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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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「日本家屋構造」の紹介−9・・・・軸部:柱と横材の「構造」

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2週間ほど時間が空きました。風邪は何とか治ったようです。再び「紹介」を続けます。

[文言補訂 17日 11.00]

今回は、「足固め(堅め)」、「二階梁・桁:胴差」など、柱へ横材を取付ける方策についての解説です。

まず、「足元の構造」について。


ここで「足元」と言っているのは、立上がりを設ける「布基礎」を用いない時代の「足元」です。
すなわち、
「礎石」の上に「柱を直接立てる」、あるいは「礎石」の上に「土台を流し、その上に柱を立てる」工法の時代の「足元」。
この書の解説は、このことを前提に書かれています。

「布基礎」主流の今では、「足固め(堅め)」を知る人が少なくなりました。
   一階の床は、通常、地面より高い位置に置かれます。
   「布基礎」を見慣れた目には奇異に映るかもしれませんが、
   その「床高」位置のあたりで「柱相互を結ぶ横材」を「足固め(堅め)」と呼びます。
   「床高」を確保するための部材は、「大引」「根太」ですが、
   特に、「柱の通り」に設けられる「大引」材を「足固め(堅め)」と呼ぶ、と言えば分りやすいかもしれません。
   柱通りに「大引」のような横材が設けられると、足元まわりがしっかりと固まってくることが知られ、
   その結果多用されるようになり、その役目を表わす呼称としてこの名称が付けられたのだ、と思われます。
   これも、現場生まれの知恵です。机上では生まれません。
   なお、古代にも「大引」様の材が使われていますが、そこでは「床桁」と呼ばれていたようです。
   「床桁」の方が意味が分りやすいかもしれません。[文言補訂]
        このあたりのことについては、「再検:日本の建物づくり−7」をご覧ください。

「第一 足固め(堅め)及び床束」
「足固めの上端を床板の仕上り面と同じにする場合には、『足固め』材の両側面の上端を床板が掛かる幅を板厚分欠きとる。これを『板决り(いた しゃくり)』と呼ぶ。
『足固め』の継手は『鯱(しゃち)継』とするのがよい。
第三十二図は、『足固め』の『四方差(しほう ざし)』の『鯱(しゃち)継』の仕口の解説図。
「柱」で「足固め」が交差するので、一方を『下小根(枘)』(図の【甲】)、他方は『上小根(枘)』(図の【乙】)とする。
『鯱(鯱)継』に代えて(『枘』を『柱』に差した後、『柱』の側面から)『込栓打ち』とすることもある。
一般に『鯱(しゃち)継」は、『鎌継』などのように上から落として継ぐことのできない場合に用いられる(作業は横方向の移動で済む)。
『大引』の『柱』への取付きは『枘差し』とし、『足固め』材に取付くときは、図の【丙】のように、『蟻枘差し』とする。
『床束』は、図の【丁】のように、上部は『足固め』『大引』に『枘差し』とし、下部は『沓石』に『太枘(だぼ)差し』とし、『束』相互に『根搦み(ねがらみ)貫』を差し通す。
   『太枘(だぼ)』とは、『束柱』の径の1/3ぐらいの正方形で長さ1寸ほどの『枘』の一。
粗末な工事では、『根搦み(ねがらみ)貫』を通す代りに、『束』の側面に『貫材』を釘打ちとする。
『根太』は『大引』に『渡り欠き』で掛ける(図の【戌】)。」
  注  『渡り欠き』:『渡り腮(わたり あご)』にするため木の一部を欠くこと。
      『渡り腮(わたり あご)』:下図参照。
      図の【カ】が『渡り欠き』     (「日本建築時彙 新訂版」より)
      

