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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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この国を・・・48 : 続・十二月八日

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「教育委員会」を「形骸化」しようという動きがあります。《中央教育審議会》が、教育行政の「権限」を、「首長」に集中させるべきだ、との「答申」案を用意しているとの報道があります。「あまりにも・・・」という意見もあったため、従前どおりでよい、という意見と両論併記して、あとは政権に判断を任すのだそうです。しかし、行き着く先は見え見えです。
最近、「この手の『動き』」がきわめて多い、という印象を持っています。
法制局長官やNHK会長人事で、「身内」をもってくる。あるいは、非正規雇用問題についての審議会会長に経営者側の人物を置いて審議させる。
一見民主主義的手続きをもって、「偏った方向」、「一部の受益集団側に有利にもってゆこう」という「動き」の数々・・・。
それは、今年の初めであったか、「ナチスの手口を学んだらどうだ」という「発言」がありましたが、それを実行に移しているのではないか、と思わせるところがあります。
秘密保護法も、その一環、彼らにとって最も「重要」な位置づけなのでしょう。現に政権党幹事長は、メディアをびびらせるべく「発言」を繰り返しています。
秘密保護法に賛成した議員名を広く公表してくれ、という投稿がありました。これが、普通の人びとの感覚だと思います。

このあたりの「動き」について、radical に分析した記事を読みました。
毎日新聞の12月12日付夕刊「特集ワイド」です。
まことに明解、多くの方に読んでほしいな、と思いましたので、プリントアウトして(無断ですが)転載させていただきます。
    新聞紙面のコピーでは字が小さく読みにくいと考え、「毎日jp」からプリントアウトしました。



原発再稼働や新設の動きも露骨になっています。
いったい、どこが、何が「安全になった」と言うのでしょう。除染廃棄物の中間貯蔵施設の設置でさえ容易ではない、というのに!

以下は、前回の再掲です。

時計の逆回しの《願望》は更に加速しそうです。のど元過ぎれば熱さを忘れ・・、人の噂も75日・・、これが彼らの《願望》の「拠りどころ」。
だから、私たちは、決して「歴史」を忘れてはならないのです。
時計の逆回しにブレーキをかけられるのは、十人十色の私たちです。
「王様はハダカだ」と言い続けたい、と思います。あきらめは禁物です。

求利より求理を!

「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−10 : 「十二 上等家屋玄関 各材仕口 建地割 及 木割」

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   これまで書いたシリーズものへは、今までの「カテゴリー」ではアクセスしにくいと思いましたので、
   シリーズのタイトル(あるいはその要旨)で一式括る形に変更しました(単発ものは従前のままです)。
   ただ、最終回から第一回へという順に並びますが、その点はご容赦。

     **********************************************************



今回は、 「十二 上等家屋玄関 各材仕口 建地割 及 木割」の章を紹介します。
前回、懸魚の破風板への取付け方などについての説明がない、と書きましたが、それについての概略の説明が、この章にありました。ただし、解説図はありません。

この章も、「いかに外観を荘厳に見せるか」、つまり、「格の見せ方」に関わる解説です。したがって、その内容が直接現在の設計、そしてまた古建築の理解に役に立つ、というわけでもなさそうです。
そこで、今回も、用語等に註を添え、原文をそのまま転載するだけにさせていただきます。近代初頭の建物のつくりかたに関心のおありの方は、旧仮名遣いで読みにくいですが、原文でお読みいただければ、と思います。
  原書の頁ごとではなく、項目ごとにまとまるように紙面を編集していますので、行間など不揃いのところがありますが、ご容赦ください。

   註 冒頭の「まえがき」部分から、幕末〜明治にかけての「住居観」が見えてきます。
      ただ、それが一般庶民の観かたであったかどうかは分りません。多分、当時の都市居住者:主に旧武士階級:特有の観かただったのではないでしょうか。

      包込み枘差し(つんごみ ほぞさし)
      枘差の一種なり。枘を貫かずして途中にて枘先を留むるもの。地獄枘・・・も同一物なる仕口なり。・・・(「日本建築辞彙 新訂版」)
       以前、「信州・松代横田家の包枘差し」で、包枘差し=地獄枘との解説を紹介しています。
       当時、「日本建築辞彙」原本で「包枘差」で検索しても解説がなく、不明としておりました。
       「つんごみほぞ」で検索すればよかったのです。ただ、そういう「読み」があることは思い及ばなかった・・・・。
       ちなみに、「日本建築辞彙 新訂版」の後註「つんごみほぞ」の解説に以下のようにあります。
          『木造継手仕口呼称調査 中間報告』(1988)によれば、貫通さない平枘に
          「つつみほぞさし」茨城、「つんこ」群馬、「つんごみほぞ」埼玉、「つんご、つんごみ」京都、「つつみほぞさし」宮崎などの呼称例がある。
          ちなみに同調査で地獄枘についても、
          「つつみこみほぞ」埼玉、「つんごみほぞくさびうち」滋賀、「つんごみほぞ」宮崎など、同様の呼称例がある。
      引鐲鈷 引独鈷が普通の表記だと思います
      接合二材を雇い材(別材)によって引付けて接合する継手仕口、またその雇い材を言う。(「日本建築辞彙 新訂版」)
      例 雇い竿しゃち継 など  木鼻の取付け:懸鼻(かけはな)などにも使用
        文中の「木鼻は其木口に蟻を造りて柱に追入れに嵌めこむ・・」の解説は、頭貫の、木鼻部分のみを柱頭に取付ける場合の方法のことか。
      丸桁(がぎょう) 普通は「がんぎょう」と読んでいます。
      古代の建築では軒桁に円形断面の材を使うことが多く、以来軒桁を丸桁と呼ぶようになったようです。
        中国では建築用材に丸太を使うのが一般であったことから、我が国では円形断面=寺院の重要な「形式」と考えられた時期がありました。
         ⇒古代寺院には、垂木を角材からわざわざ円形断面に加工した事例が多数あります。
      裏甲、茅負の納めかたの項の説明箇所については、下図を参照ください。
      絵様(えよう)
      模様又は彫刻のこと。
      絵様决(えようしゃくり)
      化粧のための决(しゃくり)。下の第廿図其弐の茅負参照。
       
       

      杓子枘(しゃくし ほぞ)
      平たい枘のこと。かかりがよいように、枘を上向きにつくる場合もある。
      みのこ=蓑甲
      「破風屋根」の部位名。次回に図あり。

      前包(まえづつみ)
      「千鳥破風」の部位名。次回に図あり。
      サスリに組む
      同一平面に組むこと。

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各部の仕口は、化粧のためであっても、よく考えていたようです。
以前に、継手仕口の変遷を観ましたが、中世末あたりから、そういう傾向が現われてくるように感じています。
   この点については、2009年2月21日の「日本の建物づくりを支えてきた技術−25・・・・継手仕口(9):中世の様態」以下数回の記事をご覧ください。
全般に、時代が降るにつれ、架構よりも見えがかり:外観に視点が移ってきます。なぜそうなるのか、考えてみる必要がありそうです。
現在も「化粧」を重視する建物が増えていますが、残念ながら、どちらかというと、見えがかり重視で、つくりかたは粗雑な場合が多いように思います。
これは、見えがかりだけに関心が集中するとき陥る一つの「着地点」なのかもしれません。
何のために建物をつくるのか、その真の「目的」あるいは「意味」が見えなくなるのではないか、と思います。


もうしばらく、「上等家屋の玄関」すなわち「起り(むくり)破風造り玄関」「起り破風入母屋造り玄関」「千鳥破風玄関」「唐破風玄関」・・・の解説が続きます。
編集に時間がかかりそうです。

近時雑感 : ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ・・・

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NHK・TVの子供向け番組に「にほんごであそぼ」というのがあります。
夕方の5時15分から15分ほど(朝早くにもやってます)。ちょうど散歩から帰って一休みしているときによく見ます。中身が濃い子供向けではもったいない番組だ、と思っています。
能狂言、文楽(浄瑠璃)など古典芸能の当代きっての演者、講談師、落語家、気鋭のミュージシャンなどが(元力士の小錦も常連です)、子どもたちと一緒に、日本の古典から近・現代の文学、各地の方言、わらべうた、あるいは熟語、諺の類など、およそ日本語、日本の「文化」に関わること万般を、分りやすく紹介する番組、とでも言えばよいでしょうか。だから、子供向けではもったいないのです。
こういうことを幼いころから「学んで」いたならば、「文楽なんてつまらないものへの支援は要らない」などという暴論を吐く《大人》にはならないでしょう。

先日は、宮澤賢治の「アメニモマケズ」に曲が付けられて歌われ、また、幼い子が暗誦で全文を朗読していました(宮澤賢治の作品はその他にも多く紹介されています)。
子どもが読むと、新鮮に聞こえます。
そのなかでも、たどたどしく音読された次の一節が、耳に残りました。
おそらく、「甘言を弄して『事実』をごまかす《えらい方がた》」のあまりの多さに辟易していたときだったからではないでしょうか。
   ・・・・・
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ
   ・・・・

全文を「校本 宮澤賢治全集 第十二巻(上)」(筑摩書房)から以下に写します。

   雨ニモマケズ
   風ニモマケズ
   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
   丈夫ナカラダヲモチ
   慾ハナク
   決シテ瞋ラズ(いからず)
   イツモシヅカニワラッテヰル
   一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ野菜ヲタベ
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ
   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
   東ニ病気ノコドモアレバ
   行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ
   行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
   南ニ死ニサウナ人アレバ
   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
   北ニケンクヮ(けんか)ヤソショウガアレバ
   ツマラナイカラヤメロトイヒ
   ヒドリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ
   ホメラレモセズ
   クニモサレズ
   サウイフモノニ
   ワタシハナリタイ

   南無無辺行菩薩
   南無上行菩薩
   南無多宝如来
   南無妙法蓮華経
   南無釈迦牟尼仏
   南無浄行菩薩
   南無安立行菩薩

「全集」には、書かれていた「手帳」の各頁が写真で載っています。
それを見ると、
雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は、当初の「雨ニマケズ 風ニマケズ」に、自筆で「モ」が加えられています。

「ヨクミキキシワカリ」の個所は、当初は「ヨクワカリ」だけで、そこに「ミキキシ」が加えられています。
「分る」ということは「『自らが』見て聞いて分ること」、という『認識』を示したかったのだと思います。     
当時(大正〜昭和初頭)は、いわゆる「《教養》主義」が流行った頃です。「知識の収集=分ったこと」と見なす「辞書的理解」の士が多かったのです。
宮澤賢治は、そういう「《教養》主義」をはじめとする「当時の風潮」の対極に自らを置いた、と私は理解しています。
   「注文の多い料理店」なども、その意思表示の一つではないでしょうか。
今も「辞書的理解」を求める気配が濃い、たとえば、「建築用語を知れば建築のことが分った」と思う方が多い、多すぎる、と私は感じています。 

なお、「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記のようです。


「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−11 : 「各種破風の造り、茅葺屋根、和洋折衷小屋」

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   これまで書いたシリーズものへは、今までの「カテゴリー」ではアクセスしにくいと思いましたので、
   シリーズのタイトル(あるいはその要旨)で一式括る形に変更しました(単発ものは従前のままです)。
   ただ、最終回から第一回へという順に並びますが、その点はご容赦。

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[註補訂追加 12月30日 9.30]

今回は格付けのために各種破風を設ける「玄関(屋根)」の造りかたと「茅葺屋根」、「和洋折衷小屋組」の項の紹介。
破風として、「起り(むくり)破風」、「起り破風入母屋」「千鳥破風」「唐破風」「軒唐破風」「素軽(すがる)破風」が紹介されています。「和洋折衷小屋組」の項は、洋式の小屋組:トラスを日本の家屋に使うときの使いかたについての説明と見ることができます。
その一連の解説の中に「茅葺屋根」の説明が出てくるのは、いささか唐突な感を否めません。
これはおそらく、武家住宅に源を発する都市居住者向けの住居を見てきた著者の脳裏に、住居は武家住宅、都市居住者住宅だけではない、農家住宅もある、という「事実」がよぎったからではないでしょうか。触れておかないのは片手落ちと思われる・・・。

今回も、用語の註を付すだけで、原文をそのまま転載します(項目ごとに編集してありますが、歪みや不揃いはご容赦ください)。
はじめに、出てくる用語についてまとめておきます(抜けている用語もあるかもしれません)。
  用語註 全般
   上場、下場:上端、下端のこと。
   起り破風(むくり はふ):上側に曲線を描く破風。「反り」の逆。
   千鳥破風(ちどり はふ):屋根上に据え置いた飾りの破風。据破風とも呼ぶ。
   唐破風(から はふ):中央部が起こり、両端部が反りになる形の破風。中国伝来のつくりから付けられた呼称と思われる。
   素軽破風(すがる はふ):縋(すがる)破風のこと。
                   本家(おもや)の軒先より突出したる破風にして、片流れなるものをいう。素軽破風とも書く。
                   本家に縋り付き居るものとの意にて縋破風と書く方適当ならん。(「日本建築辞彙 新訂版」より)
   軒唐破風(のき からはふ):屋根の軒より起る唐破風。(「日本建築辞彙 新訂版」より)
                     軒先に施す化粧の破風だろう。
   葺地(ふきぢ):普通は土居葺の意。
             この書では、「葺地の高さ三寸五分」などとあるので、土居葺上に塗る瓦下地の土塗(土居塗)をも含めているものと思われる。
   土居梁(どいばり)=土居桁(どいげた):桔木を支える梁
   桔木(はねぎ): 「日本の建物づくりを支えてきた技術−8・・・寺院の屋根と軒」などを参照ください。
   地覆(ぢ ふく): 土台を使わない礎石建てで、柱〜柱の間に壁を設けるとき、地面から壁が立ち上る個所に、地面と見切るために取付ける横材のこと。
             住居などでは、見切を設けない場合もあります(地面に直に壁が立上る)。
             一見すると土台のように見えますが、土台は建て方の最初に据えられるのに対し、
             地覆は、建て方が終り、壁の工事の始まる段階で取付けられます。
             古代の建物に多く見られます。分りやすい例が下記に紹介してあります。
              「日本の建築技術の展開−3:古代の工法(1)
             なお、地覆と地面との空隙に詰める石が地覆石です。これも後詰めです。
   枠肘木(わくひじき)など:前掲の 「日本の建物づくりを支えてきた技術−8・・・寺院の屋根と軒」などを参照ください。
   差母屋(さしもや):破風板を受ける母屋。破風板に差しこむことからの呼称か。
   菖蒲桁(しょうぶ げた):軒唐破風の左右の桁をいう。菖蒲は借字にして・・・。(「日本建築辞彙 新訂版」より)
                  「しょうぶ」という読みの出どころは不明らしい。要は「化粧」の意と思われる。

    なお、茅葺屋根については、「日本の建築技術の展開−24・・・・住まいと架構・その1」などを、
    また、農家の平面、あるいは縁側については、「補足・日本家屋構造−6・・・・縁側考」をご覧ください。[12月30日 9.30追加]
    洋風小屋組:トラス組については、「トラス組・・・古く、今なお新鮮な技術・その1」「その2」「その3」などをご覧ください。



    





   
















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ここまで紹介しながら、常に私の中に湧いてきて消えなかったこと、それは、なぜこうまでして建物の「格を上げることに執心するのか」ということでした。
住居をつくるということが、暮す場所をつくることではなく、ステータス・シンボルをつくることにすり替わっているのです。
なぜなのか?
全くの推測ですが、これは、江戸の人たち、特に武家階級の出の方がたの、関西、とりわけ京に対してのコンプレックスの表れではないか、と思えてなりません。
だから、モデルとなっているのは、京の上層階級の人びとの住まいや寺社、その客殿などの外観です。

