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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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復刻・「筑波通信」―6   「蔵」のはなし:「必要」ということ

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ムクゲが咲きだしています

「蔵」のはなし:「必要」ということ                    1981年12月1日刊 の復刻

「こがねむしは かねもちだ かねぐら たてた くら たてた・・・」という童謡がある。
この「童謡」の「詞」の「裏側」には、「蓄財したもの:財産」を格納する場所、それゆえ富裕な人びとが備えるもの、という「理解」、つまり、「蔵」という概念に対する《社会的「通念」》が潜んでいるように思える。いったい、「蔵」とは何なのか。

新潟で日本海にそそぐ阿賀川を遡ると、越後平野を過ぎ山あいを渓谷状に北上し会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山塊を巻くようにその東側を再び渓谷状を成し南へと上流へ向う。つまり、会津盆地を転回点としたUの字形を成し、その囲まれたところに山系・山塊がある、ということになる。この上流部を総称して南会津と呼ぶ。川を更に遡ると(概ね南に向うのだが)、山にぶつかる。そこの峠を越えると、そこは関東平野を流れる鬼怒川の上流部になる。日光へはもう直ぐである。この川筋の道は、江戸と会津を結ぶ重要な街道の一で、川路(かわぢ)と呼ばれたらしい。今の川治温泉は、川路温泉だったわけである。
それはさておき、このUの字形に囲まれた山塊のなかに、それこそまさに「辺地」を絵に描いたような山村 S村がある。この村へは、西側の阿賀川支流沿いに入るのが比較的緩やかな道であるが、あとは、会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬季の積雪は村内で3mを軽く超えるから、冬は、先の支流沿いの道(これも時には途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。つまり、孤立してしまうのだ。
S村の村域は、先の阿賀川支流沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、元もとは二つの村であったという。
一つは、概ねその川の中下流域の比較的平らな部分、もう一つはその上流の低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこはかつて独立してO村であったという。だから、このO村は最奥の集落ということになる。
このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通り抜けて遡ってゆき、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、突然前方に家々の屋根がひしめくように、まさに呆気にとられるような形で現われる。たしかに村を名乗ってもおかしくない大きな集落である。
今は車で訪れるが、歩いて訪れたならば、そしてそれが春先で花でも咲いている頃ならばなおさら、まさに桃源郷にでも入り込んだような気分になるに違いない。そのとき一緒に訪れた皆が一様に思ったのは、「こんなところに人が住んでいる」という驚きに近いものだった。
しかし、この「こんなところに・・・」という感想は、よく考えてみる必要がある。人里からあまりにも遠く離れたところに人がいる、という意味もあるし、「常識」からすると人の住めそうにないところに人が住んでいる、という「驚き」の意味も含まれているだろう。
では、東京:都会を見て、どうして「こんなところに」人が住んでいるのか、と思わないのだろうか。何故こんなところにひしめきあって住んでいるのか、と驚いてもいいと思うのだが、誰も不思議に思わないようだ。
そうしてみると、「こんなところに・・・」という感想は、ある特定の視座から一方的に見たことによる感想に過ぎない、ということになる。だから、この「特定の視座」というのが何なのか、ということが問われなければなるまい。
人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て「こんなところに・・・」と驚いてもまったく構わないし、当然かもしれないが、しかし、その「見かた」「驚き」が直ちに「標準的」普遍的」なものであると見なされてしまっては、それは誤りだ。それでは、肝腎の「人それぞれ」の存在が消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてや、そういう視座・見かたが多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたり、妥当と思われたりするのは論外のはずである。しかし今、大多数の人は都会に住み、彼らの先祖をたどればこういう山村に暮していたかもしれないなどということはすっかり忘れ、都会に慣れ切ってしまっているから、彼らの「見かた」は唯一・絶対であるかの錯覚を持ってしまうのだ。
実際、村に住み暮している人の立場から見れば、「こんなところに・・・」と思われること自体、不可思議で、不当に思えるだろう。彼らは、その場所なりに、彼らなりの生活をしてきているからである。自分他とが「辺地住まい」などとは、まったく思いもしなかったはずである。今は対比する都会や町場の話も伝わってくる。そうであってもなお、「こんなところに・・・」という「感想」は、彼らにとって不当であることは変りあるまい。
私たちの多くは、都会的生活に慣れ切ってしまっているが、しかし、それが唯一・最高の、それゆえに目指すべき標的であるかのように、つい見なしてしまいがちな、そういう悪い癖は、即刻捨て去らねばなるまい。
「期待される人間像」などというのがまったく人を人と思わぬ不当な考えかたであるのと同様、あるべき生活像みたいなものを《抽象的》に定型化するのも、これもまったく不当なのだ。

