり、「暮しの範囲・領域」が同じだった、ということです。
このことは、「集落・村落」とは何か、「隣り近所」はいかなる意味を持つか、雄弁に語ってくれているのです。隣りは単なる隣りではない、のです。
明治の「合併」にあたっては、そのあたりについての「認識」がしっかりとあったように思います。当地の例で見ても、地縁を大事にしています。
昭和の合併も、多少はその認識があったように見えますが、平成の合併は、単なる寄せ集め、規模が大きければそれでいい、というもの。つまり、合併する正当な謂れがない合併が多い。
何が一番変ったか。
合併の奨めの歌い文句は、「行政の合理化」。「行政のムダをなくす」。
しかし、現実は、「暮しやすさ」「暮しの質」の「劣化」です。
なぜなら、明らかに、「行政」は、暮しから遠くなっています。
行政の「目」が、地域の隅々へ、行き渡らなくなったのです。
私が筑波研究学園都市に移り住んだ頃、そこは「桜村」と言い、昭和30年、近世の「栄村」、「九重(ここのえ)村」、「栗原村」の三村が合併して生まれた村でした(栄のサ、九重のク、栗原のラを並べたのが村名の由来)。
移り住んだ当初、村役場の職員たちの村内の把握の確かさに驚いたものでした。
隅々の状況について、きわめてよく知っているのです。
考えてみれば(むしろ、考えるまでもなく)当たり前です。見える範囲が、普通の人の「知覚の範囲」内にあるからです。
その村も、学園都市へと合併し、目配りは劣化しました。
その一つの因は、職員が「地域に定住しなくなったこと」にある、と私は考えています。
近世末まで、村落・集落の単位がきわめて小さかったのは、村落・集落発生に血縁的な要素が大きかったからであるのは勿論ですが、
同時に、普通の人の「知覚の範囲」内に納まる大きさが、暮してゆく上で必須である、と考えていたからではないか、と私には思えます。
おそらく、このことは、いかに「文明」が「発達」しようが、社会の成り立つ基本的な原則なのではないか、と私は思います。
にもかかわらず、現在、平成の合併を越え、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きがあるようです。。
簡単に言えば「大きいことはいいことだ」「数の多さが力になる」・・という発想。その理由として挙げられるのが、またもや「行政の合理化」。
「行政の合理化」とは何か?
先の例で示したように、巷間で言われる「行政の合理化」は、「暮しやすさ」の維持・向上とは逆の方向への動きを生む、と私は考えています。
つまり、「合理化」という名の「手抜き」の奨励にすぎない、私はそう思っています。
「合理化」の名の下で、「理に合わない」方向へ進む。これは言葉による詐欺。
唯一、道州制など、さらに地域の区画を大きくする動きが生むメリットがあります。
それは何か。
おそらく、そういう都市集中化を促進する動きが活発になればなるほど、それとともに、いわゆる「過疎」「限界集落」と呼ばる地域が更に増えてくるでしょう。
私は、むしろ、この日本という地域にとって、これほど素晴らしいことない、と思っているのです。
なぜなら、都市に集中して暮す人びとは、その暮しかたが永遠に続くものと(何の保証もないのに)思っているはずです。多分、古代ギリシャ人と同じです。
古代ギリシャには、日本のような甦生可能な森林地域はありませんでした。
そして、第一次産業で国内の暮しを賄おうという考えもなかったと言います。国外に依存したのだそうです。そしてそれが、古代の都市国家ギリシャ滅亡の因だ、という説があります。
幸い、日本の森林は甦生が可能、そして、「過疎」「限界集落」と呼ばれる地域は、ほとんどが、甦生可能な森林地域にあります。
今、日本の人口は減り始めています。
その人口のほとんどが非森林地域の(危険極まりない平坦湿地である)都市へ集中し、多くの為政者はそれを是とし、更に進めようとしています。
先に何が残るか。
「過疎」、「限界」地域に残された、新たに人びとが住み着くことができる豊かな「自然環境」です。おそらく、この先原生の姿に戻っているかもしれませんが・・・。
今、「過疎」、「限界」地域に、都会への流れと逆に、住み着く若い方がたが増えているそうです。
その方がたには、「先」が見えているのかもしれませんね。
そこにふたたび、本来の「村落・集落」が蘇るのではないでしょうか。
つまり、道州制や都市化推進策は、一大自然環境保護運動・・・!?