関西には、商家、農家などにほれぼれする事例が多数あります。勿論、関東にも多数あります。そこには、いわゆる客殿:書院造のつくりに学んだ室構成は見られますが、外観そのものの「模倣」は見かけません。ところが、武家住居では、室構成よりも先ず外観なのです。
これは、商家や農家の人びとは、日ごろの暮しにとって必要な室:空間: surroundings を整えることに意を用いているのに、武家、そしてその末裔の都市居住者は、相変わらずステータスの誇示が目標になっていたのだ、と考えられます。
   これは、今の「住宅メーカー」のCMを見ていると、現在でも変わらないように思えます。「隣のクルマが小さく見えます」というCMの頃と変わりない。

アメリカで、1960年代、ヨーロッパの街並みについて、その「外観」:見えがかり:の「研究」が盛んに為されたことがあります。ランドマークとか、シークェンスなどの用語の発祥になった「研究」です。日本では「都市デザイン」とか「環境デザイン」という「概念」として輸入されました。
   以前に紹介しましたが、たとえば、清水寺の参詣路が曲がりくねっているのは、清水の塔を見え隠れさせるための「デザイン」である、などという「研究」です。
   これについては、「道・・・・どのように生まれるのか」を参照ください。
なぜアメリカで「ヨーロッパの都市」の研究が盛んに行われたか。
これも、アメリカにはアメリカなりの街並があるにもかかわらず、歴史のあるヨーロッパの街並に対するコンプレックスあるいは「憧れ」の表れではないか、と思っています。
「近代化」=「西欧化」と思い込み、自国の事例を忘れ、もっぱら西欧の模倣に努めた我が国の「文明開化」を想起させます。

「日本家屋構造」がいわゆる「高等教育機関」向けの教科書として刊行されたのと同じ頃、別の書物が刊行されています。
「建築学講義録」です。これは、実業者:職方諸氏向けの学校の講義録をまとめた書です。各地の職方が競って購入した「教科書」と言ってよいでしょう。
   
技術書としては、この書の方が内容として充実しているように感じています。「建築学講義録」については、概略を下記で紹介しています。
    「『実業家』・・・・『職人』が実業家だったころ

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次回は、「金物使用」「土蔵」「門」についての項を紹介する予定です。

近時雑感 : 歳の暮にあたり

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仕事場の窓際の侘助に、メジロが訪れる時節になりました。
庭続きの一画に、かつて柿を栽培していた畑があります。
そこに、最近、タヌキも時々顔を見せます。落ちている柿の実がお目当て。かわいいです!


今この時に居ること、在ること、その有難さを深く感じることができた、と言うより、感じていなければならないのに無頓着だった、との思いを深くした一年でした。
そしてまた、人の「存在」は、自らの「感覚・感性」により保たれているのだ、ということ、これも身につまされて感じることのできた一年でありました。

この根幹に関わることどもを、これまで、深く意識もせずに過ごしてきたのはいったい何だ・・・。それでは、お前の言っていること、言ってきたこと、それは戯言だったのか、と言われてもやむを得ない・・・。
このあたりについての「心境」の一端は「回帰の記・了」で書かせていただきました。


この一年、いろいろとお気遣いいただき、本当に感謝しております。有難うございました。

来年も、建築をめぐり、思うこと、多くの方に知っていただきたいこと、紹介したいこと、などなど、
原点に立ち返る( radical な)視点を忘れることなく、書いてゆくつもりでおります。
お読みいただければ、そして、忌憚のないご意見をたまわれば幸いです。

明るい朝が迎えられますように!

  しかし、残念ながら、この年の暮は、昭和初期への逆行を想起させる暗い話が続きました。
  その「集約」が、首相の靖国参拝だったと思います。そこに、彼の「祈願」が総括されていた・・・。
  彼は、「靖国参拝は、英霊に対する哀悼の意を表するため」であると「解説」し、そこで「不戦の誓い」なる文言を加えています。
  「英霊」とは、一般には「死者」の美称。しかし、靖国神社に「祀られている」のは、そういう一般名詞の「英霊」ではないのです。
  そのあたりは、以下に転載させていただく12月27日付東京新聞「筆洗」に明快に説かれています。

  つまり、靖国に祀られている霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の霊」を意味しているのです。
  その「公務」とは、明らかに、「他国を侵略する」ことでした。そして、亡くなられた方がたの多くは、それを望んでいたわけではなかったはずです。
  首相のように「侵略であるかどうか、学会の定説がない」と思うのは勝手ですが、それは単なる「用語」の問題ではない。
  厳然たる事実として、「公務」が他国の人びとの生を損ねた、という事実は存在している。
  その事実を無視して、参拝に文句を付けるのはおかしい、などと言うこと自体、論理的におかしい。
  端的に言えば、「再び、そういう《公務》を、為政者が、人びとに対し、自由に任意に命じることのできる世に戻したい」と、
  首相はじめ現政権担当の人たちは考えている、と見なす方が論理的なのです。
  秘密保護法を強行に採決し、他国への弾薬供与を「例外として」認め、「集団的自衛権の行使」の「願望」・・・、
  「教育委員会を形骸化する」提言や「国定教科書の復活を容易にしようとする」提言・・・は、
  そのような世の再構築を求めんとする「意思」の現れと見ると合点がゆきます。

  しかし現政権は、制度自体に問題があるにしろ、選挙によって選ばれたのです。責任の一端は、そういう人びとを選んだ側にもある。
  したがって、選んだ側には、おかしな事態に対し「異をとなえる」「異をとなえ続ける」義務があるはずです。
  この「異をとなえる」ことをさせないための《法》、それが秘密保護法なのではないか。

  ものごとに違和感を感じる、それは、私たちが、私たちの感覚・感性が、「おかしなことの存在を感じている」からなのです。
  「違和感を感じた」ならば、「それが何に起因するか考え」、「それはおかしい」と言うべきである、と私は常日頃思ってきました。
  今後も続けたい、そうしなければ、朝は明けない、そう思うからです。

  蛇足を書きました・・・。

  あらためて、よい年をお迎えください!

謹賀新年

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朝の食事がすんで、柿の木の梢で朝陽を浴びながら一休みしているホオジロ(頬白)の群れ。
今日は風がないのでそれぞれ思い思いの向きを向いています。風の強い日には、そろって風上を向きます。
食事の時は互いに語らっているのでしょうか賑やかに囀っていましたが、こういう時は静かです。

本年もよろしくお願いいたします。

この国を−49・・・「理」を通し、守る」こと

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ブログ「リベラル21」の1月3日の記事に、元旦の新聞6紙(産経、読売、朝日、毎日、日経、東京)の社説を読んでの論評が載っています。
評者はそのなかで、次のように述べています。
   ・・・私は東京新聞の論調が、1930年代に生れた私の世代の、民主主義観を辛くも保持しているように感ずる。
   今年は東京新聞への権力からの総攻撃が始まるだろう。東京を応援したいと思う。
   調子に乗らず頑張って欲しい。読者の声なき声をよく聞いて欲しい。
私は6紙は読んでいませんが、まったく同感です。
東京新聞(中日新聞)の社説は、何度も紹介させていただいているように、「理」が一貫して通り、ぶれることがなく、読み応えがあります。
   私はネット版東京新聞:TOKYO Webで読んでいます。

元旦から「年のはじめに考える」として、次の標題で連続して書かれています。
  1日付 「年のはじめに考える : 人間中心の国づくりへ」
  3日付 「年のはじめに考える : 障害を共に乗り越える」
  4日付 「年のはじめに考える : 福島への想い新たに」
  5日付 「年のはじめに考える : 憲法を守る道を行く」

いずれも論旨明快、しかもきわめて平易な言葉で書かれています。
多くの方に読んでいただきたい、と考え、少し長くなりますが、すべてプリントアウトし転載させていただきます。
特に、「戦前〜戦後(史)」を身をもって知らない若い方がたには、5日付の「年のはじめに考える : 憲法を守る道を行く」は、是非読んでほしいと思いました。

   「異をとなえる手段、難しいです」と書かれた賀状をいただきました。
   多分、「歳の暮にあたり」をお読みいただいたのではないかと思います。

   私は、「何も難しく考える必要はない」、と考えています。  
   隣の人との茶飲み話のときだって「異をとなえることはできる」ではないですか。
   「異」が「日常の話題」になると、「異」は、世の中に「充満する」・・・。
   そうなることを嫌っている人たちがいるのです。     










同じ表題の論説は、今日も続いています。

建築界の《常識》を考える−1・・・「断熱」「断熱材」という語

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この冬一番と言われた寒波が通り過ぎた朝のケヤキの梢。
寒々としていますが、近くに寄ると、新芽がふくらみつつあります。


![文言追加 13日 9.00]

建築設計や施工にかかわる方がたが、建築確認申請時の「煩わしさ」について:根本的には、建築基準法およびその関連諸規定に起因する「煩わしさ」なのですが:「愚痴」をこぼしているのをよく聞きます。
一言で言えば、「基準」と称する「規制」が多く、そのなかに、どう考えても「理不尽なこと」つまり「理が通らないこと」が多いからです。

しかし、愚痴をこぼす方がたが、日ごろ「理の通ること」を口にしているか、というと、必ずしもそうとは言えないように思います。建築設計や施工にかかわる方がたの多くが、日ごろ「理の通らない建築用語」、あるいは「理の通らない《常識》」を意に介していないように見受けられるからです。
その状況が、結果として「法の名の下理不尽を蔓延らしてしまっている最大の因」ではないか、つまり、「付け入る隙(すき)を与えている」、専門家であるならば、率先して「理不尽な《常識》」に異を唱えなければならないにも拘らず、むしろその「普及」に手を貸しているのではないか・・・。簡単に言えばいわゆる「オウンゴール」ではないか、と私は思っています。


そこで、ここしばらく、「日本建築構造・中巻」の紹介の合間を縫って、この建築界に蔓延る《常識》について、思うところを書いてみようと思います。
「事例」は、選択に困るほどいっぱいあります。「耐力壁のない建物は地震に弱い」、「瓦屋根の建物は地震に弱い」、「床下の防湿には地面を防湿コンクリートで覆うのがよい」、「(人工)乾燥した木材は伸縮しない」、「防腐剤を塗れば木材は腐らない」、「太い木材を使えば頑丈になる」・・・。

そこで、これらの事例のなかから「代表的な」いくつかを選び、それについて書くことにします。当然、既に何度か書いたことと重複する点がありますが、ご容赦ください。


今回取り上げるのは、「断熱」「断熱材」という用語。

この用語は、今や、建築関係の方がただけではなく、一般の方がたの間でも広く通用しています。
住宅はすべからく「断熱性能」が求められる、あるいは、住宅は「高気密・高断熱」が肝心である・・・・。
これらは、住宅メーカーの広告では、「耐震」とともに多く見られる用語です。しかも、建築関係者・専門家も、あたりまえのように使っているために、世の中に、多くのそして大きな「誤解」を広めている用語である、と私には思えます。

漢字は、言うまでもなく「表意文字」。したがって、「断熱」とは、「熱を断つ」という意、「断熱材」は「熱を断つ材料」との意になります。
しかし、英語では、断熱は“Thermal insulation”そして、「断熱材」は“ Materials used to reduce the rate of heat transfer”になるはずです。つまり、「熱の移動する割合を減らすような材料:熱伝導率の小さな材料」のこと。
残念ながら、漢字の「断熱」「断熱材」からは、 to reduce the rate of heat transfer の意が「読み取れない」のです。
一言で言えば、英語圏では、「断熱可能な材料など存在しない」ことを前提にしている。
漢字圏でも、それは同じはずです。だから、本来、漢字には「断熱(材)」という語彙はなかったと考えてよいでしょう。
正確に伝えるのであるならば、「熱移動低減材」あるいは「熱移動緩衝材。
「保温材」「保冷材」の方が「断熱材」よりもマシかもしれませんが、それでも「温度を一定に保ち続ける材料がある」かのような誤解を生む・・・。
もしも、(完全に)「断熱」「保温」「保冷」可能な材料が存在したならば(そのようなイメージをこれらの語は与えるのですが・・・)、「世の中の常識」はひっくりかえるでしょう。
ところが、そのようなイメージ・誤解を蔓延させながら、「断熱」の語が大手を振って世の中に出回っているのです。
しかも、「専門家」であるはずの「建築界の方がた」の誰も、おかしいと言わない・・・。不思議です。 
   私が学生の頃は、「断熱」ではなく「インシュレーション」という呼称が使われていたと思います。適当な語がなかったのです。
   おそらく、「断熱」という語は、理工系の現代人が造った和製漢語ではないでしょうか。
   なぜなら、明治人ならば、このような誤ったイメージを生む語は造らなかったと思えるからです。
   明治期に造られたコンクリート⇒混擬土などは言い得て妙な造語ではありませんか。
   多分明治人なら「インシュレーション」に絶妙な漢字をあてがって済ましたかもしれません。
     「断熱」は、木造軸組工法を「在来」工法と読み替えた《企み》と同趣旨の造語ではないか、と私は推測しています。
     そして、こういう語を発明した方がたの「思考」法に、「原子力ムラ」の方がたと同じものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

そこで、なぜこれほどまでに「断熱」という《概念》が《一般化》したのか、知っておいた方がよい、と思いますので、かつて(2005年)、茨城県建築士事務所協会主催「建築設計講座」のために作成したテキストから、当該部分を抜粋して転載させていただきます。
 


驚くべきことは、1980年の「指針」で「断熱材」が推奨されて以来、「現場」から、木造建築での壁内等の腐朽の急増が指摘されていながら、指針の見直し(それも十分とは言えない内容)が為されたのは1999年、つまりほぼ五分の一世紀後だったということ。その間、多くの建物をダメにし、なおかつ「現場」を大きく混乱させ、その「混乱」は現在にまで及んでいるのです。
今、建築に関わる方がたで、上記の「経緯」をご存知の方はどのくらい居られるでしょうか。「経緯」を知らぬまま、「断熱」の語に振り回されている、というのが「実情」ではないでしょうか。

私は、居住環境を整えるにあたり、「インシュレーション」について考えることは重要なことだと考えています。
しかしそれは、「断熱材」を如何に使うか、ということではないはずです。
そうではなく、「インシュレーションについて考えること」とは、居住環境の熱的性質の側面について、熱の性質に基づいて考えることであると私は考えています。

ところが、「熱」というのは、きわめて分りづらい「対象」です。
温度と湿度の関係、それに材料・物質自体の性質が微妙に絡んでくる。これを「立体的に」把握することは容易ではないからです。
たとえば、南部鉄器や山形鉄器製の急須は、鉄だからすぐに冷めるように思えますが、陶磁器製のそれよりも湯冷めしにくい、という特徴があります。この理由を説明するのはなかなか難しい。
あるいはまた、「土蔵や塗り壁づくりの建物の内部が恒温、恒湿なのはなぜか」、そしてまた「土蔵の壁や煉瓦造の壁は、RC壁造の壁に比べ、日差しを浴び続けても熱くなりにくいが、それはなぜか(土、煉瓦、コンクリートの比熱:温まりやすさ:は大差ないのです!)」・・・この説明も難しい・・・。

   ここに掲げた「指針」の場合、居住空間の「室温」をいかに「閉じ込めるか」「一定に保つか」という一点に「関心」が集中したこと、
   つまり、「現象」を単純図式化した結果、いろいろな問題を起こしたと考えてよいでしょう。
   そのとき、特に、「木材の特質」を無視したことが問題を大きくしています。

