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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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近時雑感 : 「分ること」 と 「伝えること」

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椎名家の大戸です。ボケてます。あしからず。


[末尾にリンク先追加 19.25」
先日、「高次脳機能障害」についての研究者であり、「言語療法士」(「言語聴覚士」とも呼ぶようです。Speech Therapist:STの邦訳)でもある方の、自ら脳梗塞を発症、高次脳機能障害に陥り、リハビリで復帰した経験談をTVでみました
   「私のリハビリ体験記 関啓子 言語聴覚士が脳梗塞になった時」 : 13日の午後1時からNHK・Eテレで再放送があるそうです。

一言で言えば、「高次脳機能障害研究者」として「分っていた(と思っていた)こと」と「自分が実際に陥った状況」との間には、まさに「雲泥の差」がある、ということを、あらためて「知った」、逆に言えば、まったく分っていなかった、ということを「知った」、ということになるのではないでしょうか。

これはまさに「真実」だと思います。

私の場合、「話す」ということ、ものを「認知する」ということには、幸いなことに特に支障はありません。
しかし、たとえば、左手指先に遺っている「しびれ」の様態を他の人に知ってもらうことは、容易ではありません。むしろ、不可能と言い切ってもよいでしょう。実状をうまく「伝える」ことができないのです。
どういう様態か、言葉で言い表してみると、たとえば、こんな具合になります。
左手で、たとえばネコの背中をなでる、そのとき、あのネコの毛触りが「ザラザラ」として感じます。右手で感じるそれとはまったく違います。
これは今の様子。発症時は、なでる、さわっている・・・、ことさえ感じられなかった・・・!
そしてまた、「回帰の記」でも触れましたが、左手で眼鏡をはずそうとすると、左手が「目的地」に行き着かないでイライラする・・・。
あるいはまた、水道の水で手を洗う。今でも、水が最初に左手先にあたると、一瞬ですが、棘が刺さったように感じます。「冷たい水である、と認識する」まで、若干時間がかかるのです。だから、もしもこれが熱湯であったとすると、火傷することは間違いないでしょう。これは、OTの方から、気を付けるように何度も念を押されたことでもあります。
「しびれ」というとき、大方の方は、長いこと座っていて「しびれがきれる」その「しびれ」を想起するようです。しかし、その「しびれ」とは、どこか違うのです。そして、これを健常な人に的確に伝えることは、不可能に近いのです。
   今、毎朝のシャツを着るときの「ボタン掛け」の動作は、体調のバロメーターになっています。左手の指先の調子がいいと早いのです。

ところが、少なくとも私が会った理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語療法士(ST)の方がたは、「私の陥っている様態を適確・的確に理解していた」、そう私には思えました。
なぜなら、彼らの「指導」(というより「示唆」と言う方がよいかもしれません)で、必ず一定程度、様態が「好転する」からです。

もちろん、彼らが、私の陥っている様態と同様な事態を、自ら経験したことがある、それゆえに「知っている」というわけではないはずです。
また、私が彼らに私の様態を正確、如実に、「伝える」ことができていたわけでもありません。

しかし、「適確・的確な示唆ができる」ということは、私が陥っている様態が何に起因しているか、彼らが(一定程度)「分っている」からである、と言ってよいはずです。

TVをみながら、私は、「分る」「分りあえる」ということはどういうことか、またまた考えていました。
本当に分るためには、ありとあらゆる事態・事象を「経験」しなければならないのか?
これは療法士の世界の話には限りません。どういう場面であっても同じです。
しかし、そのようなことは、それこそ「絶対に」あり得ません。

