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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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リハビリの日々・・・・「自在」ということについて

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私が発症したのは1月18日の朝でした。氷点下5度以下の寒い朝でした。
その日は現場の打合せの日。いつもより少し早く犬3頭の朝の運動に2・30分つきあい、家に戻り朝食。
そこで「異変」に気付いたのです。新聞を見ていたのですが、左手で新聞をさばけない。向かいに座っていた家内が初めに気付いた。私自身も、変だと思い、あらためて左手を動かそうと試みるも、やけに手が重い。立ち上がろうとすると、左足も重い。喋る様子もおかしかったようです。
変だ、と思い、当地の基幹病院である「土浦協同病院」(JA厚生連)に「救急外来」があることを思い出し、タクシーで乗りつけ、診察の結果、脳卒中との診断。
即座にICUに入院ということに。
     「脳卒中」とは、脳梗塞と脳出血の総称のようです。
     脳梗塞は、脳内の血管がつまって脳細胞に酸素が供給されなくなり細胞が壊死してしまい、
     指令ができなくなる状態。
     脳出血は、血管が破れ、血液が脳内に溜り、脳細胞を圧迫し、指令がなされなくなる状態のこと、のようです。
     脳梗塞の方が怖いようです。

朝食時に感じた手足の重さは何なのか。
どうやらそれは、私の左手、左足の自重らしい。
つまり、健常の日々ではその自重を感じていない、ということ。
健常な日常では、手足を思う存分、「自在に」動かしていて、重さを感じていないのです。脳神経の指令で、各部の筋肉が有機的に連動して「自在に手足を動かしている」のです。だから自重を感じない。このあたりについては、次回以降、記します。
     おそらく、この有機的な動きは、人が乳幼児の頃からの体験の連続に拠って
     「身につけた」(習得した)ものではないか、と思います。

身体機能に障害が生じて、あらためて「人間の所作のありようの凄さ」に感じ入っている次第です。
その意味で、毎日のリハビリは、「自らの無知を知る日々」の連続です。
     たとえば、机の上にある鉛筆を取ろうとすると、手は何の苦もなく、動いて目的を達します。
     これは、対象が見えている場合。
     しかし、見えていなくても、できるのです。
     たとえば、左手でも右手でもどちらでも構いません。
     人差し指の先を、自分の鼻の頭にもってゆく、という動作をしてみてください。難なくできるはずです。
     これは、とてつもなく「凄い」ことではありませんか。
     ところが、入院当初、私は、右手ではできても、左手ではまったくできませんでした。
     左手は自在に動かせなくなっていたのです。
     と言うより、左手を、どこかに置き忘れてきたかの感じでした。

私の脳出血は、右側の脳内に3cm径ほどの池をつくっていたようです。そのあたりの詳しいことはよく分りませんが、右側の脳の障害は、左半身の動作の障害になるようです。私は右利きですから助かった。利き手で補えるからです。逆だったら大変だった!
     もっとも、そのため、右側で何とかしようとするため、右半身が疲れてしまい、
     リハビリのスタッフから、右側に頼るのをやめるように諭されています!
     そうしないと、左側の回復が遅れてしまうからです。

リハビリの日々は、いろいろと学ぶことがありますので、ここしばらく、日曜日の外出の際に、綴ってみようかと思います。「観察と認識」です。







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