そこで、前記講座のテキストに、一般的な熱の性質の「指標」である「熱伝導率」と「比熱」を諸物質・材料についてまとめてみた表がありましたので、以下に転載します。ただし、これによって、何かが分る、というわけではありません。あくまでも「概観」です。



熱伝導率は、註に示したように、置かれた「環境」の温度・湿度で異なる、という点に注目してください。一筋縄ではゆかない証です。
参考として挙げた塗り壁(土壁)、煉瓦壁の特徴も、「熱」の問題が、単純ではないことの一例です。
   瓦の土居葺きも、土壁と同じ効能を持っていたのかもしれません。
往時の人びとの建物づくりでも、当然、居住空間の熱的側面も、工夫の対象であったと考えられます。しかし、これらの工夫は、架構の工夫などに比べ、「見えにくい」、つまり「分りづらい」のです。塗り壁づくり、土蔵造りなどは、比較的「見える・分る」事例なのでしょう。「越屋根」なども、その一つかもしれません。
   
   土蔵の詳細については、「近江八幡・旧西川家の土蔵の詳細」で、土蔵の屋根の施工詳細は「西川家の土蔵の施工」で紹介しています。
   この例は、直に瓦を葺いていますが、別途土塗屋根上に木造の小屋・屋根を造ることがあります。かつて、東京・杉並の農家の土蔵でも見かけました。

屋根面のインシュレーションについては、これまで私も、いろいろ試みてはきましたが、どうするのがよいのか、未だに確信を持てていない、というのが正直なところです(壁は、大抵漆喰真壁なので、施さない場合がほとんどです)。
「棟持柱の試み」で紹介の例では、二階は天井を設けない屋根裏部屋の形ですが、屋根面からの熱射を避けるためのインシュレーションは、屋根面(天井内)の空気をドラフトで越屋根部で排出する方策を採っています。その設計図が下図。
   天井は、垂木下面に杉板を張り、野地板と天井板との間の空気を排出する方策です。同じく、野地板と瓦の間の空気も排出しています。
これは、「煉瓦の活用」で紹介した事例で最初に行った方策の継承。いずれの場合も、一定の効果はあり、屋根直下の部屋でも夏、熱射により暑くはなっていません。
   室内は、越屋根の欄間の開け閉めで通風を調整しています。ただ、建てつけの悪さと、収縮により、隙間風で冬季は寒い![文言追加 13日 9.00]

ところが、同じ考えで、仕事場兼自宅の屋根で、下図のように、棟押えの部分に下図のような細工を施しましたが、ここでは、あまり効果がありません。屋根裏部屋は、夏暑くなるのです。

この違いは、ドラフト効果の大小だろうと推測しています。
越屋根に施した例では、通気孔は20mm径@約45?、棟板押えの場合は、棟のほぼ全長にわたって排気用の空隙がある。
考えてみれば当然なのですが(後の祭りとは、まさにこのこと!)、前者の方が排出孔が小さい分、ドラフトの速度が大きくなる。つまり、空気がよく流れる。
   工事中に、タバコの煙を流入口に近づけると、勢いよく流れたことを覚えています。
それに対し、後者の場合、排出孔が大きいので流れが遅くなり、その分熱せられた空気の滞留時間が長くなるからだ、と思われます。
排出口を限定すれば(小さくすれば)、多分改良されると考えていますが、未実施、つまり確かめていません・・・・!   

  
もう少し、往時の人びとの surroundings の熱的側面への対応のありようについて学習しなければ、と思いつつ、長い間疎かにしてきてしまっているのです。
往時の人びとの知恵に学びたい、と思っていますが、とっかかりが分らない・・・。とにかく、事例を集めることかな?
寒冷地にお住まいの方、是非ご教示願います。(暑い地域の対処法はおおよそ推測できますので・・・)![文言追加 13日 9.00]

近時雑感:一周年!のご挨拶

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西側の空地の枯れすすき。この向うには筑波山が隠れています。
筑波下しが遮られるためか、小鳥たちの恰好の寝場所になっているようです。
朝夕、賑やかな囀りが聞こえてきます。

今日が終れば、脳出血を発症してちょうど一年が過ぎることになります。
昨年の1月18日は、まだ残雪があり、冷え込んでいたのを覚えています。その冷え込みについてゆけなかった・・・。
今朝も寒い朝でした。昨日が氷点下6度ほど、今朝はそこまで下がりませんが冷えました。
その中、新年の挨拶かたがた、主治医の診察を受けに行ってきました。

今こうして無事のご挨拶ができること、その有難さを心底感じつつ、これからも毎日を過ごしてゆこう、と考えています。
今後とも、よろしくお願いします。


さて、「日本家屋構造・中巻・製図編」の紹介、次回は「土蔵」のつくりかたの紹介が主になります。
今回は、現代語で読み下し、詳しく紹介しようと考えています。現在編集中ですが、もう少し時間がかかりそうです。

「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−12 :「二十一 金物使用の一例」 + 付録 「西欧の金物仕様」

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今回、「二十一 金物使用の一例」「二十二 附属建物」の内「土蔵」の項を紹介する予定でしたが、「土蔵」の項の分量が多いので、「二十一 金物使用の一例」の紹介だけとすることにいたしました。ご了承ください。

「二十一 金物使用の一例」からは、明治期の金物使用の状況を知ることができますので、現代語に読み下し、随時、註を併記することにします。現在の状況と比較しながらご覧ください。

はじめに「二十一 金物使用の一例」の項の原文と解説図(第二十五図)を載せます。

以下現代語の読み下し、及び註を加えます。
「二十一 金物使用の一例」
第二十五図は、家屋のある部分の仕口を堅固にするために金物を用いた例。
図い、図ろは、柱と足固め、柱と長押、柱と二階梁との仕口に用いる例。
図はは、柱と土台、柱と大引、柱と雨戸框及び根太との仕口の例、
図とは、柱と附土台(付土台)の仕口、
図ちは、柱と二階梁の仕口(図い)の平面図。
これらは、いずれも、耐震のつくりとして用いることが多い。

   註 上図(第二十五図)の内、図に、図ほは、付長押の取付けに、従来の取付け方(下記参照)の釘の代りにボルトを用いた例です。
      付長押は、化粧材。架構の強度とは無関係。
        なお、付長押の通常の取付法は下記に載っています。
        「日本家屋構造の紹介−16:長押の構造
      図へは、鴨居の簡易固定法、ここで使われる金物は釘。架構の強度とは無関係。
        鴨居の通常の取付法は、「日本家屋構造の紹介−15」参照。
      図とは、付土台の柱への取付法。付土台は化粧材:土台のように見せるための材。架構の強度とは無関係。
      図はの上は雨戸の一筋敷居を柱に固定するために、根太〜柱〜一筋をボルトで縫い、根太側でナットで締める方策。これも架構の強度とは無関係。
      図ろの下の一筋敷居は、柱にだけボルト締めの例です。通常の縁側の構造は、「日本家屋構造の紹介−14」参照。
      以上は架構の強度とは無関係の部位です。
      それゆえ、第二十五図の内、架構の強度に関係がある部位は、
      図い、図ちの二階梁・桁の部分、図ろの柱と二階梁の取付部、図は下部の土台と柱の取付部だけです。
        図い下部の土台の図は付土台と思われます。
        図ろの二階左側の部材は、二階の縁先の縁框兼一筋敷居と思われ、当図下部の一階の一筋に同じです。
      以下、各部を見ていきます。
      図い上部の柱と梁・桁は、柱、梁・桁とも噛み合わせ部をそれぞれ5分程度欠き取り噛み合わせ、ボルト締めにしているように見えます。
      図ろの柱と梁の取付けもいに同じです。
      図はの下は土台に柱を固定するためにボルト(羽子板ボルト)を使う例。
        この当時は、布基礎は用いられていません。したがって、この土台は礎石上に転がしと考えられます。
        ボルト頭部に座彫りが為されていますから、ボルト締めは建て方前に為される、つまり、柱と土台を平場で組んだ後建て起こす、と考えられます。
      羽子板部の柱への固定もボルト締めのようです。

      以上、ここで紹介されている金物は、「ボルト・ナット」だけと言ってもよいでしょう。
      二材間にボルトを通し、ナットで締め付け二材を密着させ、力を伝達すること、これがボルト仕様の原理です。
      この力の伝達は、両者間の摩擦に拠ります。強く締めれば摩擦は大きくなります。鉄骨造のHTB(ハイテンションボルト)も同じ理屈。   
      ただ、木材の場合は、必ず座金を付けます。そうしないと、ボルトの頭、ナットが容易に木材にめり込んでしまい、材を破損するからです。
         鉄骨造でも使いますが、それは、締める力を広い面積で伝えることになるからです。
      また、二材が木材の場合、十分にナットを締めたつもりでも、時間が経つと緩むことは、現場では周知の事実です。
      これは、多くの場合、木材の収縮に起因します。また、振動が加わり続けることでも起きます。
         ナットを二重にすることで、多少は避けられますが、ボルトの効能を維持するためには、点検し、常に締め直すことが必須です。
        施工後の点検が可能か否かは、木造建物への金物使用の際の重要な注意点である、と私は考えています。

      図い、図ろの二階部分の場合、両材が密着している場合には一定の効果が期待されますが、
      収縮等で密着の度合いが減少した場合、ボルトを軸に回転し、取付け部の木口部分のみが抵抗するにとになり、取付け部は容易に破損します。
      これを避けるため、西欧では、ボルト締めに際して、二材の間に、ジベル(独語の dÜbel の音訳) という金物(別図)が使われてきました。
          ジベルの歯が二材に喰い込み、二材がずれる( shear )ことを防ぐ、あるいは、二材がボルトを軸に回転することを防ぐための金物です。
          独語 dÜbel に相当する英語は dowel ですが、その「役割」を示す shear conector も使われています(付録参照)。
        
      このような、金物使用についての基本について、我が国の建築教育用教材から当該箇所を抜粋すると以下の通りです。
      ア)私の学生時代の教科書:「各種建築構造図説」(理工学社 1957年刊 第5版)では、下図。 
        
      イ)最近の建築教育用教科書「構造用教材」(日本建築学会編 1995年改訂第2版 2002年第9刷版)では、下図。
        この書では、ジベル金物は、通常の木造では不要と考えているのか、「集成材構造」の項に載っています。
       
      いずれの書にも、図だけがあり、それぞれの金物使用にあたっての解説はもちろん、その金物を使用する「理由」も示されていません。
      これでは、教科書としての意味がない、役割を果たしていない、と思うのは私だけでしょうか。
      これは、法令にともない刊行される各種解説書の類でも同様です。

      一方、欧米の木造建築の技術書の解説は、きわめて懇切丁寧です。
     各部位に起き得る状態を示し、それに応じた古来の仕口が紹介され、それで不十分と考えられる場合には、
     その部位に適応した金物を考え、補強する、この「理」で一貫しています。
        古来の木造工法全般についての地道な研究が基になっているのです。

     おそらく、日本では、「理由を考えるのは《有識者》に任せておけ」、「下々は《有識者》の指示通りやればいい」と考えているのかもしれません。
     それは、各種の「告示」の類の規定事項に、「理」が一切示されていないことで明らかです。
         それゆえ、ボルトや釘などの員数の多少だけが《論じられる》傾向が顕著になるのです。

        これでは、技術は停滞するのが目に見えています。

     そこで、「日本家屋構造」の紹介ではありますが、少し長くなりますが、
     付録として、欧米の木造建築の解説書から、「金物仕様」の箇所を一部抜粋して転載します。
     彼我の違いをご覧ください。     
     字が小さいですがご容赦ください。
       本当は日本語で紹介したいところです・・・・。

           **********************************************************************************************************

付録 Fundamentals of Timber Building Construction
  出典 “Timber Design and Construction Sourcebook : A Comrehensive Guide to Methods and Practice”
       Karl-Heinz GÖtz・Dieter Hoor・Karl MÖhler・Julius Natterer 共著 
      McGraw-Hill Publishing Company, New York 1989年刊
       註 原本はドイツで刊行され、その英訳版がこの書です。









           **********************************************************************************************************

次回は「土蔵」のつくりかたの項、これも時間がかかりそうです。



近時雑感 : 「牽強付会の説」は要らない : 筑波一小体育館の板壁について

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春を待つ山林。空気は冷えていますが、春の用意は進んでいるようです。

  註 牽強付会:けんきょう ふかい:本来 道理(事実)に合わない事を無理にこじつけて、自説に有利になるように展開すること。(「新明解国語辞典」)

標題に副題を付しました。[25日18.15」

今週のはじめ以来、当ブログへ「筑波第一小学校体育館」の検索でお寄りになる方が妙に多いのが不思議でした。どうやら、日曜日のTBSTVの番組の中に、この建物の映像があり、その影響らしい。
番組がどのような内容だったのかは詳しくは知りませんが、検索キーワードや閲覧元URLから推測すると、この建物の壁に使った厚い板壁が、国産材活用・日本の林業復興の点で好ましい、これからの日本の木造ではこういう使いかたがよい、・・・というようなことだったようです。

現在、各地に適齢期を迎えた針葉樹、特に杉材がきわめてたくさん使われずにいわば放置されています。
なぜこれほどまで多くあるのか。
それは、敗戦直後、戦後の復興で木材が不足する事態が生じることを予測し、その対策として、各地で植林が奨励されたからです。私の暮す地域の山林も、圧倒的に針葉樹が多い。それまでの混交林の山に植林したのです。皆、適齢期です(今、丘陵地の法面にだけ広葉樹が残り、他は大半が針葉樹です。上の写真参照)。
そして、実際、復興にあたり、木材は大量に使われました。
しかし、折角植林されたのに、育った針葉樹は一顧だにされなかった。
価格の安い輸入木材が主に使われたからです。先人の苦労が水泡に帰したのです。
   若い方がたは知らないかもしれませんが、造作材には南洋材のラワンが多用されました。合板の大半はラワン材だった。
   ラワンという語、実物も知らないかも・・・・。
     今は原木は輸入されていません。日本向けの乱伐が現地の環境問題を生み、制限されるようになったからです。それゆえ、今は、価格的には高級材。
   しばらくすると、構造材に北米産のベイツガの類が多用されるようになります。
   なぜ輸入材が安いのか?
   輸入材のほとんどは、天然林の伐採によるものだからです。いわば、伐ってくるだけ・・・・。
   しかも、輸入を奨励するかのように、関税が撤廃され、外材使用はますます増える一方になります(最近は北洋材:これも天然材:の増加が目立ちます)。
      ここに、TPPが成立した後の姿が浮かび上がってきます!
      現在、「円安」の結果、皮肉なことに、輸入材が高騰して、国産材が相対的にやすくなり、使用が増えているとのこと!
      この「林業の衰退と外材の関税との関係」の「実情」を広く世に知らしめたのは、なんと《有識者》や《専門家》ではなく、ある「コミック」でした!(下記)。
        また、同じ「論理」を使うなら、国産小麦の生産量を増やすために、粉食を奨励しよう、ということになりますが、その「発言」は聞こえてきません。
        実際、粉食、パン食が従来よりも格段に増えているのに、小麦をつくっている畑は見かけません。輸入小麦が圧倒的に安いからです。
        それでもなお、国産材を使って林業を振興しよう、と言いますか?
  
      「取り急ぎ:災害防止には木造建築禁止が一番!
      「続・取り急ぎ:災害防止には木造建築禁止が一番!