  補註 この解説は、『足固め』の上面を仕上げの一部とする方法についてのもの。
      縁側の『縁框』を『足固め』に兼用する場合などが、これにあたります。
      一般には、『足固め』を設けても、床仕上げで隠してしまうのが普通ではないかと思います。
      この方法では、『根太』は、その上端を『足固め』上端より床板の厚さ分低い位置に取付ける必要があり、
      したがって『大引』は『足固め』の中腹に取付けることになります。
      『大引』〜『足固め』の仕口が『蟻枘差し』程度で済むためには、
      『大引』断面が大きく、かつ、『束』が『大引』を確実に支持していることが必要。
      そうでないと、『足固め』の際で、床が暴れてしまいます。

次は「軸の構造」

「第三十三図の【甲】のように、『柱』に『横差物』を『追入れ(おおいれ)』に納め、『追入れ』の深さを柱径の1/8程度とし、図の【(い)】のように『柱』の『枘穴』の左右の一部分を残し他を彫り取り、差し合わせる方法を『鴻の巣(こうのす)』(→注)と呼んでいる。
『鴻の巣』を『差物』の『成(せい):丈』に通して設けることもある。
『鴻の巣』は、『柱』の力を弱めることがなく、『差物』の曲(くるい):捩れを防ぎ、また【(ろ)】の穴底に『柱』を密接させ、『枘』を堅固にする効果がある。
  注 「鴻の巣」   工人仲間の《常用語》  「日本建築辞彙」の解説をそのまま載せます。
     

第三十三図は、『二階梁』が『柱』に三方から取付く『三方差』の図。
【甲】のように、一方向:この場合『桁行』:では、『柱』を介して左右の材を『鯱(しゃち)継』で継ぎ、他方『梁行』は、『柱』に『小根(枘)』差しで取付け、【(に)】の穴から【(は)】に『込み栓』を打ち、『桁行』の右側の『材』に差すと、『梁』の【(ほ)】の欠きこみ部分を【(へ)】が通り、『鯱(しゃち)継』で左右の材が継がれることで、『梁」は抜けなくなる。
【乙】は『柱』への『根太掛(ねだ かけ)』けの取付け方。『根太掛』材に『襟輪欠き(えり わ がき)』を施し『柱』に取付け、『根太彫(ねだ ほり)』の穴から釘打ちで留める。
『隅柱』も同様に『襟輪欠き(えり わ がき)』をして大釘打ちとする。
『際根太(きわ ねだ)』は、『柱』に1寸ぐらい掛かるように掘り込み、その他の『根太』は1本置きに『二階梁』および『根太掛』などに【(ち)』のように『蟻掛』とする。」
  注 『襟輪』:木材の組手継手などに於いて、一つの木の縁(ふち)に設けたる突出をいう。
     「入輪(いりわ)」とも称す。     (「日本建築辞彙」より)
  補注 『襟輪』は、材の捩れなどを防ぐための「目違い」の一と考えられます。
      このような念入りな仕事は、最近見かけなくなりました。
      「柱」に添えて釘打ちするだけで、「根太掛け」が少し掛かるように「柱」を欠きこむことさえしないようです。

  補注 「梁行」にも「柱」を挟んで横材が伸びる場合が「四方差」です。
      つまり「柱」に十文字に横材が架かる場合。
      いわゆる『鴻の巣』は、「三方差」「四方差」の丁寧な刻みの例に過ぎず、
      「三方差」「四方差」をすべてこのようにしなければならないわけではありません。
      その意味で、最初に一番手の込んだ仕事を紹介することには、私は賛成いたしかねます。
      継手・仕口は面倒だ、という誤解を生じる一因になってしまうからです。現にその気配が感じられます。
      大事なことは、「原理」を知ることではないでしょうか。
      単に《面倒で手の込んだ仕事を知っている》だけでは何の意味もない、と私は思います。


次回は「小屋組」についての解説になります。
     

この国を・・・・29: 「人びと」、それとも 「国民」?

