[末尾に追記追加 25日 14.52]
時間がとれずに書けなかった「感想」を記します。
サンシュユがやっと咲きました。去年より20日は遅いようです。
どういう謂れで生まれたのか定かでない「民間の原発事故調査委員会(福島原発事故独立検証委員会:いわゆる「民間事故調)」の「報告」の内容が、2月の末に報道されました。
報告書そのものを詳しく読んだわけではありませんが、報道された内容に、気にかかった「語」がありました。
「場当たり(的)」という語です。
事故当時の政府中枢の動き方が「場当たり的」であった、という言い方で使われていました。
要は、政府中枢の危機管理の体制ができておらず、「場当たり的な動き」しかなされなかった、それは政府の採るべき姿として、もっての外、あってはならないことである、という意味の「指摘」のようでした。
しかし私は、その「指摘」に「違和感」を感じたのです。
なぜか。
その「指摘」は、原発事故の因になった地震・津波の大きさが「想定外」であった、との発言を東京電力をして言わしめた「思考」法と、まったく同じ構造である、と思ったからです。
この委員会を構成している「識者」のイメージしているのは、いかなる事態は起きても、スムーズで素早く統制のとれた危機管理の執れる体制、そういう体制がなかった、ということでしょう。
ということは、起きるであろう事態の「あらゆる姿」が読み切れていること、が前提になるはずです。
しかし、起きるであろう事態の「あらゆる姿:すべての姿:様態」を読み切れるものなのでしょうか?
私には、起きるであろう事態の「すべての姿:様態」を読み切ることは、不可能である、と思えます。
ポイントは「すべて」にあります。
当たり前ですが、世の中に「起こり得る『すべて』」が読める人はいません。
以前にも書いたと思いますが、
近代になってから、「ある望ましき状態」を予め設定し、「その実現に向ってことを進める」という「思考」が当たり前になりました。
たとえば、「耐震」の考え方などが、一番分りやすい。
起きるであろう「地震」の規模やその様態を予め設定し、それに耐えるような構造物にしよう、
それが現在「当たり前」の「設計法」:「思考法」です。
そのためには、起きるであろう「地震」の規模・様態を決めなければならない。
そこで採られた最も安易な方策が、「過去最大規模」の様態をもってそれに当てること。それを一般に「基準」と呼んでいるようです。
この「設定」では、過去最大以上の現象は、将来にわたって起き得ない、ということになっています。
その根拠は不明です。
「根拠」として、よく「確率」が持ち出されます。
70年に一度、100年に一度・・・の確率。
しかし、数千年に一度の確率であろうが、それは、起きないということを意味はしていません。
いつかは起きておかしくない。
そんな数千年に一度のことを考えていたら、先に進めない、と「判断する」のが現在の「思考」。
この思考法を見ていると、
何か、損害保険を掛けてあれば事故が起きない、とでも考えているのではないか、と思えてきます。
これがいわゆる「工学的設計」です。
「工学的設計」は、それを実施するために、「目指す姿」を設定しないと考えが進められない、まさにそういう思考法です。
そこで、起きるであろう様態のいわゆる「シュミレーション」を行い、それであたかも「すべて」が分ったかのように「思い込み」(人びとに思い込ませ)、「それに見合う計画・設計」を行うことをもって、最高の「科学的方法」と考えてきたのです。
原発の設計は、その最たるものの一つです。
そのシュミレーションのパターンになかった事態、それが「想定外」なのではありませんか?