ちょうどこの体育館を設計していた頃、林業の疲弊が問題にされ、その復活のために、国産材を活用しようという「動き」が、建設省や建築学会などを中心に盛んでした。
建築に国産材を多量に消費すれば、林業が再興する、という「論理」です。
しかし、私は、この「動き」に違和感を感じていました。あまりにも短絡的、安易に過ぎる。風が吹けば桶屋が儲かる的で、論理の筋立てがこじつけではないか?
それゆえ、私は、その「動き」に加担するような発言は一切しませんでした。
   そのことについて、故田中文雄氏(当体育館の木工事を担当)は、「住宅建築1987年7月号」中の座談会で、次のように語っています。
      「建築文化」や「新建築」をみても、下山さんは木材業界を勇気づけようというような考えをひとつも書いていないでしょう。それが困るんだ。
      建築は建築家と業者だけでできないもの、多くの分野の人の協力があって初めてできるんだ。
      だから私はグチや不満でなく、前向きに日本全体をみた話をしてもらいたかった。・・・
   そのあたりのことについては、下記をお読みください。   
   「専門家のノーマライゼーション・・・・木造建築が『あたりまえ』になるには

私の「論理」は単純です。「建物は『林業』のために造るのではない」、の一言に尽きます。
田中氏の発言中に、「多くの分野」という言があります。この「分野」のありようについての「理解・認識」が、私と田中氏とでは根本的に異なるのです。
林業は、普通、農業などとともに、「第一次産業」と呼ばれます。なぜ「第一次」に位置づけられるのでしょうか。
それは、世のなかの「暮し」の「基本」だったから、のはずです。
では、「第一次」という言い方が、人間社会の原始古代からあったでしょうか?
ありません。当初は、すべて、自前だったのです。食べ物も、建築資材も・・・、すべて自分で、手近なところで調達していた。
それが、時代の経過とともに、「分化」「分業化」していった。建物づくり・建築は、第二次、第三次産業・・ということになってくるのです。大工さんをはじめとする職人・職方の分業化も同じです。こうして「分化」した各「概念」を、二項対立的に扱ってよいものでしょうか?
かつて、農林業は、大量に生産・収穫し、とにかく大量に売りつけ収益を上げることに意を用いていたでしょうか?
そんなことはありません。農作物の量は、需要を賄う分生産され、消費される、つまり、自ずとバランスがとれていたのです。
同様に、「分化」した各「分業」の間に、上下の関係が存在していたでしょうか?否です。指図する人が職方よりも上位にある、などという「意識」も存在していません。そういう上下関係、対立関係を伴った関係ではなかったのです。それが「分業」ということ。私は、このように理解しています。
   「再検・日本の建物づくり―4」参照
しかし、この第一次産業と第二次・第三次産業との関係を、現代風の二項対立的な位置関係で理解するとき、田中氏のような発言になるのだ、と私は思います。対等・並立の共生ではなく、上下関係としての関係の理解。だから「協力」という言をわざわざ発することになる。そのように私には見えます。
このような事態になったのは、多分、近代以降、特に現代になってからの社会の「アメリカ化願望」が強くなってからのはずです(これは、20世紀初頭から、西欧でも目立ち始め、それを危惧し歎じた一人がリルケです。日本では、少し遅れて、今が盛りかもしれません)。
特に、今、第二次産業:製造業などで普通になっている「商法」、すなわち《大量に生産し、需要を「掘り起し」消費させるという「商法」》があたりまえになってから、第一次産業と、第二次以降の産業とのバランスがおかしくなってきた、これが私の「理解」です。
それはすなわち、「経済」という語の本来の語義の喪失にほかなりません。
   今、農業に付加価値を付ける・・、という「政策」が論じられています。これも、その延長上にあるのではないでしょうか。
   そして、本来の語義が保たれていたのならば、昨今流行りの「商品の偽装」など起きるわけがないではありませんか!

   
何か、夢のようなこと、時代遅れのこと、戯言、を言っている、と思われる方が居られるかもしれません。
私は、「理」の通らないことは、私の性に合わないから、そういうことを言わないだけなのです。
《時流にうまく乗る》、というような「世渡り」も私の性に合いません。
したがって、本質を忘れた「牽強付会の説」を展開するなどということなどは、考えも及ばないのです。
基本・根本、原点にさかのぼって考えましょう、そう思っているだけです。


さて、あの体育館の壁を、なぜ、柱間に杉の厚板を落とし込む壁にしたのか、説明します。
もちろん、国産の杉材を大量に使うことで日本の林業の復興に貢献しよう、などという理由ではありません。

木造軸組工法では、壁は、柱間に充填する形を採るのが普通です。充填の方式としては、真壁方式と大壁方式があります。
では、体育館の壁として何がよいか。何が求められるか。
物がぶつかっても壊れにくいこと、人がぶつかっても怪我が起きにくいこと、なおかつ、維持・管理が容易なこと・・などです。

いろいろな方策が考えられます。
大壁方式は、壁の見切りに別途細工が必要になります。つまり、手間の追加が要る。それゆえ、柱間に収める真壁の方がいいだろう。
では、真壁をどのようにつくるか。芯材(間柱・胴縁など)を柱間に設置し、湿式:塗壁など:の壁を充填する、同じく乾式:板やボードの類を張る:の壁を充填する、この二つが考えられます(木骨煉瓦造のような方法もありますが、この建物の場合は重量の点で不適)。
そこで行き着いたのが柱間に厚い板壁を建て方時に組み込む方法(通称「落し込み板壁」)。
この方法は、両面が一度に仕上り、表面に釘等が表れず、物がぶつかっても強く、人がぶつかっても比較的安全、材料の量も、胴縁板張りとそれほど差がない(体育館ならば、胴縁も頑丈にし、板厚も最低でも15mm、できれば20mm以上は欲しい、それで算定すると、材積はそれほど多くなく、胴縁・間柱など工費を考えれば、問題はない)・・、これらを勘案して行き着いたのです。

しかし、この結論は、体育館の建物だからの結論です。
私は、通称「落し込み板壁」を住居に使うことを躊躇します。古来、我が国の人びともそのようです。もし、住居にも適しているのならば、とっくに普及しているはずですが、歴史を見ても、日本の住居の例を、私は寡聞にして知りません。
日本での使用例は、蔵・倉庫、そして一部の社寺に限られるようです。
それはなぜか?
いったん柱間に落し込んだ板壁は、撤去が容易でありません。したがって、大げさにいえば、壁位置を決めるに際し、石造、煉瓦造、RC造のような「覚悟」が要ります。一度造った壁を取り去り改造する、あるいは増築する、・・これが不可能だと言っても言い過ぎではないでしょう(2×4工法に似ています)。
つまり、「日本の建物づくりでは『壁』は自由な存在だった」シリーズで触れたように、撤去・改造・改修不可の壁は、日本人は住居では造りたがらなかったのです。だからこそ、住居の事例が見かけないのです。人びとは、改造を前提にしたつくりを考えていた、と言ってよいかもしれません。
   各地に数百年生きた住居が遺っています。それらは、ほとんどすべて、建設時の姿を数百年間保っているわけではありません。
   改造、改修、増築などが繰り返し行われ、壁だったところが開口になったり、開口が壁になる、などの例は枚挙に暇がない、と言ってよいでしょう。
      「日本の建物づくりでは『壁』は自由な存在だった」シリーズでも例を挙げています。「カテゴリー」の「壁は自由な存在だった」からアクセスできます。
   逆に言えば、それが数百年永らえ得た理由でもあるのです。そうやって、暮しの変化に対応してきたのです。
   こういうことが、柱間に組み込んだ厚板壁では容易に行えないのです。だから、落しこみ板壁を住居で使うなら、石造同様の「覚悟」がいるのです。
   これが、日本の住居の石造の住居などとの大きな違いなのです(石造などの場合は、最初の規模・室数が大きい。それを場面に応じて使う)。

   なお、通称「落し込み板壁」は、古く伊勢神宮でも使われている歴史のある工法だ、という説があります。
   この説も「誤解」を生みそうです。
   日本で、厚さの薄い木材、「板」が一般に使われるようになるのは、おそらく近世以降でしょう。それまでは製材ができなかったのです。
   したがって、古代〜中世には、現在の「平角」材のような木材が、そのまま、壁や床にも使われています。
   つまり、伊勢神宮で、厚板がいい、という「選択」で採用されたのではなく、いわば、それしかなかった、のです。
     奈良時代の住居遺構とされる法隆寺・伝法堂の床もその一例です。そこでは、建具も厚板製です。
     「奈良時代の開口部

また、通称「落し込み板壁」には、次のような「特徴」もあります。
「落し込み板壁」は、厚板をいわば平積にします。継ぎ目・目地が横に入ります。
その結果、次のような「現象」が起きるのです。
一つは収縮による空隙の発生。
筑波一小の体育館の場合、厚板は仕上がり幅4寸5分×2寸、これを、一階部分では床梁〜二階床梁の間に21枚平積にしてあります。総丈は約10尺、梁〜梁は全高が充填されるはずでした。ところが、竣工後まもなく、外壁の一部で、上部に1寸ほどの空隙が生じたのです(中から空が見えた!)。平積した総丈が材の収縮で縮んだのです。対策は講じてあったのですが、これは、「想定外」の縮みでした。
   ログハウスでも、同じことが起き、対策は結構大変なようです。
もう一つは、外壁の「落し込み板壁」の防雨。
真壁の外壁は、一般に柱際の防水・防雨に苦労しますが、「落し込み板壁」では、更に特有の問題が生じるのです。
厚板と厚板の継ぎ目・目地に沿って、水が風により柱際へ吹き寄せられるのです(塗壁などの真壁ではあまり起きません)。
各段の目地で吹き寄せられた水」が、柱に彫られた板を納める溝を越え、内部に回り込み、「壁から雨が漏る」事態に至るのです。
特に、南東風を伴う風雨の襲いやすい地域:筑波地域はそれにあたります:にあるこの建物の場合、建物の東面での雨漏りが目立ちました。
   関東は、台風時、南東風の風雨が多い。
いろいろ、柱際に細工を施しましたが(押縁を設けたり、ダメモトでシーリングもしてみました)、雨漏りは止まりませんでした。
結局、東面だけ、全面に、新たに杉板横張りの大壁を設けて、やっと解決しました(他の面と似たように仕上げてありますから、よく見ないと見分けがつかないかもしれません)。
     本当は、こういう箇所には縦板張りの方が、適しています。水の自然の流れに対して素直だからです。
     関西、特に四国などで縦張り大壁が普通なのは、台風によく襲われるからのようです。

以上のように、筑波一小の体育館に通称「落し込み板壁」を使ったのは、体育館の「用」を考えた一結果にすぎない、とお考えください。

私は、明治の初め、滝 大吉 氏が「建築学講義録」の序文で述べている「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問・・・」との言は、今なお「真理」である、と考えています。
建物をつくるにあたって、「為にする牽強付会の説」は、百害あって一利なし、要らない、と私は考えています。

「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−13 : 「二十二 附属建物 土蔵」

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今回は、「二十二 附属建物 土蔵」の項。

はじめに、原書の文と図を編集して転載します(歪みや不揃いなどがあります。ご容赦ください)。


以下、現代語で読み下し、随意、註を付します。

住家(すまいや:住居)は、光線、空気の流通などに留意するが、土蔵は、専ら(もっぱら)防火に意を尽くす。切妻造とするのが通例である。第二十六〜二十八図は土蔵の構造の概要を示した図である。
   註 この図だけでは分りにくいので、実例として、かつて紹介した近江八幡にある「旧・西川家の土蔵」の図と写真を再掲します。
         

土蔵を建築するにあたっては、先ず、建設する場所の地質に適応した地形(ぢぎょう:現在は地業と表記)を行い、地盤石(ぢばんいしorぢばんせき:礎石のこと)を四周に据え、側石(がわいし)を積み重ね、土台を受ける。
   註 「日本建築辞彙」では、「側石」=「根石」=「蠟燭石」と解説されているが、第二十六図の場合は、「布石」と解する方が適切ではないか。
      蠟燭石などは、下記に説明があります。
         「日本家屋構造・中巻の紹介−4
側石の上に土台を据える。
土台は、下端および外面に柿渋あるいはコールタール(ともに防腐剤)を塗る。
柱には、その外面に苆掛け(すさかけ:塗壁の芯材となる小舞竹:こまいたけ:を受けるための段状、簓:ささら:状の刻み)を刻む。刻みの間隔は4〜5寸程度。
      苆掛け:先の「旧西川家の土蔵」中の図に参考図があります。 
      苆:すさorつた:塗壁の材料の土や漆喰など:の、乾燥後の亀裂を防ぐために混入する繊維状の材料。
         従来は自然の品:古藁、古麻布、棕櫚など:が使われたが、最近はガラス繊維も用いられる。

柱は三尺間隔で建てることが多い。
また、両妻の柱は伸ばして母屋を差し、天秤梁を枘差しまたは折置として、その前後に繋ぎ梁を差し、地棟(丑梁)及び天秤梁との仕口は渡腮(わたりあご)及び蟻掛(ありかけ)とする。
   註 図がないので、このままでは意が分りません。そこで、次のように解釈します。
      妻面には、@3尺に柱を建て、中央にあたる柱2本の間に地棟を受ける天秤梁を掛ける。
        例1 梁行2間:12尺のときは柱を@3尺で5本建て、2本目と4本目の柱の間に天秤梁を組み込む。
             天秤梁を組み込まずに、中央にあたる3本目の柱で直接地棟(丑梁)を承けることもできるが、架構の強度は天秤梁を組み込む方が強い。
             この場合は、天秤梁の代りに、各柱を貫あるいは差鴨居で固めることも考えられる。
             なお、旧・西川家の土蔵では、2本目〜4本目に天秤梁を組み込み、3本目の柱も天秤梁を承けている(前掲の写真、断面図参照)。
        例2 梁行2間半:15尺ならば、たとえば、@3尺で柱を6本建て3本目、4本目の柱間3尺に天秤梁を組み込み、地棟を承ける。
        いずれにせよ、妻面の架構の強度を考慮してあれば、妻面の梁の構成は任意である。        
      天秤梁は、柱上に折置か、あるいは、2本の柱の間に枘差で取付く。
      地棟と天秤梁の仕口は、渡腮及び蟻掛とする。
        これは「京呂組:兜蟻掛け」の意と解します。
        これについては「日本家屋構造の紹介−11」の第三十七図を参照ください。
        なお、下記中の図および解説も参照ください。
         「日本家屋構造・中巻の紹介−7
         「日本家屋構造の紹介−13

小屋中の合掌は、軒先を折置として、地棟上にて組合せ、左右の束及び傍軒垂木ともみな苆掛けを切り刻む。
   註 左右の束とは、妻面の天秤梁上の母屋承けに束柱を設ける場合の意と解します。
垂木は、軒桁上で止め、鉢巻貫及び広小舞を打つ。野地は裏板として垂木上面に張り、瓦葺き用の土居葺きを施す。裏板には、縄掛貫及び土止木を打付ける。
   註 この部分は、第二十六図の乙図を参照。
      裏板は、室内の天井板になる。
貫は、@2尺程度に平屋建てならば、中央一通り、二階建てのときは二通り、掛子彫(かけこぼり)にして、柱の貫穴に渡腮で納めるか、あるいは込栓打ちで固める。
   註 「中央」の意が分りません。
      掛子彫とは、貫を貫穴に渡腮で架けるための欠き込みの意と解します。
      楔を打つと、貫と貫穴が噛み合い、簡単には動かなくなります。
        なお、柱内で貫を交叉させ、双方の貫の交叉部を相欠きとし、楔打ちによって両者を噛み合わせる方法を採ることがあります。
        一例は「日本の建物づくりを支えてきた技術−19」」参照。 
      込栓打ち:貫を所定の位置に通した後、柱外面から込栓を打つ。
      要は、柱と貫を、強固な格子状に組むための方策です。
壁下地の小舞は、木材の時は1寸2〜3分角の材を使い、防腐のために柿渋またはコールタール塗とする。
竹を用いるときは、周長4〜5寸程度のものを、縦は柱間に5本ずつ、横は苆掛ごとに釘打ちで取付け、棕櫚縄(しゅろなわ)あるいは蕨縄(わらびなわ:蕨の根の筋でつくった縄)を本大和(ほんやまと)あるいは片大和(かたやまと)に纏わせる(巻きつける)。
   註 本大和、片大和:竹などに、縄や蔓を纏わせる:巻きつける:ことの呼称。本大和は両方から、片大和は片方一方だけの巻き方。
      なぜ「大和」と呼ぶのか、謂れが分りません。      
      「小舞を掻く」とのように、通常、小舞に縄を巻きつけることを「掻く」と呼んでいる。
平壁の土付の厚さ:土塗壁の厚さ:は小舞外面より4寸以上5〜6寸程度とする。