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梅雨明けの青空。合歓の花が盛りです。

  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

最近、「国民」という語が気になっています。
「国民」という語の指し示す内容が気になるからです。

たとえば、社会保障のありかたについては、「国民会議」の下で論議を深める、とのこと。
はて「国民会議」とは?
何のことはない「有識者」に論議していただく会議らしい。
そういう場合、これまでは「有識者会議」「有識者委員会」などと称してきたはず。それが、今度は「国民会議」だと言う。
「国民」とは「有識者」のことなのか?。
「それ以外」は何?「有識者」は、すべての人びとの代理者?
だいたい、「有識者」とは何?
大学教授、「その道の」専門家は「有識者」なのだろうか?
そもそも「有識」とは何を言うのか?
これらについての「解釈」「説明」は、いまだかつて聞いたことがない。
もちろん、「有識者」の会議がなぜ「国民会議」なのか、その説明はない・・・。

政府が主催する「エネルギー・環境会議の意見聴取会」というのが開催中です。
これは、「国民的議論」の場にする、というのが政府の「見解」のようです。
「意見聴取」という以上、「集った方がたの意見を聴く」のであろう、と思っていたら、まったくそうではないようです。
「原発依存0」、「原発依存15%」、「原発依存20〜25%」の三つの選択肢のそれぞれについて、「無作為で選ばれた人」が「意見」を述べるのを、集った人びとが、一切質問も意見も言えず、ただ黙って「聴く」だけの会、のようです。
   しかもその意見陳述者の「選択」は、原発0、原発15%、原発20〜25%、の選択肢ごとに
   「公平に」3人ずつ、「公正に」選んだのだそうです。
   意見を述べたい人の数の割合は、原発0>原発15%>原発20〜25%、とのこと。
   「東京web」のデータを転載。
   
   「公平」「公正」の「概念」についても見解を糺したくなります。

しかし、人数に応じて意見を述べることができれば事態が正された、ということにはなりません。
それは、いわば瑣末な話。
この場合の本質的な問題が三つあります。
一つは、「国民」的議論、の「国民」とは何を指しているのか。
一つは、こういう形式の会をして、何ゆえに「意見聴取の場」と言うのか。
そして、それをなぜ「国民的議論の場である」と称するのか?
   この形式の運営を企画したのが「広告代理店」だそうです。さもありなん・・・。
   しかし、「企画」は明らかに政府が出したものの筈。
そしてもう一つは、
「意見」を、なぜいわば先験的に、この「三択」だけに集約するのか。

この二つの事例は、結局は「根」は一つである、と私は思っています。
簡単に言ってしまえば、
人びとを「言いくるめる」ための「政治家たちのたくらみ」。これをして「政策」と言う?

「・・・人間として大事なのは、自分が相手の立場になった時にどう思うかだ。その痛みを感じる心を持ってもらわなければならない・・・。」
この「素晴らしい講話」は、誰が、何について語ったのでしょうか?

「いじめ」について、わが現・総理大臣が語ったのだそうです(「毎日新聞」17日付朝刊)。
そういう気持ちをお持ちなら、福島の多くの人びとの立場に立って、原因解明も、将来の姿も不明な、まして廃棄物の処理も未決なまま、大飯を再稼動する、などと言うことはできないはずです。いったい、この「決断」の際、どんな「相手」の「立場」に立っていたのでしょう?

つまりこれは、「人なんか言いくるめればいいのだ」、「言い負かして、勝てばいいのだ」(それをしてディベート: debate と思い込んでいる人が結構いるらしい)という「己のあり様:実像」をすすんで「証明」してくれたようなもの。
そして、今の政府の要人たちは、どうやら、皆そのようです。
それは、この「意見聴取会」なるものについて、未だにその「正当性」を説く企画担当大臣、原発担当大臣や、
「この程度の線量は、直ちに危険ということはない」と意味不明なことは言って平然としていた大臣、の「発言」を見れば分る。
今の政府の「要人」たちは、(若いのに!)その「発想」すなわち「精神」が、本当によく「似ている」。
人びとというのは、言葉の上で言いくるめれば済む、と「今の偉い立場にいる」方がたも、相変わらず、「かつての偉い」方がたと同じく、考えているのではないでしょうか。