しかしそれは、想定外の事態なのではなく、計画・設計者が、自ら設定した「数字の魔術」にはまってしまったに過ぎないのではないでしょうか。
簡単に言えば「数字信仰」の落着き先。数字にならないものが見えなくなってしまっていた。
けれども、こういう「計画・設計」法:「思考法」は、近・現代になってからの姿です。
近世までのそれは、おそらくどの地域であっても、これとは違うはずです。
それでいて、「意外と」、いかなる事態にも耐えてきた事例が多い、そのように私には思えます。
先回の「 SURROUNDINGS について」の終りに余談で記したように、縄文人の住居は、地震や津波で被災しない地域に在る例が多いのです。
また、これも何度も記してきましたが、「現在の模範的工学設計の基準には合致しない」多くの木造の建物が、大地震に耐えてきています。
なぜなのか、これについても、何度も書いてきました。
一言で言えば、
これらの例は、いずれも、その場その場での、それに係わった人びとの「判断」に拠っていたからだ、と言えるでしょう。
つまり、「場当たりの判断」。
もっとはっきり言えば、人びとの「直観」による判断です。
「直観」は、人びとの「来し方の知見」で醸成されます。
もちろん、その人びと自身の得た知見だけではなく、以前から伝承されてきた知見も含まれます。
しかもそれは、現在の工学的知見のような、単なる「現象についてのデータ」の集積ではない。
その現象の奥底に流れている、そのようなデータに結果する、「理」についての知見なのです。
この「理」を直観で会得していたのです。
自然は人智を超えるものだ、という理解もその一つ。
それを証するデータはありませんが、「来し方」の多くの経験からそう察したのです。
これは、現在、「最も嫌われる方法」です。「科学的」でないからです。
しかしこれは、たしかに「科学的」ではないが、最も scientific な方法だ、そのように私は考えています。
これも、何度も触れていますが(たとえば鉄のI型梁は、「構造力学」以前の発明など)
いわゆる近・現代の「科学」も、元を質せば、この scientific な方法に端を発しているのです。
現代の教育もまた、「科学的」であろうとして、このきわめて大事な「源」のことを忘れてしまっている!・・・
註 大阪では、生徒の成績の向上に努めない教師を、処分の対象とすることになったそうです。
この場合の生徒の「成績」とは、察するところ、「科学的知識の習得の程度」のことでしょう。
いわゆる「学力」。
この「学力」は、「学ぶ力」ではないことは明らかです。
必要なのは「学ぶ力」。
それはすなわち、ものごとを「直観」で会得しようとする「力」。
私はそのように考えています。
かつて、私のそういう思いを後押ししてくれた言葉を、また載せます。
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、
茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、
山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
・・・・
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、
把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
・・・・
サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
話を元に戻しましょう。
かの「民間事故調」の「識者」たちは、
「場当たり的な対応しかできなかった体制」を論難するのではなく、
むしろ、
「『適確に場当たりの判断』ができなかったこと」をこそ、問題にすべきだったのではないか、と私は思います。
そして、かの「事故調」の報告で、まったく触れられていなかったこと、そのことの方が大事だ、と私は思っています。
それは、なぜ、このような(事故を起こすような)設計が平然と為されたのか、という点についての「分析」です。
つまり、現代の「工学のありよう」についての分析。
これについては、何ら触れられていないようです(東電からデータが得られないから、というのが理由らしい)。
もっとも、この「分析」は、現代「工学」と同じ思考形式では、つまり、同じ土俵の上では、行えず、当然のこととして、「識者」たちの「思考方法」の「ありよう」にも跳ね返ってくるでしょう。
註 場当たり 「新明解国語辞典」より
?その場の機転でおもしろさを加え、人気を得ること。
?(初めから計画したのではない)その場その場での思いつきである様子。
