モクセイの木陰で、シュウメイギクが咲きだしています。
先回の記事(「棒になった話」)にいただいたコメントに
「・・・渋谷駅をお使いにならなくて幸いでした。
東横線渋谷駅は安藤忠雄氏の設計で最近全面改装されたのですが、動線計画が滅茶苦茶で、朝など階段を登るのを待つ人で長蛇の列ができます。
動線計画の悪さをごまかすために、見苦しいサインがそこいら中に貼ってあります。使うたびに怒りが込み上げてくるので、なるべく渋谷駅を使わないようにしています・・・。」と書かれていました。
私は、このコメントに対し、次のように返しました。
「東横線渋谷駅、利用者の不便についての不満、開業当時はメディアで話題になりましたが、以後聞かなくなりました。
都会人は「忍耐強い」のかな?!それとも飽きっぽい?
・・・いくら忍耐強くても、ストレスはたまります。最近、身障者へのいじめ・暴行が街中で多発しているようです。
これなどは、都会に暮す人の中で不満をかこつ方々の、ストレスのはけ口ではないか、と、ふと思ったりします。・・・」
読みそこなった新聞をひっくりかえしていたところ、同じような危惧を抱いている方の一文を見つけました。
日曜日(9月28日)の毎日新聞日曜版にあった心療内科医 海原純子氏の「今、そこにある危機」という表題のコラム記事です。
全文を下に転載します。
私は、このような鬱憤・ストレスの大きな因のとして、「社会的格差」の存在・拡大とあわせ、都会の環境(私の言葉で言えば、 surroundings )の様態が挙げられるのではないか、と考えています。
「社会的格差」で言えば、働く人の(特に若い人の)使い捨てが顕著のようです。また女性の蔑視、障碍のある人びとへの蔑視は、相変らずのようです。
また、先回「棒になった話」で、少しばかり触れましたが、現在の都会の環境(私の言葉で言えば、 surroundings )もまた、そのほとんどが、「そこに人が居る・在る」ことが忘れられている、と私は思っています。
何故そのようになっていなければならないのか、が分らない、つまり、その surroundings が、そこに、そういう形で「存在する、存在しなければならない正当な理由・道理」を感じることができないからです。
何度となく書いてきましたが、そこで目にするのは「理」ではなく「利」。駅の構内のエキナカなどは、その身近な例です。
たしかに、そこにも人は見かけます。しかし、そのとき、人は、商売の対象に過ぎない。言い換えれば、商品の代替物に過ぎない。それを如実に示している言葉が「集客」。駅の階段を登るべく、イライラしながら登る順番を待っている人の群を見て、その数の多さに喜んでいるのかもしれません!?
私は、「階段を登る順番を待つ長蛇の列ができる」という事実を知ったとき、それなら、駅の設計は、工場設計に手慣れた方の方がまだマシではないか、と思ったものです。
便利な駅であることの条件は、そこでの乗降やその駅に乗り入れている各線への乗換がスムーズにできることです。
そして、「スムーズである」とは、おおよその「駅全体の位置・構成が分るようになっていること」、なおかつ、それが分ったら、「行きたい方向に向って思った通りに足を運べること」、と言ってよいと思います。
これは、街についても言えることです。要は、全体・全貌が容易に把握できることです。設計者は、そのようになるべく努めることが責務のはずです。それが「専門」のはずなのです。
全体が把握しにくく、それゆえ、己の感覚で自由に歩けない場所では、人にストレスがかかります。疲労はいや増しに増します。
社会的にも抑圧され、さらには、 surroundings にも苛立たされる・・・・、この憤りをどうやったら解消するか。
海原氏が文中で言われている「弱い者いじめは弱者がすることがある。」「・・・うっぷんをかかえるとそのはけ口は無抵抗な弱者にむかうことがある。今、あちこちで耳にする暴力事件、そのひとつひとつは大きな犯罪ではないと思われている。しかし、弱者に対する暴力、という側面と、心のフラストレーションのはけ口、という心の問題を通して見ると、事件の増加は非常に大きな問題を示唆している。」という指摘は、的を射ている、と私は思いました。