   たまたま見ていたTVで、フィンランドの核廃棄物を10万年間埋設処理する地下施設を訪ねた方が、
   何万年後かの人たちに、「ここは近づいたり掘ったりしてはならない」ということをどうやって伝えるのか、
   と問うたのに対して
   フィンランドの専門家は、それが悩みの種なのだ、と素直に応じていました。
   日本の「政治家」や「専門家」なら、何と言うでしょうか?
   多分、それまでには方策が見つかっているでしょう、見つけるよう今努力しています・・・、とか
   あるいは「専門用語」を並べて煙にまく、・・・など、「言いくるめ」に「熱中」するでしょう。
   日本の「政治家」は、「言いくるめ」を「身上」「信条」とする方がたがほとんどであり、
   日本の「専門家」は「科学者」であっても、scientist ではないからです。

念のために付け加えますが、日本人が昔からこうだったのではありません。
こうなったのは、明治になってからです。
今の姿は、「近代」化策の成れの果て、と言ってよいでしょう。
たしかに、天は人の上に人をつくらなかった。
しかし、明治以降の偉い人たちは、すすんで人の上に人をつくる策を講じてきたのです。
その結果、人びとは、「偉い人(:言いくるめに没頭する人)」と「普通の人びと(:否応なく言いくるめられる人)」に二分されてしまったのです。
この「流れ」は、いったんは第二次大戦の敗戦で断ち切られたものの、それから半世紀以上経つ間に再び「復活」し、しかも、今「権力」の座にある方がたは、それを更に強固にし、なおかつ永続させようと願っている(誰の、何のために?)、としか思えません。これが私の歴史認識:理解です。
   「国会の原発事故調」が、その英語版で、
   原発事故は人災であり、それを惹き起こしたのは日本特有の「精神的風土」:島国根性・・にある、
   と書いてあるそうです。
   しかし、江戸時代の日本人なら、こういう人災は起していないでしょう。
   そこで触れられている日本特有の「精神的風土」・・なるものは、
   明治以降、いわゆる「近代化」の下で生まれたものなのです。
   調べると分ることですが、
   江戸時代の人びとは「国際的」です。
   もちろん専門家もいます。しかし、「今の世で見かけるような専門家」はいません。
   視野が「萬屋(よろずや)的」で、偏狭ではないのです。それぞれが scientist なのです。


さて、なぜ「国民」の語を私が気にするか。
最近の「大政翼賛」的な動きに併行して、頻繁に、「国民」「国民的」議論などという言葉が使われるようになったからです。
その向う側に見え隠れしているのは、「非−国民」という「呼称」ではないか。
今行なわれているさまざまな「画策」の「結果」、何か「方針」が決まったとしましょう。
たとえば、「原発依存15%」という策に方針が決まった、とします(このあたりを落としどころとする《シナリオ》があるのかもしれません)。
それは「国民的議論」を経て決まった策だ。
だから、決まった後、それに反するような意見を言う者は、「非−国民」である・・・。
つまり、「選別」の手段の《合理化》を急いでいる・・・。
政府の要人(三党《合意》の合意者も含みます)たちの「行動」を見ていると、そういう「方向」に「発展する気配」がきわめて濃い、と私は感じています。
   
もしそうではない、と言うのならば、
「国民」という語を、「人びと」という語に置き換えることができますか?
多分、できないでしょう。
なぜなら、もし「できる」のなら、耳に入ってくる「人びとの叫び」をして、「大きな音だね」などとして聞き流すことはできないはずだからです。
「国民」の生活は考えるが、「人びと」の生活は考えない。(偉い方がたの)言うことに叛く「人びと」は「国民」ではない・・・のかもしれません。
「人びと」はたしかに侮辱されているのです。