屋根は、6寸勾配ほどで、普通は瓦葺とするが、地域によっては、土居塗をした後、その上に猫石を据え、別途合掌を組み、杮葺(こけらぶき)または茅葺の屋根を設ける場合がある。
これを鞘(さや、あるいは鞘組:さやぐみ)と呼び、土居塗を保護するための手法である。
   註 鞘組の屋根を瓦葺にする例の方が多いかもしれない。
      猫石:一般には、土台を地面などから隔てるために据える石を称する。なぜ「ねこ」と呼ぶのか、謂れは知りません。もしかして「根子」かな?
      猫石を据えず、直接合掌を土居塗上に流している例を見た記憶があります。
      また、土居塗と鞘の屋根との間の空隙は、インシュレーションとしても効果的のようです。  

土蔵入口下部に設ける煙返石(けむがえしいし)は、高さ7寸〜7寸5分程度、上端:上面の幅は木柄戸(きがらど:土蔵の扉のこと)の厚さにもよるが、8寸内外とする。
   註 煙返石:扉の下部からの煙・熱風:火炎の侵入を防ぐために設ける。
      第二十七図・甲のように、石と扉、扉と枠及び扉相互の召合せ部は、空気・煙が流れにくいように段状に仕上げる。これを掛子塗(かけごぬり)と呼ぶ。
      木柄戸:土蔵の扉は、木造骨組の上に漆喰を塗り込める。この骨組を木柄(きがら)と呼ぶ。

以下は第二十六図参照。
腰巻の高さは腰無目の上端までとし、腰巻下端の出は、鉢巻の棚角を垂直に下した位置を腰巻受石の外面とする。受石の高さは4寸以上7〜8寸ぐらいとする。
鉢巻の高さは、その建物により、恰好よく定めるが、下端の出は2寸ぐらい、その勾配は2〜2寸5分の返し勾配とする。
   註 原本第二十六図の矩計図では、垂木を軒桁で止めているが、旧・西川家の土蔵のように、垂木は軒桁よりも可能な限り外側に出すのが普通。
      鉢巻は、その垂木の出を土塗で覆うための方策。それにより、土塗部の荷重を、垂木も担うことになる(西川家の土蔵の図参照)。
      第二十六図の仕様では、鉢巻部を、それより下の土壁が支えることになり、亀裂・崩落を生じやすくなる。
      なお、煉瓦造では、その部分を、その部分を蛇腹で納めている(「形の謂れ−1・・・・軒蛇腹」参照)。
折釘(おりくぎorおれくぎ)の位置は、上段の釘は、鉢巻の下端から6〜7寸下げ、下段は腰巻上端から1尺2寸ぐらい上げ、中段は雨押えより7〜8寸離して打つ。
   註 折釘:維持・管理のための事前の用意。折釘間に足場丸太を架ける。それゆえ、間隔等は、それに応じる。
      したがって、設置高さに一定値があるわけではなく、建物の規模などに応じて勘案するものと考えられる。
      火災時には、架けた丸太に塩かます(莚:むしろ:を二つ折りして塩を入れた袋)を掛けたという(水を吸い、燃えにくいため)。
         普通の筵よりも目が積んでいる。架けるときは、広げて一枚にする。かつては、霜解け、雪解けの道に敷いたりもした。
入口の高さは、煙返石の上端から刀刃(かたなば)の下端までを6尺〜6尺2寸ぐらいとし(第二十六図・矩計参照)、横幅は刀刃の内法で3尺6寸ぐらいにするのが普通である(第二十七図・甲、入口平面参照)。
   註 刀刃:土蔵その他「塗家」に於いて、入口または窓の脇に取付けたる三角形の縁木にして漆喰塗の止まりとなるもの(「日本建築辞彙・新訂版」より)。
      要は漆喰塗の見切縁。第二十七図・甲の左辺参照。
      このような形にするのは、縁と漆喰塗の接触面を増やして離れを少なくし、また、離れが生じても見えにくくする現場の知恵と考えられる。
入口を形づくる実柱(さねばしら、さねはしら)は、4寸5分角を用い、その外面を土塗壁の仕上り面と同じにし、左右の開きは、本柱の入口側面〜実柱内面を土壁の厚さ程の位置に設ける(第二十七図・甲参照)。実柱と本柱は、櫓貫(やぐらぬき)を前後から打ち込み、縫う。櫓貫は、幅4寸5分×厚1寸、5分ぐらいの勾配で楔状に加工する(第二十六図参照)。
兜桁(かぶとげた:高さ5寸×幅4寸5分)の高さは、楣下端〜桁下端を9寸〜1尺ぐらい、鼻の長さは、開いたとの幅と同じにする(第二十七図・丙参照)。
扉の肘壷(ひじつぼ)の位置は、下部は、木柄戸の下から1尺ぐらいをその下端とし、上部のそれは、木柄戸の上端から6寸ぐらい下がった位置に設ける。
木柄戸の下端は、煙返石下端より1寸5分上げ、上端は刀刃外すなわち楣下端までとする。また、木柄戸の前面の出は、壁の塗上がり面と同じ、内面は、煙返石との距離を8分〜1寸明きとする(第二十六、二十七図参照)。
木柄戸の釣り込みは、開閉を容易にするため、上方を3分ぐらい垂直より内側に釣り込む。

窓枠は4寸角でつくる。上枠の鼻の長さは、先の兜桁にならう。
窓の木柄戸の長さ(高さ)は、本屋の上下の刀刃の外法間の長さととし、木柄戸の上端を上の刀刃上端より3分ぐらい高い位置に取付ける。
窓の木柄戸の肘壷の位置は、下は戸の下端から6寸ぐらい上げ、上は戸の上端から4寸ぐらい下げの位置とする。

刀刃の大きさは、入口まわりは、2寸2分くらい、窓まわりは1寸8分ぐらいの(直角)三角形とする。

入口の木柄戸の縦框:2寸5分×2寸2分、上下横桟(框):3寸2分×2寸2分、中桟:2寸5分×1寸4分、筋違:2寸5分×1寸4分、簑貫(みのぬき):杉6分板赤身幅2寸ぐらいを用いる。
窓の木柄戸の縦框:2寸×1寸5分、上下横桟:2寸2分×1寸5分、中桟・筋違:2寸×1寸、簑貫:杉4分板赤身を用いる。
   註 簑貫:土蔵の扉に用いる貫を言う。    
           **********************************************************************************************************

以上で「土蔵」の項は終りです。
次回は、「二十三 冠木門(かぶきもん)」「二十四 腕木門(うできもん)」「二十五 塀重門(へいじゅうもん)」の項を予定しています。    

補足・「日本家屋構造・中巻」の紹介 : 木柄戸の「筋違」

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[文言追加 8日9.30][文言更改追加 8日9.50]

「土蔵」の紹介の項で、土蔵の扉:塗込め木柄戸の説明が足りなかったように思いましたので、補足します。

扉の図だけ下に再掲します。

解説文中に「・・・其の釣り込み方は戸の開閉を容易ならしむる為に上の方を三分位垂直より内方に釣り込むべし。・・・」とあります。何故でしょうか。
普通、蝶番:肘金物、ヒンジの取付け際しては、上下の蝶番の軸が垂直線上に揃うことに注意します。そうしないと軋む、開閉がスムーズにならないからです。
   日曜大工で、開き戸を釣り込むときに一番悩むことです。

ところが、土蔵の扉のように扉自体が重いとき、あるいは間口が広い開き戸のときは、通常の釣り込みでは、扉の重さゆえに、上方の蝶番に横向きの力が掛かり、そのために軋みが発生し、スムーズに動かなくなる事態が起きます。
しかし、解説文にあるように、上方の開閉軸を多少でも内側:取付け枠側に寄せると、軸にかかる横向きの力は、僅かではありますが小さくなり、その分、重い扉の開閉もスムーズになるはずです。この解説は、この方策を示している、と考えてよいでしょう。

また、図のように、この扉には筋違(すじかい)が入れてあります。
日本の木製の建具には図のような斜め材:筋違を入れること、しかも、それが外から見えるということは、まずありません。
土で塗込めて見えなくなるので筋違が入れてあるのです。そこには入れなければならない理由があるはずです。
土蔵の扉にはなぜ筋違が必要なのか?   

現在の木造軸組工法:通称《在来工法》を「見慣れた」目には、この筋違は、扉の自重:つまり土塗の重さで、框のつくる長方形が変形しないようにするための材だ、と見えるでしょう。
しかし、もしも、変形防止のそのための材であるのならば、筋違の「向き」を変えてもよい、斜めに材が入っていればよい、つまり、上図で左上から右下に向けて斜めに入れてもよいことになります。はたしてそれでよいでしょうか?

西欧の木製建具では、框に斜め材:筋違を入れることは、しかも外からも見せることも、珍しいことではありません。
その一例として、ドイツの例を下に載せます。
Garagentor ガレージの入口の戸です。Rahmentor mit Strebe と呼んでいるようです。ドイツ語が難しくて、日本語にできず恐縮ですが、Rahmen は枠、框の意、そして strebe とは、「支え」というような意のようです。框を支える斜め材:筋違を指しているのではないでしょうか。したがって、Rahmentor mit Strebe とは、「筋違の入った框戸」、ということでしょう。
このように、間口の広く自重が重くなる開き戸にstrebe:筋違が多用されているようです(他の事例も後掲)。

   ここに例示した Garagentor は、Ulrich Reitmayer 著“HoltztÜren Holztore”( Julius Hoffmann Verlag 1970年刊)からの抜粋転載です。
   書名・表題を日本語に直訳すれば、「木枠・木製扉」かな・・。[直訳文言追加 8日9.30]

この図でも、筋違の向きは、前掲の土蔵の木柄戸と同じです。
図の下の表側の立面図に、框と筋違、それに金物、ヒンジ:肘金・肘壷に相当:が点線で描かれていますが、その「姿」から、筋違がいかなる役割を担っているか、が読み取れると思います(前掲の「日本家屋構造」の木柄戸の図から読み取るのは難しい・・・)。
   註 「日本家屋構造」は、一般的な事例の紹介に徹している、つまり、「初心者」は、「先例」の「形」を学ぶことから始めよ、と考えているように思えます。
      「理・そのわけ・謂れ」については、初めに触れない。「花伝書」もそうです。たしかにこれも一つの「教育法」です。
      ただ、「花伝書」では、「形」の「習得」から入っても、「その形の理・謂れ」を「修得」できない者は、先に進むな、と言っていたように思います。
      しかし、「形の習得」をもって「修得」したと誤解する場合が多くなる・・・・。
      一方、このドイツの書は、図および説明を全て「理」に即して示すことに徹しています。ゆえに読者は、常に「形の謂れ」を考えなければならないのです。
      [文言更改追加 8日9.50]  
 
この立面図の向って右側の扉で考えてみます。
このような向きに筋違が入っていると、扉の重さは、かなりの分が筋違に沿って左上から右下に向う力に変ります。つまり、下側のヒンジ:肘金物に重さが集中して掛かることになります。その部分の框の補強金物・プレートの形は、この力の流れを予測したものと考えられます。
一方、扉左上部の縦框・上横框の仕口部は、この右下に向う力によって引っ張られることになります。その結果、この右下方に引っ張る力が、上部横框を伝わる右横向きの力に変ります。右横向きの力、それは上部のヒンジ:肘金物を押す方向の力です。つまり、この向きに筋違を入れることによって、通常、扉の重さで生じる上部ヒンジを引き抜こうとする力が、その分低減することになるのです。
ということは、もしも、筋違の向きが逆だとすると、上部ヒンジを引き抜く力は、逆に大きくなってしまうことになるはずです。

すなわち、扉を安定的に保持・開閉するという目的を達するには、筋違の向きはこの向きでなければならない、筋違が入れてありさえすればよいということではない、ということ、筋違の向きが肝心だということ、を示しているのです。
   このあたりの理屈は、木造軸組工法で、筋違の入れ方・向きを間違えると架構の破壊に至ることがあるのとまったく同じではないでしょうか。
   《在来工法》の《筋違理論・耐力壁理論》の「盲目的援用の危うさ・難しさ」を示唆していると言えるかも・・・。
   なお、このような「知恵」は、洋の東西を問わず、いずれも、
   「力学的理解:机上の理解から生まれたのではなく、現場での幾多の経験の積み重ねで培われた「知恵」であることを知るべきでしょう。
   現場では、「理」が「体感として」理解されるからです。実は、これが「学」の根源のはずなのです。[文言更改追加 8日9.50]

また、Rahmentor mit Strebe には、下図のようないろいろなタイプがあるようです。同書からScheunentor 納屋・穀物倉の入口戸 を転載します。
各図とも、左側が表側、右が内側の立面図だと思われます。
筋違の向きに留意してご覧ください。

 
なお、先ほどのドイツの事例:Garagentorの詳細は下図になります。

木ネジ1本の取付ける位置についてまで、員数だけ打ってあればいい、というのではない「理に応じた細心の注意」が払われているようです。「理」が「体感として」理解されているからです。
これとは逆に、机上の《理解》から生まれたのが、ホールダウン金物などの日本の補強金物ではないか、と私は考えています。[文言更改追加 8日9.50]

この本には姉妹篇に“Holzfenster”があります。機会があったら、紹介したいと思っています(外開きの鎧戸+外開きのガラス戸からなる窓で、中から鎧戸だけ開け閉めすることのできる窓!、などというのがあったように記憶してます)。

近時雑感 : 「ユマニチュード」の語に思う

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8日の雪は25?ほど積もり、吹き溜まりでは長靴が埋まるほどでした。
柿の木にも写真のように北西側に積もっています。9日朝7時過ぎです。
9日は午後から集落の方が総出で重機を使い道路の雪搔き。
掻ききれない雪を除くには手作業。微力ながらお手伝いをさせていただきました。
午前中から家のまわりもやっていたので、さすがに左脚がこたえました。
今日11日も雪がちらついてます。

先日、「ユマニチュード」という言葉を初めて耳にしました。
NHK「クローズアップ現代」で、「いわゆる認知症」の「新療法」として、日本の医療・看護・介護の世界で「ユマニチュード」が最近話題になっている、と報じていたのです。
それによりますと、「ユマニチュード」というのは、35年ほど前にフランスで始まり、ベルギー、ドイツなど西欧でも最近採りいれられるようになった「療法」とのこと。フランス語の「造語」では?
その「基本」として、?「見つめること」、?「話し掛けること」、?「触れること」、?「立つこと」の四つが挙げられていました。「見つめる」というのは、相手の目を見ながらという意味のようです。「話し掛ける」ときは、上から見る、見下ろす位置ではなく、相手と同じ高さに居ることが要点のようでした。「触れる」というのは、いわゆるスキンシップ、「立つこと」とは、「歩ける(ようになる)こと」の意のようです。
要は、「いわゆる認知症」の方は、この基本に立って接する(看護・介護する)とき、医療者・看護者・介護者に対して心を開き、結果として、容体は格段に向上する、ということのようでした(これは、あくまでも、私の「理解」です)。