さて、この「辺地の村むら」で、私にとって印象深かったのが、「蔵」であった。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な「蔵」を持っていたことだ。遠くからも「蔵」が際立って見えた。一見したところ、一帯は決して農業生産高の高いところには見えない。両側から比高はそれほどではないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから、稲作の普及も比較的最近のことだろう。おそらく、元もとは畑作や林業が生業だったのではないか。
   「越後上布」の名で知られる織物の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培法は「焼畑」そのものである。
   こういう山間の村むらでつくられた繊維が集められ加工され献上されたのが「越後上布」である。
つまり、耕地も狭くしかも気候的にも厳しいこの土地からの収益は決して豊かではなく、そこで暮せる人口にも自ずと制限がある。そういう土地柄で、「富」や「財産」を蓄積するなどということはあり得ない。
そうでありながら、全ての家に立派な「蔵」がある。それは、私が勝手に思い込んでいた「蔵」の「概念」とはまったく相容れない。
何故、この「貧しい村」の家々の「蔵」は立派なのか? 
村の人の話を聞き、また考え直してみて、それが至極当然であることに気が付いた。
この「蔵」は、食糧備蓄用の建物なのである。この地域は、年中行事のように「冷害」に遭うのである。それゆえ、最低限来年の分は当然として更にその翌年の食い扶持を保持することが、この土地で暮してゆくために必要だったのである。余剰物や「財」をしまうのではなく、暮しの必需品をしまっていたのである。「蔵」は、この土地で暮してゆくためには絶対に欠くことのできない建造物だったのだ。
このことに気が付いたとき、それまで、「蔵」を単に「一般的な意味での倉庫」と見なして済ませていた自分自身の「阿呆らしさ」にも気が付いたのである。
確かに倉庫であることには違いないが、「単なる倉庫」という区分けでは、町中の蔵もこの村の蔵も同じものになってしまうのだが、そして私たちが日ごろ見慣れているのは町なかの商家のそれであり、あるいはまた豪農の家のそれであるがゆえに、蔵というと、何となく蓄財の象徴のように思えてしまうのである。
そして私は、建物の「理解」にあたっては(既存のものも、これからつくるものも)、まずもってその建物に係わる人びとの「生活」の「理解」、その場所で生きてゆく人びとの「生活」の「理解」から始まらなければならないという至極当たり前のことを、あらためて、いやというほど思い知らされたのである。つまり、ある地域にはその地域なりの「生活」がある、という私の「理解」「考えかた」そのものが、未だに「観念的」「机上の理屈」の上のそれであった、ということが明らかになったのである。それまで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