これを読んだとき、咄嗟に、建物づくりや街づくりに関わっている方々に、是非読んでいただき、自分たちは、こういう状況を生み出す「舞台」をつくるのに精を出していないかどうか、精査してもらいたい、と思いました。
しかし、同時に、今の《建築家》には無理だろうな、とも直ちに思い至りました。
なぜなら、彼らの東日本大震災後に発した言説(「理解不能」で詳しく論評)、最近の国立競技場改築問題についての右往左往を見れば、どだいムリなこと。皆、「自己顕示」にしか関心がないからです。彼らにとっておそらく、人は、単なる「作品の点景」以外の何ものでもないのです。
「ジワジワ進む異常は見逃されやすい・・・」これも真実です。放っておいてはならない事態だ、と私も思います。これは、まさに「今そこにある危機」なのです。
時の政権は、若い人や女性の《活用》で《地方》の《再生》などと叫んでいます。
《活用》あるいは《地方》《再生》という「用語」のなかに、既に、なぜ現在のような状況が生じてしまったのか、その真因が隠れていることに気付いてさえいません!この「怖ろしさ」。これも見過ごせない「危機」ではないでしょうか。
たとえば《活用》という用語。そこには、彼らが、人を人として把えていないことが、ものの見事に顕れています。彼らにとっては、人は、使い捨てのモノに過ぎない、との認識があることの証左なのです。
モノも本来、使い捨てにはできない、してはならないのです。
このことを往時の人びとは、当然のこととして認識しています。「針供養」「〇〇供養」などの語に、それが顕れています。
「地方」という用語については、以前「山手線はlocal線だ」で触れました。
今、「地方再生」「国土強靭化」などという意味不明な言葉が飛び交っています。
その中身は、どう見ても、従前の工学的手法によって「全ての地域を都市・都会化する」イメージのように思えてなりません。
各地域、「地方」には、今の都市・都会にはなくなった「人の世」が存在しています。
「地方」に元気がない、などというのは計る物指が違うからではないか、と思います。
「都市・都会」の物指で「地方」を計っても無意味、百害あって一利なしなのです。こういう一律の物指の存在も「危機」です。
「地方」の「不便」は、考えてみれば、人間らしさのバロメーター、人間らしさの濃さの顕れと考えることができる、そのように最近私は思うようになっています。
そういうところに、「都市・都会が増殖させてしまった危機」を、わざわざ持ち込んでもらいたくありません。
私は、最近、限界集落、過疎と呼ばれる地域ほど、豊かな地域であるとさえ思うようになっています。
そういう場所へ移住する都市の若者が増えているようです。
この若い方がたの感性は、実に素晴らしい、彼らは「利」ではなく「理」でものごとを考えているのでしょう。
そしてまた、高齢化の今、地域に適切な高度な福祉策を率先・先行して生み出してきたのが、都市・都会から見れば「片田舎」と呼ばれる地域の町村であったこと、これも注目してよいように思います。
国の福祉政策・制度の多くが、それらの後追い・模倣のようです。
しかし、「體」を見ず「用」を真似るだけで「本質」は見捨てられることが多く、一律の制度化のため、地域の独自性の創出が阻害されることさえあるようです。
東日本大震災の「復興」「再生」として、新たな《街づくり》あるいは《住宅地計画》が被災地で行われつつあるようです。
詳しくは知りませんが、垣間見るかぎり、そのほとんどは、大都市近郊の「街づくり」や、いわゆる「再開発」、あるいは「新興住宅地開発」のコピーのように思われます。
その地域に生まれ存在していた「村・街」あるいは「住まい」に営々として継承されてきた「その地域なりの surroundings の様態・姿」を在らしめてきた「謂れ・道理」は、まったく顧みられていない、と言えます。それは「再生」とは到底呼べません。
地山を崩し、埋立てをし・・・、その手法を見るにつけ、広島の土砂崩壊のような災害の引き金にならなければよいが、と思っています。
何事によらず、いかに面倒であっても、事に当っては、常に「ものの理・道理」を考えること、考え続けることが大事であると、あらためて思いを新たにしています。