今、「専門」「専門家」の世界では、「医療を行なう人―医療を受ける人」、「看護する人―看護を受ける人」、「介護する人―介護を受ける人」、・・・、つまり「「専門のサービス行為を行う人―そのサービスを受ける人」という「関係」の存在が、「あたりまえ」になっているはずです。そしてそのとき、この「関係」の様態は、常に、専門のサービス行為を行う人>そのサービスを受ける人」となっているのが現代の常態ではないか、と思います。
更に、こういう「現在の様態」を、「いわゆる健常者」の世界では、人は別段気にも留めないでしょう。というより、気に留めなくなってしまっている。そういう風に馴らされてしまっている。そういうものだと、いわば「諦めている」。。
ところが、「いわゆる認知症」の方は、自分にとって理不尽(に思えるような)ことには、唯々諾々として従わない、従わなくなる。
多くの医師・看護師・介護士の方がたが、医療・看護・介護を頑強に拒否された経験があるようでした。ベッドに拘束する、などというのは「出歩かないように」と言っても「言うことは聞かない」から、嫌悪感・罪悪感を感じつつも「介護のためにやむを得ずなのだ、と自らに言い聞かせながら」拘束するのだそうです。
ところが、「ユマニチュード」の方法に留意して「いわゆる認知症」の方がたの看護・介護にあたると、容体は目に見えて格段に向上する。たとえば、歩けなかった方が自ら進んで歩くようになったり、無表情だった顔の表情が豊かになる、話し掛けに一切応じなかった方が懸命に話をしようとする・・・などの感動的な姿が映像で伝えられていました。
おそらく、「いわゆる認知症」の方は、「いわゆる健常者」が「馴らされてしまっていたこと」から、解放されているのだ、人本来の姿に戻っているのだ、と私には思えました。「ユマニチュード」で接するとき、人本来の姿で接してくれていることが分り、心を開くのだ、と思われます。
別の言い方をすると、「医療を行なう人−医療を受ける人」、「看護する人−看護を受ける人」、「介護する人−介護を受ける人」の関係が、現在は普通「三人称の世界」になっているのに対し、「ユマニチュード」では「一人称〜二人称の世界」になる、と言えるかもしれません。「私と彼・彼女」ではなく、「私たち」あるいは「私とあなた」の関係になるのです。
「三人称の世界」とは、言い換えれば、「人」を、この場合は「いわゆる認知症」の方を、「一つの対象として見なし扱う世界」と言えるでしょう。
そして、実は、このような見かたは、「近代」が進んで取り入れてきた「人の世、世界の事象全般に対する見かた・思考法」だった、と言えるのではないでしょうか。それはまた、「いわゆる近代科学」の拠って立つ「地盤」でもあった・・・。

私は、この番組を見ていて、「ユマニチュード」の考え方・人への接し方は、なにもいわゆる「認知症」の方への接し方ではない、人と人との関係、更には人と事象・事物との関係、その基本的・根本的見かたにかかわる話であって、少し大げさに言えば、現代の大方が拠って立つ「近代的思考法」にいわば挑戦しようという考え方なのではないか・・・、と思いました。
そして更に、近代以前の日本人の事物・世界への対し方は、考えてみれば、たくまずして「ユマニチュード」の考え方そのものだったのではないか、しかるに、日本は、近代化の名の下で、人びとにとってごく自然であたりまえであったこの考え方を捨てることこそ近代化である、と見なして捨ててきた。今も変わらないどころか、一層ひどくなっている・・・。
ところが、彼方の近代思考法・思想の源泉の地では、周辺諸国も含め、その radical な「再考」が始まっている・・・。

番組を見て、私は、明るい気持ちと暗い気持ちの両方を抱き、複雑な気分でした。

「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−14 :門の部(その1) 「二十三 冠木門」

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[文言追加 14.55][リンク先追加 20日 10.15]
製図編の最後の項目は「門」。近世の武家屋敷などで設けられることが多かった「冠木門(かぶきもん)」「腕木門(うでぎもん)」「塀重門(へいじゅうもん)」の木割の概要と、製作に要する手間(人工)の概略が紹介されています。
今回は、分量の点で、その内の「冠木門」の項を紹介します。
特に分りにくい部分はありませんので、現代文読み下しはせず、原文及び図jを編集・転載(不揃いや歪みがありますがご容赦ください)、用語についての註記と私なりの所見を付すだけとします。
なお、原文では、各所の寸面について詳細な木割が述べられていますが、実例を見ると、必ずしもこの木割・比率に拠っているわけではありません。つまり、実際の仕事は、その場に応じて、設計・施工者の感覚に委ねられている、と考えられます。従って、原文にある木割等は、あくまでも一つの参考値である、と理解するのがよいのではないでしょうか。

はじめは、冠木門の項の原文と解説図。


   註 冠木門(かぶき もん):二本の柱上に冠木を有する門をいう。(「日本建築辞彙」新訂版 )
      冠木:門の扉うえにありて柱を連ぬる丈(せい)高き横木。柱を貫きて鼻栓にて飼固む(かいかたむ)。(「日本建築辞彙」新訂版 )
         解説図(第二十九図)の柱上に横木を架ければ、外見は鳥居様になる。
         鳥居では、上から二段目の横材、この図の冠木の位置の材、は貫:飛貫(ひぬき)として、柱に楔締めで取付けている。
         なお、鳥居の形状と部材名称については「鳥居の部材の呼称」をご覧ください。
         一方冠木は、材の全高を枘に刻み柱に差し、鼻栓で固定する。
         その結果、2本の柱と冠木は、礎石上に、強固な門形の枠を形成することになる(枠: rahmen )。
      解説文にあるように、柱の断面は、見付寸法>見込寸法とするのが普通。原文にある「比率」は参考値で、任意と考えてよいでしょう。
      見付寸法>見込寸法とするのは、柱と冠木が構成する枠:門形:をより強固に維持するための工夫と考えられます。
      しかし、門形の直交方向に力を掛ければ、つまり、押したり引いたりすれば、門形は容易に転倒するでしょう。それを避けるために設けるのが扣柱です。
      扣柱(ひかえばしら)=控柱 
         察するに、控の字の誤記に始まった表記ではないか。「日本建築辞彙」では、「控柱・・・俗に扣柱とも書く」とある。
      すなわち、図のように控柱を門内側に本柱の前に並べて立て、本柱〜控柱を上下2本の貫(上:控貫、下:足元貫)で縫います。
      図では、控貫に勾配を付けてありますが、水平でも可です。
         控柱を本柱の内外に2本設ける場合もあります(「鳥居の部材の呼称」中の写真参照)。より堅固になります。
         柱の転倒を防ぐもっとも簡単な方法は、斜め材で支える方法です。なぜこの方法が採られないのでしょうか。
         これについて、「鳥居に見る日本の建築技術の基本」及び「在来工法はなぜ生まれたか−5の補足」で触れてあります。[リンク先追加 20日 10.15]
      なお、本柱は、ほんばしら、おもばしらの二様の読みがあるようです。原文は前者、「日本建築辞彙」では後者。
         原本第二十九図立面図の右側の柱の表記「木柱」は本柱の、同じく「地腹」は地覆(ぢふく)の誤記でしょう。
      正面の扉を閉鎖時の通行に使うのが脇に設ける脇門(わきもん)の潜戸(くぐりど)です。
      脇門は、袖柱を立て、本柱〜袖柱を笠木と楣(まぐさ)で繋ぎ、笠木と楣の間の空隙には綿板(わたいた)を嵌め込みます。   
      楣:開口部の上部に設ける横材の一般的な呼称。鴨居も楣の一。
      綿板:物の間に差入れたる板をいう。恰も綿入れの綿の如くなる故、しか称す。(「日本建築辞彙」新訂版 )
         袖門は、本柱のつくりなす門形の枠の形状を維持する役も担っています。
      兜巾(ときん):頭巾とも書きます。柱の上端を四角錐状につくりだした部分の呼称。
      兜巾金物(ときん かなもの):兜巾部分をくるむ金物。金物の下端には円状断面の見切り部(覆輪:ふくりんと呼ぶ)を設ける。
      根巻金物(ねまき かなもの):柱下部の腐朽防止のための保護金物。兜巾金物と同じく、上端に覆輪を設けるのが普通。
      八双金物(はっそう かなもの):第二十九図・正面図の扉のように、柱側の縦框から嵌め板部にわたり取付ける金物。
      一般には先端が二股に分れるが、分れない場合も八双と呼ばれます。「日本建築辞彙」には、その役割についての記述はありません。
         単なる装飾ではなく、扉の変形防止のために、肘壷の取付く縦框と嵌め板:鏡板との接続を補強する工夫として生まれた金物ではないでしょうか。
         そう考えれば、二股にする意味も分かります。先端を二股に分けることで、釘打ち箇所:面が広がるのです。
      饅頭(まんじゅう):饅頭様の形をした金物、座金。
         釘隠しと同じく、大釘の頭あるいは先端などを隠すための装飾金物。
         第二十九図の扉中央の2個の饅頭は閂金物の先端隠し。
         本柱の上下の饅頭は、それぞれ大扉の肘金物の先端隠し。[文言追加 14.55]
      閂(かんぬき):扉を閉鎖するための横棒。閂金物は、閂を通すための金具。
         閂は、最近は見かけませんが、きわめて簡単な原理で、しかも強固な閉鎖方式です。

           **********************************************************************************************************

以上で「冠木門」の項終り。次回は、「腕木門(うでぎもん)」「塀重門(へいじゅうもん)」の項を紹介します。

昔の写真から : 諏訪の板倉

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昔撮った写真の中に、板倉の写真を見つけました。
いくつか紹介いたします。ネガが見つからず紙焼きからのスキャンなので、今一冴えませんがご容赦。
30年ほど前、諏訪から佐久への蓼科越えの街道の茅野寄りで見かけた、と記憶しています。もう現存していないのではないでしょうか。

   

土蔵のように見えますが、板倉に土塗を施していて、大きく剥落しています。
剥落部を撮ったのが次の写真。


次は別の建物です。
はっきり覚えていませんが、一階部分は床下になっているのかもしれません。

その土塗壁の剥落部分の近影。


板壁への土塗の方法を知る手掛かりとなるのが次の事例です。上が妻側、下が妻〜平側の隅の部分。



板壁に竹釘を打付け、下げ緒(下げ苧:さげお)を結いつけ土塗をしていた、と考えられます。
写真では分りづらいですが、竹釘が多少残存していたと思います。
下げ緒(下げ苧):麻の繊維は、トンボと呼ぶこともあり、木摺下地の塗壁の補強のために常用される手法です。
鉢巻になる部分には、縄がからげてあります。
多分、木摺下地とは違い、下地の厚板の収縮の度合いが大きいため剥落が起きやすいのではないか、と思います。
   木摺下地漆喰塗の仕様例を「煉瓦の活用と木摺下地の漆喰大壁」で紹介してあります。

以上の事例は板壁を柱間に落し込んでいるものと考えられます。
板は、全厚を柱に嵌めるのではなく、柱に小穴を突いて厚さの1/3〜1/2ほど嵌めているのではないでしょうか。板〜板の間にはとりたてて細工はしていないようです。
また、次の写真のように、隅部に柱を設けず、板を井籠(せいろう)に組んで納めた例もあります。板厚は、見たところ、2寸程度です(落し込みの場合もその程度でしょう)。


屋根は、いずれも鞘組が設けてあります。
建物内に入って確認はしていませんが、本体の合掌部に板天井が設けられているものと思われます。
   鞘組については、「日本家屋構造・中巻・製図編の紹介−13 『土蔵』 」で触れています。
屋根勾配が緩く、軒の出が深いのは、諏訪地域の建物に共通しています。

板倉+土塗仕様は、諏訪地域に多いように見受けられます。
板倉にした上に土塗を施すのは何故なのか、分りません。
「土蔵風に見せるため」、などという「現代的な《理由》」ではなく、正当な謂れがあるはずです。
積層の板の間に生じがちな空隙防止のためか、とも思いますが、どなたか、ご存知の方、ご教示いただければ幸いです。

  この写真を撮った頃、同じ諏訪の原村の近在で、主屋の切妻屋根の形にあわせ整形した防風・屋敷林を撮った覚えがあるのですが、見つかりません。
  いずれ見つかったら紹介いたします。
  

「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−15 :門の部(その2) 「二十四 腕木門」「二十五 塀重門」

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今回は「二十四 腕木門(うでぎ もん)」「二十五 塀重門(へいじゅう もん)」の項。
今回も、現代文読み下しはせず、原文及び図jを編集・転載(不揃いや歪みがありますがご容赦ください)、用語についての註記と私なりの所見を付すだけとします。

はじめは「二十四 腕木門」の原文と図。

   註 腕木門とは、上図:第参拾図のような屋根付きの門。屋根を支えるための腕木があることからの呼称と考えられます。
      構造的には、冠木門に屋根を設けたと見なすことができるでしょう。
      腕木(うでぎ):霧除庇(きりよけ ひさし)などをつくるとき、柱から突出し、庇屋根を承ける桁・出桁を支える横木。
      上図では肘木も設けてありますが、霧除庇などでは設けない場合が多い(下記)。
      上図は腕木、肘木とも柱に大入れとし、腕木上部に楔を打ち固定していると思われます。
        あるいは、肘木は柱に貫通させ、柱に渡腮で掛け、ニ方からの腕木を楔で締めることで固める方法とも考えられます。
         腕木を一材とし、貫のように貫通させ楔で締めれば、この程度の出ならば、肘木を設けなくてもよいはずです。
      通常の霧除庇は、肘木を設けず、腕木を大入にし、腕木先端の出桁と、垂木(柱に設けた垂木掛に掛ける)で形づくる三角柱で形状を維持しています。
      これは、霧除庇部に簡単な立体トラスが構成されている、と考えればよいでしょう。
        ただし、群馬県の妙義山下での実施例では、春先の碓氷峠越えの強風で(現地では「吹っ越し」と呼んでいた)、ものの見事に吹き飛んでしまい、
        腕木の大入部に地獄枘を設ける方法でつくり直したことがあります。



次は「二十五 塀重門」の原文と図。
  
   註 塀重門
      『中門の一。表門と母屋との間にある門。左右に方柱があって笠木はなく、扉は二枚開き。
      寝殿造の中門廊が塀になったところからの名称という。壁中門。平地門(へいぢもん)。』(以上「広辞苑」より)。
      『現今塀重門と称する門は、・・左右に方柱ありて、冠木なく、扉は二枚開きにして、井桁と襷の化粧木あるものなり。
      この種の門には控柱なきを普通とすなり。されど稀には控柱付きのもあり。かべちゅうもんを見よ。』(「日本建築辞彙」より)
      壁中門
      『古語なり。今いう塀重門に同じ。「家屋雑考」に「正殿の東西にある長廊下の壁を切通しにしたるを壁中門(へきちゅうもん)といい、
      また廊なくして築地ばかりなるを屏中門(へいちゅうもん)といい、又之を壁中門ともいう、武家には屋根なきを用いらるる例なり云々」とあり。・・・
      右の如く昔は門の位置より起りたる名称なるが・・・。』(「日本建築辞彙」より)
        屏=塀 なお、塀は和製漢字
     「・・・正殿の東西にある長廊下の壁を切通しにしたるを壁中門といい、また廊なくして築地ばかりなるを屏中門といい・・・」の個所、意がよく分りません。
     寝殿造では、長廊下の中ほどに設けられる門が中門です。
     「日本建築史圖集」所載の寝殿造当該部の図(「年中行事絵巻」より)を下に転載します。
        