この村の中央部に、もうぼろぼろの、しかし決して取り壊せない、正確に言えば、もう「しばらくは取り壊せない」、強いて呼ぶなら「集会所」とでも言うしかない木造の建物があった。補助金で公民館としてでも建替えることはできるのだが、今はそれはできない、取り壊す気になれないからだという。何故か?
この建物は、この村の「適正人口」と深く関わる建物なのである。
この村では、つい最近まで、こん「適正人口」を保つための策が採られていた。すなわち、長男は家を継ぐが、二・三男は、分家できず、いわば運命的に一生その家の下男同様の生活をして過ごすのだという(娘は必死になって嫁入り先を探して嫁がせる)。長男が嫁をもらうと、彼らは、夜はもちろん、家に居にくくなる。大家族的な生活が為されていたのである(だから、家一軒が白川郷ほどではないが、大きな小屋裏のあるつくりになっている)。
そこで、昭和の初め頃であったか、各家の居ずらくなった似た者同士が集って、協同で夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場に土地を提供してくれ、そうすれば、工面して自分たちで「集まり場所:小屋」をつくるから、と申し出た。そして、土地が提供され、彼の「集会所」ができあがったのだという。これは、いわゆる単なる集会所ではない。彼ら二・三男たちの「生活必需品」であったわけなのである。この「運動」への「参加」のしかたは、各人の立場に応じて、資材の現物提供、金の提供、技術の提供・・・、という具合に様々であったという。
今でこそ、このような非人間的な二・三男たちの生活はなくなったようであるが(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多くは都会に出て、農業以外で働くことになる)、しかし、この設立に関わった人たちは未だ健在である。だから、今はもう用がなくなったからと言って、この建物を取り壊すなどということは、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけだったのである。
この話を聞いた後では、先のぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、「神聖な」ものに見えてきた。これもまた、私の《観念的理屈》の欠陥を糺すには、十分衝撃的であった。
おそらく、村むらの佇まい、つまり、人びとが自らの生活に根ざし培いつくりあげてきた「ものごと」は、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、展開し、成り立ってきたのに違いない。
私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そして、できあがったものに対して人びとが向き合ってきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら、この過程は決して目に見える形では存在しない。これは、如何ともし難い厳然たる事実だ。しかし、私たちは目に見えるものを見ることを通して、目に見えるものの「背後」を、何とかして見なければならないのだ。
これは、理屈としては分っていても、「言う」と「やる」では大違いなのである。その意味で、この村での「体験」は、まさに、私の《太平の夢》を覚醒するできごとであった。


ネムの花

今、私たちのまわりでは、多様な種類の「公共建築・施設」がつくられている。それらは、《社会の needs をとらえて》だとか、《建物の使われかたの研究の結果》などと称してつくられている。
私は、ここで紹介したこの村の「二・三男たちの集会所」のつくられかたは、まさに公共建築のつくられかたの一つである、と思うのだが、《社会の needs をとらえて》だとか《建物の使われかたの研究の結果》というとき、このような意味での「生活の必需品」としての発想で考えられたことがあるだろうか?はなはだ疑問に思う。
「専門家」に見えているのは、その「表現」にいみじくも現れているように、それは、建物の「使われかた」なのであって、決して人びとの「使いかた」ではない。
そして、仮に彼らが「人びと」を気にしたとしても、そのときの「人びと」は、「人びと一般」としてのそれであって、「この町の人びと」、「この村の人びと」ではないのである。
彼らは何故「使われかた」で見ようとするか?それは、「使いかた」を見るとなると、そこに必ず使う主体としての「個人」の存在を考えざるを得なくなるからだ。そんな「生身の人間」個々などは扱っていられない、ということだ。そんなことをしたら、客観的・科学的でなくなってしまう、と信じているか、信じ込まされているからである。
このような「専門家」には、決して、「この村の二・三男たちのneeds」などは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを「専門家」として認めてしまって、本当によいのだろうか?
いったい、何時、誰が彼らに「専門家」の称号を与えたのであろうか?私たちが与えた覚えはまったくない。いつの間にか、彼らが自ら名乗り出たに過ぎなかったのではなかったか。
彼らから専門家の称号を取り去ったとき、そこには何も残らない、ことによると生身の彼自身さえも残らないかもしれない。だからこそ、専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。 

先日、加藤周一氏のスタインバーグとの会見のエッセイが新聞に載っていた。
「・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を・・・歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中では、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。『私はまだ何の専門家にもなっていない』と彼は言った。『幸いにして』と私が応じると、『幸いにして』と彼は繰り返した。・・・」

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