今回触れた話は、?に相当します。
私は、住んでいる場所柄から、車を運転します。
いつも思うのは、車の運転では、「場当たりの判断」が重要だ、ということ。
運転していて遭遇する場面は、ある程度は「想定の内」ではありますが、
すべてを、予め、その「想定の内」に括っておくことはできません。
遭う数は少なくても、想定外の場面に遭うのが日常では当たり前です。
遭遇するであろう様態をすべて、予め想像しておくことなどできないのです。
そして、想定の内でなかったから対応できなかった、で済ますわけにもゆかないのです。
そういう場面では「咄嗟の判断」が必要になります。すなわち「場当たりの判断」。
それは「そのときの直観」に拠って為されます。
そして、今日は体調がすぐれないな、などと思ったときは、
それは、適切な「場当たりの判断」を為しにくい、ということ。
そういう時は、運転しないか、特に注意が必要になります。
追記 [25日 14.52]
お時間があれば、2年ほど前に書いた「工か構か」という一文をお読みいただければ幸いです。
時間がとれずに書けなかった「感想」を記します。
サンシュユがやっと咲きました。去年より20日は遅いようです。
どういう謂れで生まれたのか定かでない「民間の原発事故調査委員会(福島原発事故独立検証委員会:いわゆる「民間事故調)」の「報告」の内容が、2月の末に報道されました。
報告書そのものを詳しく読んだわけではありませんが、報道された内容に、気にかかった「語」がありました。
「場当たり(的)」という語です。
事故当時の政府中枢の動き方が「場当たり的」であった、という言い方で使われていました。
要は、政府中枢の危機管理の体制ができておらず、「場当たり的な動き」しかなされなかった、それは政府の採るべき姿として、もっての外、あってはならないことである、という意味の「指摘」のようでした。
しかし私は、その「指摘」に「違和感」を感じたのです。
なぜか。
その「指摘」は、原発事故の因になった地震・津波の大きさが「想定外」であった、との発言を東京電力をして言わしめた「思考」法と、まったく同じ構造である、と思ったからです。
この委員会を構成している「識者」のイメージしているのは、いかなる事態は起きても、スムーズで素早く統制のとれた危機管理の執れる体制、そういう体制がなかった、ということでしょう。
ということは、起きるであろう事態の「あらゆる姿」が読み切れていること、が前提になるはずです。
しかし、起きるであろう事態の「あらゆる姿:すべての姿:様態」を読み切れるものなのでしょうか?
私には、起きるであろう事態の「すべての姿:様態」を読み切ることは、不可能である、と思えます。
ポイントは「すべて」にあります。
当たり前ですが、世の中に「起こり得る『すべて』」が読める人はいません。
以前にも書いたと思いますが、
近代になってから、「ある望ましき状態」を予め設定し、「その実現に向ってことを進める」という「思考」が当たり前になりました。
たとえば、「耐震」の考え方などが、一番分りやすい。
起きるであろう「地震」の規模やその様態を予め設定し、それに耐えるような構造物にしよう、
それが現在「当たり前」の「設計法」:「思考法」です。
そのためには、起きるであろう「地震」の規模・様態を決めなければならない。
そこで採られた最も安易な方策が、「過去最大規模」の様態をもってそれに当てること。それを一般に「基準」と呼んでいるようです。
この「設定」では、過去最大以上の現象は、将来にわたって起き得ない、ということになっています。
その根拠は不明です。
「根拠」として、よく「確率」が持ち出されます。
70年に一度、100年に一度・・・の確率。
しかし、数千年に一度の確率であろうが、それは、起きないということを意味はしていません。
いつかは起きておかしくない。
そんな数千年に一度のことを考えていたら、先に進めない、と「判断する」のが現在の「思考」。
この思考法を見ていると、
何か、損害保険を掛けてあれば事故が起きない、とでも考えているのではないか、と思えてきます。
これがいわゆる「工学的設計」です。
「工学的設計」は、それを実施するために、「目指す姿」を設定しないと考えが進められない、まさにそういう思考法です。
そこで、起きるであろう様態のいわゆる「シュミレーション」を行い、それであたかも「すべて」が分ったかのように「思い込み」(人びとに思い込ませ)、「それに見合う計画・設計」を行うことをもって、最高の「科学的方法」と考えてきたのです。
原発の設計は、その最たるものの一つです。
そのシュミレーションのパターンになかった事態、それが「想定外」なのではありませんか?