        右側の門が屋敷を囲む築地塀に設けられた東門(四足門)、その左手、斜めに走る建屋が中門廊、東門を入って正面の中門廊にあるのが東中門。
        図の左端に西の中門廊と西中門が見えます。
     ゆえに、この文は、中門廊に設ける場合を壁中門、前方を仕切るのが塀(築地塀も含む)の場合に設けるときは屏中門と呼ぶ、という意に解します。
     したがって、塀重門とは、屋敷内を奥:内:と手前:外:に、より明確に仕切るための塀に設ける門、と解してよいと思います。
       要は「内」を確保するための手段の一である、ということになります。
         ただ、表門を、このつくりにする例もあります。
       なお、塀重門は塀中門の転訛でしょう。         
       また、仕切りのつくりは、築地にかぎらず、板屏、生垣など多様に考えられます。茶室への露地に設ける門もこの一つと言えると思います。
     扉の意匠が何に拠るのか不明ですが、他の門扉に比べると、強固に閉鎖する、という印象は強くありません。
     襷型や井筒(=井桁)は、書院造や方丈建築の欄間などに見かける意匠です。そのあたりが造形の源かもしれません。

           **********************************************************************************************************
      
以上で、「日本家屋構造・中巻・製図篇」の本文は終りです。
原書には、このあと、付録として「石材彫刻及び石工手間」「漆喰調合及左官手間」「住家建築木材員数調兼仕様内訳書」「普通住家建築仕様書の一例」が載っています。
分量は多いですが、興味深いので、全体を紹介するべく編集を考えます。少し時間をいただきます。     
     

建築界の《常識》を考える−2・・・「耐震」の語は 人を惑わす

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春は名のみの風の寒さよ・・・当地の梅は、やっとこの程度まで開きました。
雪こそ消えましたが、啓蟄が過ぎたとは言え、寒さが厳しい毎日です。
暑さ、寒さも彼岸まで・・、というのは本当だな、と毎年思います。


[追録追加 8日16.55]
もう直ぐ、東日本大震災から三年になります。
ここしばらくの間、「防潮堤」「防波堤」、「耐震」「耐震補強」の語が飛び交うのではないかと思います。

少し前のTVで、「耐震補強」工事の費用が捻出できないので廃業に追い込まれるという老舗の旅館の話が伝えられていました。それは、
映像で見る限り、私には、簡単には壊れそうにないように思える昔ながらのつくりの木造建物でした。
そうかと思うと、耐震補強で、客室の窓に鉄骨の筋違:すじかい:ブレースが設置され、それまで一望に見渡せた海の目の前に障害となって立ちふさがり、客室としての意味がなくなってしまった、という海浜のホテルの例も報じられていました。
そしてまた、東京都では、一度に全面的に補強ができない場合、たとえば今年は一階だけ、次の機会に他の階を、というように分割して補強を行う「施策」を講じて「支援」している、という話もありました。
    いずれも「理の通らない」話です。
なぜこういう報道がとりたてて行われたか。
それは、平成7年(1995年)制定の「建築物の耐震改修の促進に関する法律」が施行されているにもかかわらず、不特定多数の人びとが使う公共的建物などの「耐震化」が遅々として進んでいないからです。今後は耐震補強を促すため、、未施工の場合は、建物名・建主・持主名を公表で、着手を強いるのだそうです。
    これも「理不尽な」話です。
    何故なら、いずれも竣工時点では「合法的」な建物であったからです。法律の「基準」が、「勝手に変った(変えられた)」からに過ぎません。

何度も書いてきましたが、「耐震」「耐震建築」「耐震補強」という語・概念の理解・認識は、一般の方がたと制定者・専門家とでは大きく違っている、のは明明白白の事実です。
たとえば、「耐震補強の目的」について、先の「建築物の耐震改修の促進に関する法律」の冒頭に、次のようにが書かれています。
  この法律は、地震による建築物の倒壊等の被害から国民の生命、身体及び財産を保護するため、
  建築物の耐震改修の促進のための措置を講ずることにより建築物の地震に対する安全性の向上を図り、
  もって公共の福祉の確保に資することを目的とする。
これを、一般の人びとは、どのように理解するでしょうか。
おそらく、耐震策を施してある合法的な建物(すなわち「確認」済の建物)は、大地震に遭っても、無事に地震をやり過ごし、使い続けることができる建物、そこで暮し続けることができる建物である、と理解するでしょう。
これは、「耐震」の語に対して人びとが抱く共通のイメージ、つまり「常識的認識・理解」に他ならないのです。
辞書にも「耐震:地震に耐えて損傷しないこと」とあります(「広辞苑」)。「耐震」の「耐」という字の語義は、「支えることができる、負担することができる・・」といった意味ですから、この理解は決して間違ってはいない、具体的に言えば、「この建物は震度7程度の地震に耐える基準で設計されている」という文言を、その建物に住んでいる人たちが、文言通りに、「この建物は、震度7程度の地震に耐えられ、それゆえ地震後も住み続けられる」と理解しても、何ら間違いはないのです。
   耐震を売り言葉にしている《住宅メーカー》の住宅も、多くは、そのように理解されているはずです。

ところが、先の法律の言う「耐震」とは、具体的には、次のことを指しているのです。
1)建物の供用期間中に数回起こる可能性のある中規模の地震に対して、大きな損傷は生じないこと。
または、
2)建物の供用期間中に一度起こるか起こらないかの大地震に対して、居住者の命にかかわるような損壊を生じないこと。
   もう少し具体的に言うと、次のようになります。   
   中規模地震(震度5程度)に於いては建物の水平変位量を仕上・設備に損害を与えない程度(階高の1/200以下)に押え、構造体を軽微な損傷に留める、
   また大規模地震(震度6程度)に於いては中規模地震の倍程度の変位は許容するが、建物の倒壊を防ぎ圧死者を出さない
   ことを目標とする。
すなわち、地震に拠って建物に生じた損傷が、人命にかかわらない程度の損傷であったならば、その建物は「耐震性のある建物」の範疇に入る、ということになるのです。
そしてこれが、行政の方がた、及び、この法律に拠りどころを与えている「有識者」「(耐震工学の)専門家」の方がたの「耐震」についての「認識・理解」であって、一般の人びとの「耐震」という語・概念に対する「認識・理解」とは天と地の如くかけ離れているのです。
   「有識者」「専門家」の用語法が、世の中のそれと異なることは、例の三階建木造建物の実物大振動実験の際の「倒壊」の語の「解釈」で露見しています。 
   原発事故関係についての「有識者」「専門家」のそれや、「宰相」の「福島原発はコントロール下にある」との「「認識・理解」も同じです。

すなわち、法令の言う、たとえば「この建物は震度7程度の地震に耐える基準で設計されている」という文言は、「この建物は、震度7程度の地震で、人命に損傷を与えるような破壊は生じない(だろう)」という意味に過ぎず、「地震に遭っても住み続けられる」ということは、何ら保証していない、ということなのです。「耐震(基準)」の「耐」の字を字義通りに、通常の用語法で理解すると、とんでもないことになるのです。

しかし、「耐震基準」をつくった人たちは、行政も含め、この意味するところを正確に伝える努力をせず、ただ念仏のごとく「耐震」を唱えているだけです。
それゆえ、このままでは、「一般の人びと」と「「行政」及び「有識者・専門家」の間の認識の差:齟齬は、大きくなるだけでしょう。

けれども、この「一般の人びと」と「「行政」及び「有識者・専門家」の間の認識の差:齟齬について深く考えることこそが、地震に拠る災禍を考えるにあたって最も重要な視点であるのではないか、と私は思います。
なぜなら、単に建物が壊れるか、どの程度壊れるか、ではなく、地震に遭ったとき、どのように生き抜けられるか、暮し続けられるか、について考えることこそ最重要の課題のはずだからです。
建物の損傷が、人命に損傷を与えない程度であるかどうかは、そのほんの「部分」の話なのであって、その損傷の中で、どのように生き延びられるか、暮らせるか、それこそが、そこに実際に生き、暮している人びとにとっては、最重要の課題なのです。
しかし、「耐震」基準を決めた方がたは、このことを、考えているでしょうか、考えてきたでしょうか。人命にかかわらない損傷でも、損傷は損傷です。「人命にかかわらない程度の損傷」と言うとき、その損傷した建物の中に居続けられるか、あるいは、そこから逃げ出せるか・・・、そこまで考えて言っているでしょうか。
考えてみれば、多くの法令に「・・・国民の生命、身体及び財産を保護するため、・・・公共の福祉の確保に資することを・・・」云々同様の文言が必ずありますが、その具体的な方策は語られていないのが実際ではないでしょうか。

それは何故か?
それは、どのように生き抜けられるかという問題は、この方がたの視界にはないからです。それは、別の専門家の領域・分野の問題だ・・・。

このことを考えさせるコラム記事が、2月27日付毎日新聞朝刊に載っていました。下記に転載します。


ここには「防潮堤」「防波堤」の例が挙げられています。
「防潮堤」「防波堤」は、通常は、護岸のための一般名詞でありますが、数多く津波被害を被った地域では、「防潮堤」「防波堤」とは、「耐・津波構築物」を意味します。その場合の「防潮堤・防波堤の設計」も、建物の「耐震設計」が「耐えるべき地震の大きさ」を設定する(仮定する)ことから始まるのと同じく、「前提」として、防ぐべき波の大きさを設定(仮定)します。そして、この「耐えるべき・防ぐべき大きさ」として、過去に経験した「最大値」を計上するのが常です。その値を超える事態・事象が生じるとき、それが「想定外」の事態・事象です。
法令の「耐震基準」が、何度も変ってきたというのは、すなわち、想定外の事態・事象が、少なくともその改変の回数だけ過去に起きた、ということに他なりません。
ということは、「想定外」の事態・事象の発生の「予想」は、字の通り、想定不能である、ということを意味します。
これを普通は、「自然界には『人智の及ばない』事態・事象が厳然として存在する」、と言います。
ところが、何度も書いてきましたが、工学の世界では、「人智の及ばない事象が存在する」、などということを嫌います。科学・技術は何でもできると思い込んでいるからです。
   本当にそう思うのならば、「想定外」は禁句のはずですが・・・。
しかし、この科学・技術への絶大な「信仰」に依拠した「工学的設計」は、
えてして、耐震設計をした建物は(過去最大と同規模の)地震に遭っても安全・安心である、防潮堤・防波堤を設ければ(過去最大と同規模の)津波に遭っても安全・安心である、という「信仰」を人びとの間に、広めてしまうのです。
そして、今回の地震にともなう津波では、人びとが防潮堤・防波堤があるから大丈夫だからと思い込み避難しなかった事例がかなり起きていたということを、先の記事は紹介しているのです。

私は、この記事は、「工学的対策≠安全・安心の策」という「警告」である、として読みました。
そして、「被災者に学ぼう」とする地震学の方法論の「転換」に共感も覚えました。
そして更に、単に当面の震災の被災者に学ぶだけでなく、過去に津波の被害を被った人びとにも学ぶべきなのではないか、と私は思います。
なぜなら、そのような事態に遭うことの多い地域に暮す人びとは、そういうところに暮す「知恵」を培ってきているはずだからです。
本来、人は、どのような地域に暮そうとも、自らが暮さなければならない地域・場所の「特性」を勘案しつつ暮すのが当たり前です。
「特性」とは、その地の「環境の様態・実態」と言ってもよい。
数日前に、ヘリコプターから見た津波の実相が報じられていました。
その中で、「浜堤(ひんてい)」という初めて聞く用語を耳にしました。
河川沿いに形成される「自然堤防」のごとく、海の波により永年のうちに自然に形成される「堆積地」のことのようです。そして、海岸の集落はこの「浜堤(地)」に営まれることが多い、というのも「自然堤防」と同様のようでした。
水に浸かったり波に襲われることの多い土地に暮さなければならない場合、当然のこととして、少しでもその状況を避けられる場所を人は探します。比高の高い所です。
そういう場所として、「自然に形成された場所」を選ぶのです。
それは、単に探すのが容易だからではありません。「自然に形成された場所」は、形状を維持し続ける可能性が高いことを知っていたからです。
と言うより、「形状を維持し続けることができるような場所」だからこそ、そういう地形が形成される、ということを知っていたからだ、と言った方が的確かもしれません。それが、その地に暮す人びとのなかに培われ定着した「知恵」であり、その地に暮す人びとの認識した「その地の特性」に他なりません。
「被災者に学ぶ」とは、その地に暮さなければならない人びとの「知恵」を知ること、そのように私は思います。
   海岸の「浜堤」上の集落立地は、「浜堤」についての「学」の成立以前から存在しているのです。
   縄文・弥生集落の立地も同様です。
   私の暮す地域には、縄文・弥生集落址が多数在ります。いずれもきわめて地盤堅固なところです。
   と言うよりも、私の暮す通称「出島」と呼ばれる霞ヶ浦に突出す半島様の地形自体、地盤・地質ともに堅固であるが故に、その形状を為しているのです。
   現在の地形図で確認すると、この半島は、福島〜茨城にかけての八溝(やみぞ)山地から筑波山に至る山系の端部にあたることが分ります。
   山並みという形を維持できるのは、その一帯が周辺に比べ堅固であるからのはずです。
   古代の「常陸国」の「領域」を見てみると、先の山系の東から南側の、太平洋に面した一帯であることが分ります。
   一帯は肥沃で、気候は比較的穏やか。人びとは暮すにはきわめてよい、と判断し、その一帯の比高の高い地に定着したようです。
   古墳の多さとその建設地の位置がそれを示しています。

   群馬県東南部(板倉町など)の利根川沿いに、かつて、屋敷内に「水塚(みづか)」を設けるのが当たり前であった地域があります。
   「水塚(みづか)」とは、屋敷内の一角に土盛りをして、母屋とは別に、そこに二階建ての建物を建て、一階を備蓄倉庫、二階を非常時の住まいとし、
   加えて、軒には小舟を吊り下げている場合もあります。利根川の氾濫時への対策で、小舟は、建物が危険になったときの避難のための用意です。
   留意しなければならないのは、単に盛り土をしているのではない、つまり、単に洪水の予想水位より高ければいい、という判断ではない、という点です。
   氾濫時の利根川の水流をまともに受けない場所を選定しているのです。それは、現地を見ると納得がゆく。
   いま、「予想水位より高ければいい、という判断」と書きました。
   この「予想水位より高ければいい、という判断」こそが、現在の「工学設計」の拠って立つ「基点・前提」です。耐震設計も防潮堤設計も、皆同じです。
   小舟を吊り下げることまで、考えが及ぶわけもない・・・・。

では、建物の設計では、被災者・被災地からに何を学ぶか。
構築物の頑丈さを得る方策、それはその一つではあっても、それで全てではないはずです。
転載した記事の最後に、「歩いて行ける高台に頑丈な小学校を建て、避難所の機能を持たせ、数十年ごとにより頑丈に建て替える・・」という記述があります。
私は、先ず、建設地の選定に心することが第一ではないか、と思います。
同じ高台でも、自然形成の高台と人工の高台では性質が異なります。
自然形成でも、たとえば土石流のつくった高台は、人工とほとんど同じはずです。つまり、自然形成の場合でも、その土地の「経歴」「履歴」を「理解する」「知る」ことが重要なのではないでしょうか。
いわゆる科学・技術を信じると、とかく、人は何処にでも暮せる、建物は何処にでも建てられる、と考えがちです。その考え方を「学」が率先して正す必要があるように、私は思います。