これでいいわけがありません。

補足・「日本家屋構造」−2・・・・軸組まわり:柱と横材:の組立てかた(その1)

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暑中お見舞い申し上げます。
もうミンミンゼミが鳴いています。いつもは8月も半ばを過ぎてから鳴きはじめるように思います。
猛暑のなかの現場通いで(現場は暑いので有名な甲府盆地の一角)、少しばかり夏バテ気味。
「日本家屋構造」の紹介の続き、少し間が開いてしまいました。ただいま編集中です。


その間に、かつて(社)茨城県建築士事務所協会主催の建築設計講座に際し作成した、日本の建物づくりの技術=建物の組立てかた:構造、およびその基幹を成す「継手」や「仕口」についてのテキストから、先回(補足・「日本家屋構造」−1)の続きとして、「柱と横材をどのように組立てるか」についての部分:いわゆる軸組の組立てかた:を転載させていただきます。

軸組まわりの解説というと、多くの場合、柱と横材の取合い、すなわち「仕口」や横材の「継手」の解説から始まるのが普通です。
「日本家屋構造」の叙述の順番もそうなっていますし、私もそういう順番で教わったように記憶しています。
たとえば、突然のように「追掛大栓継」「三方差」・・などの「解説」がなされます。ときには、「こうのす」のようないわば「特別」な例が持ち出されます。
そこでは、それが強固な継手である、あるいはすぐれた仕口である、とは説明されますが、それを「全体のどのあたりに、どのようなときに、設ける(のがよい)か」という解説は一切なかったと思います(「追掛大栓継」は梁や桁に使い、1本ものと変らない強さがある・・・といった説明で終り)。他の継手や仕口についても同じでした。
   継手・仕口の解説本でも、その継手・仕口だけについて、強い、弱いという程度の説明で済んでいるのが普通です。  

多分、教える側には、「部分」をいろいろと知っていれば、その足し算で「全体」をつくりあげることができる、との考えがあったのではないか、と思います。
しかし、「単語」を知っていても「文章」がつくれるわけではないのと同じで、継手や仕口など、「部分」をたくさん知ったからといって、それで「全体」が構築できるようになるわけではない、ことは自明の理です。  
教わる側は、「全体」を構築するには、何をどう考えたらよいか、まずそれが悩みの種なのですが、教える側はそれが分らないのです。
教える側自身にも必ずそういうときがあったはずなのに気づかない。
あるいは、それは自ら会得しろ、というのかもしれません。
しかしそのとき、会得するに相応しい場面・状況を、具体的につくったり提示していたか、というと、そんなことはまったくない。
本当のところは、教える側自身、何をどう考えたらよいか、分っていなかった、・・・のかもしれません。   
    ・・・・
    それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
    「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、
    あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
    彼らの登山の質を楽しむためである。舁床に運ばれて無数の山頂を知り、
    かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
    なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、
    また無数の風景といっても、
    世界の広大無辺のうちにあっては、ごみ粒にすぎないからである。
    ・・・・
    ・・・・
    言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、
    はるかに重要なのだ。
    ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
    おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとって
    なんの意味があろう。それなら辞書と同様である。
    ・・・・
                             サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)
    これは、私が学生時代に読んで共感し、以来、そのようにありたい、と心がけてきた「教え」です。

そういうわけで、この「設計講座」では、極力、部分から全体へ、ではなく、全体から部分へ、という流れの中で分ってもらえたら、との方針で臨みました。テキストもその主旨で編集してあります。
しかし、すべては試行錯誤、十全ではないのは言うまでもありません。そのあたりをお含みの上、お読みください。
  なお、先回でも触れましたが、ここでは「胴付」を「胴突き」と表記しています。

はじめは、(二階建ての)建物の骨組は、どのようになっているか。
そして、横材すなわち梁や桁は、その上に載る重さによって撓んだり曲ったりするけれども、その撓みや曲りの程度は、梁や桁の取付けかた:支持のしかた:によって異なる、ということについての概略の解説です。