しかし、そうでありながら、私たちは「分りあえる」ことができているのではないでしょうか。
もちろん、まったく「寸分の狂いなく分りあえる」わけではありません。
あえて言えば、「概念的に分りあえている」。それで「用が足りている」のです。
しかし、こういう「分かりあえる」は、「いわゆる(近代)科学の世界」では、「分ったことにはならない」はずです。そこでは、「分る」とは「《精密に》分ること」、具体的には、数値的に鮮明に示されること、のはずです。
けれども、私たちの日常の「分りあえる」様態は、そうではないのです。このあたりについてはだいぶ前になりますが、
冬とは何か」で触れました。
そしてこれが、まさに、「 communication の『真髄』」なのだ、ということになります。

では、どうやって「概念的」に「分りあえる」ことができるのか。
いろいろ考えてみると、それを支えるのは、私たちそれぞれの「想像力」以外のなにものでもない、という「事実」に辿りつきます。
そして、この「想像力」を培うには、幾多の経験が必要、ということになります。

しかし、単に経験の数を増やしても意味がない。
常に、経験した事象を観察し、経験した事象の「構造」を読み取ることが必要になる、実は、その繰り返しがあってはじめて「経験・体験」になるのだ。そのように私は思います。「構造の読み取り」を欠いたならば、それは「経験・体験」ではない、ということです。

私が会った療法士さんたちは、多くの患者さんと接するなかで、それぞれの患者さんが抱えている「『様態』の『構造』を読み取るコツ」を学んでいたのだ、と考えると納得がゆきます。
彼らは「想像力」を駆使していたのです。「想像力」を働かせないと、患者と communicate できないのです。

では、患者である私はどうするか。どうしたか。
私は、うまくゆかないことは承知の上で、「いつものような」動作をするように、極力努めました。しかし、すべてがうまくゆくわけがない。時には、何をしようとしているのか、傍からは分らなかったに違いありません。つとめて、やらんとしていることを口にしましたが、しかし、うまく説明できているとは限らない。それでも「伝える」べく努める。そうこうしているうちに、こちらの「意思・意志」はそこはかとなく、伝わる、つまり「分ってもらえる」のです。

私のリハビリのときに、インターンの学生さんがいました。その方に、テレビのリモコンを左手では操作できない、しかし何度かやってるうちに何とかなるようになった、と話したところ、彼は、その動作を「復活」するには、どういう「訓練」がいいか、一晩考えたようでした。おそらく彼は、一晩中、患者である私の様態に近づこうとして、「想像力」を駆使し続けたのです。翌日、考え出した訓練法を彼は披露してくれました(残念ながら、具体的な内容は忘れてしまいましたが・・・)。ちょっとしたことで、私の様態が彼に「伝わった」のです。私と彼をつないだのは、お互いの「想像力」だった、と言えるでしょう。

これは、私たちの「日常」も同じだと思います。「想像力」を欠いたとき、「思い」は満足に伝わらない、伝えられない、のです。


時あたかも、広島、長崎の原爆の日。首相の「挨拶」は(昨年のコピペと揶揄されていますが)まったく心に響きませんでした。
単なる文字・単語の羅列で、そこに、広島、長崎への「想像力」を駆使しての「思い」がまったく感じられなかったからだ、そう私は思いました。
もしかすると、首相は、「いわゆる近代科学の世界観」にどっぷり浸かってしまい、抜け出せていないのかもしれません。
そう考えれば、原発再稼働や原発の輸出に、何の躊躇いも感じていないことも「納得」がゆきます。


台風が、一段と暑さを運び込んだようです。
暑さ寒さも彼岸まで・・・。お盆だというのに、彼岸が待ち遠しい毎日がしばらく続きそうです。

残暑お見舞い申し上げます。

今回に関連することを「『分ること』と『感じること』」でも書いています。[追加 19.25]



付 学生時代に読んで、以後の私の考えかたを支えてくれた諸著作の抜粋を一部、下記に再掲します。


・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、
ある「まとまり」を先ずとらえ、部分はそのあるまとまりの一部としてのみとらえられるとする考え方
すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。
                                    ・・ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)より
・・・・
かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。・・・)
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
彼らの登山の質を楽しむためである。
舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、
ごみ粒にすぎないからである。
たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。」
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

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