「人びとの長きにわたる営為に学ぶ」姿勢があったならば、どんな土地でも建てられるのだ、という考えを、人は抱かないはずです。そうであれば、たとえば、低湿地に住宅地を造成し「液状化」に遭遇して慌てふためくなどという事態も起きないのです。
これは、一言で言えば、それぞれの土地の歴史を知ることに他なりません。
先の「浜堤」地に集落が営まれているように、「長い歴史のある集落の立地、そしてそこでの住まいかたは、その地域に暮す人びとの、『その地域の環境特性』についての『理解に基づく判断』の結果を示しているのだ」と、今に生きる私たちは理解すべきなのです。
『その地域の環境特性』とは、「日本という地域全体としての特性」及び「その地域に特有・固有の特性」の両者を含みます。四季があり、四季特有の気候の諸相(たとえば台風や梅雨など)がある、頻繁に地震や火山活動がある、などは前者であり、たとえば台風時の特有な風向き・・、などは後者にあたります。
このようないわゆる「自然現象」に対して、人智で抵抗できると考えるようになるのは(津波には防潮堤を考え、地震には耐震構造を考えるようになるのは)、近現代になってからのこと、それ以前は、人智では対抗できないと考え、そのような自然現象のなかで、如何に生き抜くか、暮し続けるか、に人智をそそいだのです。

「構造力学」は、誕生した当初は、「人びとの為す判断」の「確認」のために機能していたのです。
では、「人びとの判断」は如何にして為されたのか。
それは、人びと自らの「事象の観察」を通して得た「事象についての『認識』」に拠って為されたのです。
その「認識」を支えたのは、「人びとの『直観』」です。
そのために、人びとは「感性」を養いました。「観察⇒認識⇒知恵」、この過程を大事にした、大事に養ったのです。

つまり、「学」が「判断」を生んだのではありません。これは、厳然たる事実です。

本来、諸「学」は、人とのかかわりの下に出発したはずです。
ゆえに先に転載した記事にある「被災者に学ぶ地震学」への「転換」は、
「学問のための学問」から「人にとっての学門」への転換、「原点への回帰」を意味しているように私には思えました。
建築学もまた、建築学こそ、建築:建物をつくること、その本来の意味を問い直すことを、今からでも決して遅くはない、始めるべきであるように私は思います。
先人の知恵の集積は、例えば、遺跡・遺構や数百年にわたり永らえ得た建物、や集落・町・街・・などは、私たちの目の前に多数遺されているのです。
それはいずれも、人びとの営為、すなわち人びとの「認識」「判断」の結果に他なりません。
そこから、私たちは、たとえば地震に対しては、「耐震」ではなく、人びとの「対震」の考え方、その「蓄積」を学べるはずです。
そしてそこから得られる「知」は、如何なる「実験」で得られる「知」よりも、比較にならないほど豊饒である、と私は考えています。

「有識者」「専門家」の言辞に惑わされないために、自らの「感覚」「感性」に、更に磨きをかけたい、と思います。


[追録 8日16.55]
同様なことを、下記でも書いています。なお、それぞれにも関連記事を付してあります。
想像を絶する「想定外」
此処より下に家を建てるな・・・
建物をつくるとはどういうことか−16
建物をつくるとはどういうことか−16・再び
保立道久著「歴史の中の大地動乱」を読んで
わざわざ危ない所に暮し、安全を願う

ただいま工事中のお知らせ

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昨日今日は、だいぶ暖かでした。近在の山林の紅梅も見ごろのようです。
暖かいと体が楽です。手足の加減のせいもありますが、歳とったなぁ、とつくづく思います。

さて、「日本家屋構造・中巻・製図篇」の紹介、花粉症とたたかいながら(まわりを杉林に囲まれているからですが・・・!)、ただいま次回分を編集作業中です。
もう少々時間がかかりそうです。

「日本家屋構造・中巻:製図編」の紹介−16 : 附録(その1)

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今回は、原文を転載し、全文を現代語風に書下ろし、随時註を付すことにします。

           **********************************************************************************************************

なお、原文転載部分に、行間の不揃いや歪みがあります。
原書は、現在ではきわめて稀な活版印刷です。そのためと思われますが、版面が各ページごとに若干異なっています。
  たとえば、各行がページ上の波線に直交しているか、というと必ずしもそうとは限りません。しかも、波線自体、水平でもない・・・など。  
編集は、当方にある「国会図書館蔵の原書の複写コピー」を基にしています。
編集作業は、一旦「原本の複写コピー」の各ページを更に複写コピーし、
読みやすいように、各項目ごとにまとまるように、ページ上の波線を基準線と見なしてA4用紙に切貼りし、
汚れている個所を消してスキャンする、という手順を踏んでいます。
まさに、字の通りのコピペ:コピー アンド ペースト!です。
こういった一連の操作の積み重ねが複合して、歪みや不揃いが生じてしまうようです。ご容赦ください。
もちろん、原文に改変などは一切加えてありません。念のため・・・。

           **********************************************************************************************************
   
今回からは、「日本家屋構造 中巻 製図編」巻末の附録の部分の紹介。
附録には、「二十六 石材彫刻及び石工手間」「二十七 漆喰調合及左官手間」「二十八 住家建築木材員数調兼仕様内訳書」「二十九 普通住家建築仕様書の一例」が載っています。

特に石工事と左官工事について触れているのは、両工事の内容が、現在同様、一般に十分に理解されていなかったからでしょう。

附録には、「仕様書」のつくりかたについて、具体的に述べられています。
今回は、そこから、「まえがき・はしがき」にあたる部分と、「二十六 石材彫刻及び石工手間」の部分を紹介します。


はじめに「はしがき」の部分。

以下に、現代風に読み下します。

  附録
  まえがき
  小さな建物の場合は、建築者(建て主)は、直ちに工事営業者(工事業者)との話合いにより、希望するように注文し建てることができるが、
  やや大きな建物の場合は、建築者は、一般当業者(設計を業とする者)に、自分の希望を伝え、平面図・姿図などを描いてもらい、
  自分の意図に合致したならば、工費を精算し、それに応じた「仕様書」を基に工事営業者(工事業者)と契約を結ぶものとする。
  「仕様書」は、工事営業者(工事業者)に、使用する用材の大小や構造を伝えるための一種の注文書であり、それゆえ、
  その文意は平易で、余計な修飾などなく一見明瞭であることが必要である。
  「仕様書」の書き方には、建前の順序により示すもの、各職ごとに分けて示すもの、など各種の書き方があるが、それぞれに一得一失がある。
  内訳及び木材の員数の調査(「内訳調書」の作成)は工費の算定・精算に必要不可欠である。
  「材料等内訳調書」は、「仕様書」の項目順に作成するのが便利である。
  「内訳・仕様書」作成上の参考として、以下に、「石材彫刻・石工手間」「漆喰調合・左官手間」の概略を記す。
    註 文中の用語については、現今使われる意味としてではなく、字義の通りに解する必要があります。
       工事営業者:「工事・施工を業として営む者」、つまり「工事業者」の意と解します。
                  ここでの「営業」を、現今の「営業マン」などの「営業」の意で解すると意味不明になります。
       一般當業者:「設計図作成に当ることを業とする者」の意と解します。
                 この当時、「設計業」という職業呼称が一般的になっていなかったゆえの表現ではないかと思います。
                 日本で最初に「設計事務所」を構えたのは、滝大吉氏(「建築学講義録」の著者)だそうです。何時のことか詳しくは知りません。
       談合:字の本来の意です。現今の「入札談合」のそれではありません!
       建築:build の意です。「建築する」:建物を建てる。「建築者」:建物を建てたいと考えている者。建て主。
  

次は「二十六 石材彫刻及び石工手間」の原文

以下に、現代風に読み下します。
  二十六 石材彫刻及び石工手間
     註 この「彫刻」の語も、現今の造形芸術の「彫刻」の意ではなく、字の通り、石を「彫り、刻む」意と解するのが妥当でしょう。
  石材の種類
   石材は、性質により、次の4種に大別できる。
   1.花崗岩(みかげいし)及び他の火山岩
   2.石盤石(せきばんせき)の類
   3.砂石(しゃせき)
   4.石灰石
     註 花崗岩:火成岩の一。
           火成岩は、マグマの凝固した石英、長石、雲母、輝石、角閃石などからなる岩石の総称。以下に大別される。 
            ア)火山岩:マグマが地表に流出して冷却凝固して生成。安山岩、玄武岩、流紋岩など。
               安山岩:小松石(神奈川)など。
            イ)半深成岩:マグマが、火山岩と深成岩の中間の速度で冷却して生成。ゆえに両者の中間の性質を持つ。
            ウ)深成岩:マグマが地下深くで冷却凝固して生成。花崗岩、閃緑岩、斑糲岩など。
               「みかげいし」は、兵庫県・御影(みかげ)産の花崗岩の通称が普通名詞化した呼称。
               他にも産地名による呼称が多い:稲田(茨城)、万成(岡山)、
        石盤石:石板(石)とも表記。水成岩の一。「粘板岩」の総称。スレートはその代表。
            
        砂石:現在の「砂岩(さがん)」のことと解す。水成岩の一。
            水成岩は、ア) 砂岩:銚子石(千葉)など、イ) 凝灰岩:大谷石(栃木)、房州石(千葉)など、ウ) 粘板岩:雄勝石(宮城)などに大別される。 
            大谷石は、軟質のため、F・Lライトが帝国ホテルで多用するまでは、建築用材として使われていなかった。
        
                   

  石材の仕上げの種類概要
   玄能拂い(払い)(げんのうはらい)
    玄能で石面の大きな突起(凸起)を払い取り、その面を大略平らに加工する作業及びそれによる仕上り面のこと。
   瘤取り(こぶとり)
    玄能払いの後、鑿(のみ)によって小突起(「瘤(こぶ)」と呼ぶ)を落とす作業及びそれによる仕上り面のこと。
   鑿切り(のみきり、のみぎり)
    鑿によって石面の凹凸を欠き取る作業及びそれによる仕上り面のこと。
    欠き取りの程度により、荒鑿切り(あらのみきり)、中鑿切り(ちゅうのみきり)、などと呼ぶ。
   ビシャン小叩き(びしゃん こだたき)
    ビシャンと呼ぶ槌で、石面を叩き平らに仕上げる作業及びそれによる仕上り面のこと。「小むしり(こむしり)」とも言う。
    順次、歯数の多い槌に変えながら叩き仕上げる。
     註
     原文には「ビジャン」とありますが、「ビシャン」の意と解します。
     ビシャン:鎚:ハンマーの一。方形の鎚の頭:当る面:に四角錐状の多数の突起がある鎚(ex 1寸角の面に縦横5列、総計25個の小突起がある)。
              大きさは多様。英語では bush hammer と呼ぶ。その発音がビシャンの呼称となったのだろう。
                       (「日本建築辞彙 新訂版」に拠る。「日本建築辞彙 新訂版」では「びしゃんどん」の項にある。)
   上々小叩き(じょうじょう こだたき)
    片刃あるいは両刃の鑿で、細密な線を刻むことで平らにする作業及び仕上り面を言う。
     註
     この呼称は、寡聞にして知りませんでした。
   荒砥磨き(あらとみがき)、白砥磨き(しろと みがき)、合砥磨き(あわせど みがき)、水磨き(みず みがき) 
     小叩きで平らにした面を、金剛砂あるいは砥石で磨く作業及び仕上りを言う。使用する砥石や仕上げの状態に応じた呼称。
     石材の材質の硬軟により仕上げが異なる。
     註
     荒砥、白砥、合砥は、砥石の種類。多くは粘板岩。砥石の粒子が異なる。作業段階に応じて、粗〜細〜微細・・・と使い分ける。
      現在はこの他に「本磨き」「バーナー仕上げ」などの仕上げ方もある。
                                                       

   以下に、堅石の仕上げ方および手間の一例を、新小松石(しんこまついし)の類の石垣用の間地石(けんちいし)の場合を例示する。
     註
     小松石(こまつ いし)
       神奈川県真鶴半島産の石材、安山岩の一。当初は、真鶴町小松山産の石を称したが、後に、半島産の同種の石をも呼ぶようになり、
       良質の小松山産を「本小松(石)」、その他は「新小松(石)」として区別するようになった。
                           
        他の安山岩系の石材:白河石(福島)、鉄平石(長野)
     間地石(けんち いし):現在の表記は「間知」が一般的。
       日本独特の石垣用石材。奥に行くに従い細くなっている形のもの。(「広辞苑」)
       石垣用の石にして、後方に至るに従い窄まり(すぼまり)居る形のもの。
       相州(神奈川県中・西部)堅石または豆州(伊豆)の多賀及び雲見より産する凝灰岩の出来合石(できあい いし)なり。(「日本建築辞彙 新訂版」)
         間知の名は、おおよそ1間に6個並べるのが普通で、1間の長さを知ることができる、という意である、との解釈もある。    
   野石すなわち荒石で合口(あいくち:他の石と接する面)のみ玄能にて摺合せをする程度の場合は、積面(つみづら)1坪につき石工2.5人手間。
   石の面が1尺2寸〜1尺5寸角程度、鑿切・小叩き摺合せの場合は積面1坪につき石工8.5人手間。
   同上、ビシャン仕上げ合口小叩き摺合せの場合、石工10人手間。
   堅石の二辺小叩きは、一尺平方あたり石工0.6人手間。
   堅石の鑿切、1尺平方につき、3分幅揃え0.3人、5分幅揃え0.2人、8分幅揃え0.1人、1寸幅揃え0.07人。
   
   東京近在の売石に岩岐石(がんぎ いし)と呼ばれる石がある。
   木口は長方形で、長さは1尺5寸〜7,8尺のものがある。
   岩岐石:堅石  イ印  長さ2尺以上×幅1尺×厚さ6寸
              二印  長さ3尺×幅1尺2寸×厚さ7寸
              三印  長さ4尺×幅1尺3寸×厚さ8寸
   房州石:軟石  大尺三 長さ2尺7寸×幅1尺1寸×厚さ9寸5分
             尺三   長さ2尺7寸×幅8寸5分×厚さ7寸5分
             尺二八 長さ2尺7寸×幅9寸5分×厚さ6寸
             大尺角 長さ2尺7寸×幅7寸5分×厚さ6寸5分
       房州石については、石材の種類の項の註記参照。
   他にも多種の石材がある。 
     註
     岩岐石
      「日本建築辞彙」には、「雁木石」を石材向きに改めた当て字ではないか、とある。以下は、同書の解説の要約。
       雁木とは、すべて段状をなした形を言い、段自体を指すこともあり、そこから、石段に用いる石を「雁木石」と呼ぶようになったのではないか。
       岩岐石は主に相州産、豆州産の堅石が多い。

以上で「二十六 石材彫刻及び石工手間」の項は終りです。
            (各項の註記部分は、特記以外、「広辞苑」「建築材料用教材」「建築材料ハンドブック」「内外装材チェックリスト」などに拠る。)

ここで紹介されている石工事は、重機、電動工具、圧搾空気工具などがなく、すべての作業が人力に拠り行われた頃の話です。それゆえ、石工手間についての記述は、現在は通用しない、とご理解ください。
   ただし、各地の近世までの構築物に見られる石垣などの石工事の、石材の産地、構築に要した工期や工人数などを推定する参考資料になります。
また、文中の「仕上げ用語」は、現在でも変りないと思われます(ただし、現在増えているバーナー仕上げなどは、当然、当時にはありません)。、
なお、文中の売品:既製品の種類なども、現在とは異なるのではないか、と思います。
   現在は、国産石材に代り、中国産の利用(中国で加工・輸入)が、廉価であるため増えています(墓石も中国産が多い!)。 

           **********************************************************************************************************


次回は「二十七 漆喰調合及び左官手間」を紹介の予定です。
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