現在の法令の規定は、図のAを前提に考えていると考えてよいでしょう。
簡単に言えば、架構としての強さは、筋かいなどのいわゆる耐力壁が担うから、横材は柱に簡単に掛かっているだけで、その上に載る重さに耐えればよい、という考え方です。
しかし、すでに「壁は自由な存在だった」など、いろいろなところで触れてきているように、日本の建物づくりの技術は、中世末には、図のC’のような形をなすようにつくれるようになっており、近世にはさらに進展しています。
そこでは、架構全体が外からかかってくる力に耐えればよい、という考え方を採っているのです。
それは、ひとえに、開放的な空間をつくるための「工夫」であった、と言ってよいでしょう。その方が、日本の風土では、暮しやすいからです。

次は、はじめに通し柱と管柱(くだばしら)の役割について、次いで、柱と横材をどのように組むか、その組み方:架構法:をモデル化して説明しています。  


これまで何度も紹介してきた奈良・今井町の「高木家」は、架構法Cの典型です。
   同じ今井町の「豊田家」もこの架構法ですが、いわゆる大黒柱を多用している点が「高木家」と異なります。

次は、二階床のつくりかた。これもモデル化して解説。


次は、横材の寸法:大きさ・太さ:をどのように決めるか、その決め方の説明。

材料の太さを大きくすれば建物が強くなる、と単純に考えるのは誤りです。
いわゆる「民家」は骨太である、と一般に言われていますが、上の「島崎家」と「堀内家」の例は、それが誤解であることを示す事例です。
今井町「高木家」も、不必要に太い材料は使わない好例です。

次は、二階の床をどのようにつくるか、いわゆる「床組(ゆかぐみ)」(「床伏」とも呼ぶ)について。


次は、このような架構法に使われる継手や仕口についての説明ですが、分量が多くなりますので今回はここまでにして、「その2」として載せることにします。

補足・「日本家屋構造」−3・・・・軸組まわり:柱と横材:の組立てかた(その2)

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昨日は原爆忌、今日は立秋。
昨日の夕立で、乾ききっていた地面が生き返りました。
草叢では秋の虫たちが鳴いています。そして近くの林では、アブラゼミ、ミンミンゼミとともに鶯が。このあたりでは、鶯は春先からずっと林に居ついています。 

左:二方差(伊藤邸  差鴨居) 右:四方差(筑波一小体育館  梁・桁) いずれも「竿シャチ継(竿は「雇い竿」)」
                                                    [写真更改 9日10.40]

(社)茨城県建築士事務所協会主催の建築設計講座に際し作成したテキストから、軸組まわりの説明の続き:継手や仕口についての部分:を転載します。


今も一般に多く見られるのは??です。これは、「住宅金融公庫」が推奨仕様としていたためと思われます。
金物を添えれば強くなる、という《神話》を広め、「建築基準法」の規定の《神格化》を進めたのが、「住宅金融公庫」仕様であった、と言っていいでしょう。
しかしそこでは、?の説明で触れているように、「追掛大栓継ぎ」と「腰掛鎌継ぎ」を同じ性能のものとして扱っています。
   住宅金融公庫仕様を背後で支えてきたのが、建築研究者ムラです。原子力ムラと構図は同じです。

次は「通し柱」への横材の取付け方のいろいろ。
最初は隅の「通し柱」の場合。

?と?は、一般に多く見かけますが奨められない方法。
これは「住宅金融公庫」仕様はもちろん、現在の教科書「構造用教材」でも紹介されています!!