しかしそれは、想定外の事態なのではなく、計画・設計者が、自ら設定した「数字の魔術」にはまってしまったに過ぎないのではないでしょうか。
簡単に言えば「数字信仰」の落着き先。数字にならないものが見えなくなってしまっていた。
けれども、こういう「計画・設計」法:「思考法」は、近・現代になってからの姿です。
近世までのそれは、おそらくどの地域であっても、これとは違うはずです。
それでいて、「意外と」、いかなる事態にも耐えてきた事例が多い、そのように私には思えます。
先回の「 SURROUNDINGS について」の終りに余談で記したように、縄文人の住居は、地震や津波で被災しない地域に在る例が多いのです。
また、これも何度も記してきましたが、「現在の模範的工学設計の基準には合致しない」多くの木造の建物が、大地震に耐えてきています。
なぜなのか、これについても、何度も書いてきました。
一言で言えば、
これらの例は、いずれも、その場その場での、それに係わった人びとの「判断」に拠っていたからだ、と言えるでしょう。
つまり、「場当たりの判断」。
もっとはっきり言えば、人びとの「直観」による判断です。
「直観」は、人びとの「来し方の知見」で醸成されます。
もちろん、その人びと自身の得た知見だけではなく、以前から伝承されてきた知見も含まれます。
しかもそれは、現在の工学的知見のような、単なる「現象についてのデータ」の集積ではない。
その現象の奥底に流れている、そのようなデータに結果する、「理」についての知見なのです。
この「理」を直観で会得していたのです。
自然は人智を超えるものだ、という理解もその一つ。
それを証するデータはありませんが、「来し方」の多くの経験からそう察したのです。
これは、現在、「最も嫌われる方法」です。「科学的」でないからです。
しかしこれは、たしかに「科学的」ではないが、最も scientific な方法だ、そのように私は考えています。
これも、何度も触れていますが(たとえば鉄のI型梁は、「構造力学」以前の発明など)
いわゆる近・現代の「科学」も、元を質せば、この scientific な方法に端を発しているのです。
現代の教育もまた、「科学的」であろうとして、このきわめて大事な「源」のことを忘れてしまっている!・・・
註 大阪では、生徒の成績の向上に努めない教師を、処分の対象とすることになったそうです。
この場合の生徒の「成績」とは、察するところ、「科学的知識の習得の程度」のことでしょう。
いわゆる「学力」。
この「学力」は、「学ぶ力」ではないことは明らかです。
必要なのは「学ぶ力」。
それはすなわち、ものごとを「直観」で会得しようとする「力」。
私はそのように考えています。
かつて、私のそういう思いを後押ししてくれた言葉を、また載せます。
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、
茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、
山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
・・・・
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、
把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
・・・・
サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
話を元に戻しましょう。
かの「民間事故調」の「識者」たちは、
「場当たり的な対応しかできなかった体制」を論難するのではなく、
むしろ、
「『適確に場当たりの判断』ができなかったこと」をこそ、問題にすべきだったのではないか、と私は思います。
そして、かの「事故調」の報告で、まったく触れられていなかったこと、そのことの方が大事だ、と私は思っています。
それは、なぜ、このような(事故を起こすような)設計が平然と為されたのか、という点についての「分析」です。
つまり、現代の「工学のありよう」についての分析。
これについては、何ら触れられていないようです(東電からデータが得られないから、というのが理由らしい)。
もっとも、この「分析」は、現代「工学」と同じ思考形式では、つまり、同じ土俵の上では、行えず、当然のこととして、「識者」たちの「思考方法」の「ありよう」にも跳ね返ってくるでしょう。
註 場当たり 「新明解国語辞典」より
?その場の機転でおもしろさを加え、人気を得ること。
?(初めから計画したのではない)その場その場での思いつきである様子。
今回触れた話は、?に相当します。
私は、住んでいる場所柄から、車を運転します。
いつも思うのは、車の運転では、「場当たりの判断」が重要だ、ということ。
運転していて遭遇する場面は、ある程度は「想定の内」ではありますが、
すべてを、予め、その「想定の内」に括っておくことはできません。
遭う数は少なくても、想定外の場面に遭うのが日常では当たり前です。
遭遇するであろう様態をすべて、予め想像しておくことなどできないのです。
そして、想定の内でなかったから対応できなかった、で済ますわけにもゆかないのです。
そういう場面では「咄嗟の判断」が必要になります。すなわち「場当たりの判断」。
それは「そのときの直観」に拠って為されます。
そして、今日は体調がすぐれないな、などと思ったときは、
それは、適切な「場当たりの判断」を為しにくい、ということ。
そういう時は、運転しないか、特に注意が必要になります。
追記 [25日 14.52]
お時間があれば、2年ほど前に書いた「工か構か」という一文をお読みいただければ幸いです。