次は「二方差し」〜「四方差し」、つまり、中間の「通し柱」への横材の取付け方。

図はありませんが????が今一般に見られる奨められない方法。

続いて、横材同士の仕口と管柱と横材の仕口について。

次に梁と小梁、根太の取付け方の一般。

最後に、伝統的な建築法から学んだ「部材を組んで一体の立体:箱:につくり上げる方策」の概要。

このようにすることで、間違いなくきわめて頑強な架構になります。
しかし、これでは、現行法令では「不適格」、すなわち、数百年健在の多くの重要文化財建造物と同じく、耐震補強を要する建物とされてしまいます!《神話》が「事実」よりも上位にあるからです。

「日本家屋構造」の紹介−10・・・・小屋組(こや ぐみ):屋根を かたちづくる(その1)

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[註 追加 12日 11.22]

「日本家屋構造」紹介の続き、今回は「小屋組(こや ぐみ)」:「小屋の構造」についての解説部分。

今回の紹介は、いささか考えてしまいました。継手や仕口をキライになる方を増やしてしまうのではないか、と思ったからです。
なぜなら、出だしが、多くの方が困惑するであろう仕口の解説から始まるのです。
しかし、紹介であるかぎり、原著の順に忠実でなければならない、と思い直し、註で補うことにします。

「小屋の構造」の第一として挙げられているのが「小屋組」。

「第三十四図は、方形(ほうぎょう)屋根の軒桁の隅の部分の組み方の図。
   註 寄棟屋根、入母屋屋根の隅部も同じです。
     各屋根については、「日本家屋構造の紹介−5」をご覧ください。
   註 「入母屋」は、現在、単に屋根の形の一と思われていますが、元は架構のつくり方として謂れのある語でした。
      この点については「日本の建物づくりを支えてきた技術−2」他で触れています。[追加 12日 11.22]
図の甲は上から見た伏図(ふせ ず)、乙はその分解図。
軒桁は、合欠き(あいがき)で交叉させ、隅木(すみ ぎ)は、交叉部の上に渡り欠きで掛け渡す。
この場合、桁相互の合欠きの底になる部分は、(普通の合欠きとは異なり、)隅木の勾配と同じ勾配で刻む(→注参照)。
図丙は隅柱と桁の仕口の図で、重枘(じゅう ほぞ)で桁の上端まで差し通す。
この仕口:組手を捻組(ねじ ぐみ)と呼ぶ。」
「第三十五図は、口脇形板(くちわき かたいた)を使って桁や母屋の小口に屋根(垂木)の勾配を描き写す方法を示した図。
口脇とは屋根勾配を言う(→注参照)。
口脇形板は普通の4分厚板の長辺の一方を真っ直ぐに削り、端部を屋根勾配にあわせ切り落とした板で、その先端から2.5〜3寸下がった位置に板に直角に墨を引く。この墨を水墨と呼び、図のように桁あるいは母屋の小口の真(芯)墨にあて、勾配と水墨を描き写す。そうして引いた墨に合わせ釿(ちょうな)で勾配なりに削る(→注)。」
   語彙の説明 「日本建築辞彙」(新訂版)の解説
    合欠き 「相欠」と書く方正しからん。
          継手または組手に於て、二つの木を、各半分ずつ欠き取りて、合せたる場合にいう。
    捻 組  組手の一種にして、その上下の接肌(つぎ はだ)は水平ならざるものなり。
                
                 左は大工職(建築)の捻組、右は指物職(家具等)の捻組

                「日本建築辞彙」(新訂版)の後註に、次のような解説が載っています。
                「・・・交叉する桁類を相欠きとする場合、その接面を水平にすると隅木との仕口によって
                上木上端が斜めに欠かれているため、上木の欠損がいちじるしく偏ってしまう。
                その偏りが生じないように、相欠きの接面を斜めにするのが捻組である。・・・」

                下の図版は、14世紀につくられた浄土寺・浄土堂の母屋の隅の仕口の写真と分解図。
                               (「国宝 浄土寺・浄土堂修理工事報告書」から転載・編集)
       
                この場合の相欠きは、普通の水平に欠き取る相欠き。
                図の右上が上木の側面図。隅木の刻みにより生じる欠損の大きさが分ります。
                ただ、材寸が大きいため、先端が折れるおそれはありません(右下姿図参照)。
                しかし、材寸が小さい場合や、隅木の勾配が急な場合には、折損のおそれが大きくなります。
                捻組は、それを避けるために生まれた現場の知恵と言えるでしょう。

                最初にこういう手間のかかる仕口を説明されると、方形や寄棟、入母屋の隅は
                必ずこのようにしなければならない、と思ってしまう方が現れてもおかしくありません。
                そして、継手・仕口は面倒でやっかいなものなのだ・・・、となりかねません。
                冒頭、「いささか考えてしまった」と記したのは、そのためです。
                大事なのは、二材を同一面で交叉させる基本は相欠きだということです。             
                桁が一定程度の丈(5寸以上)があれば、普通の相欠きで済むのです。

    口 脇  軒桁、隅木、その他すべて小返(こ がえり)付の木の横面(よこ つら)をいう。
               
                小返りとは、天端につくられた斜面。
                鎬(しのぎ)とは、最高部:峠の部分(刀剣の用語から)。
     補注 この解説では、軒桁の天端全面を垂木の勾配なりに削っていますが、
         現在では、垂木の載る箇所だ欠き込むのが普通ではないかと思います。
         下の図はその説明。実用図解「大工さしがね術」(理工学社)より転載・編集。
         
        図から判断すると、この書では、彫り込んだ部分のことを口脇と呼んでいるように見えます。
        現在は、桁・母屋の側面の彫り込みの深さを決めて、小返り:奥行を決めるのが普通ではないでしょうか。
        彫り込みの深さは任意ですが、深さが浅いときは、桁芯の峠は桁より浮いています(上図のb)。   
          なお、私は、桁、母屋を所定の位置に置き、口脇の深さを決めて垂木を描くことにしています。
          口脇の深さは、面戸板の取付け方次第で決めています。
        手加工の時代では、桁上端の全面を勾配なりに削るのは大ごとだったと思われます。
        なぜそうしたのか?垂木の間隔が狭い場合があった(繁垂木)からでしょうか。
        理由をご存知の方が居られましたらご教示ください。        

次は、「切妻造」の解説ですが、ここでも突然傍軒(そば のき)や裏甲(うら ごう)の納め方の解説から始まります。
   傍軒については、『「日本家屋構造」の紹介−5』で触れています。
   裏甲とは、茅負(かや おい)の上に設ける化粧材を言います。
   しかし、今回紹介の第三十六図には茅負が描かれていません。
   それゆえ、一般の広小舞上に設ける淀のこととを言っているのではないかと思います。
   下図は、「日本建築辞彙」所載の淀・広小舞と裏甲の図です(淀・広小舞の図は再掲)。
        
        茅負、広小舞、淀については、同じく『「日本家屋構造」の紹介−5』参照。       

「第三十六図は切妻造の傍軒の納め方の一例で、図の甲は垂木形(たるき がた)と裏甲の取付け方を示す。
図の乙は、妻梁を軒桁へ取付ける仕口で、この場合は大入れ(追入れ)蟻掛け。大入れの深さは、桁の幅の1/8程度。
淀の丈:厚さは柱径の5分(5/10)×幅4寸程度。
垂木形(*)は厚さ柱の3.5/10×幅:下端で全長の8/100、上端で下端幅の2分増し程度とし、土居葺き(どい ぶき)(*)上端より1〜1寸2分ぐらい上の位置で、軒桁、母屋、棟木には蟻掛け:図の甲:あるいは、杓子枘(しゃくし ほぞ):図の丁:(*)で取付け、なお、手違鎹(てちがい かすがい)(*)で補強する。
裏甲の大きさは、丈は垂木形の厚さと同じ、幅は淀の面より3寸以上外に出す。
裏甲と登り裏甲の隅は、目違いを設けた留(とめ)(*)で納め、上端に平鎹(ひら かすがい)2個以上を打ち補強する。」
   語彙の説明 文中 * について 「日本建築辞彙」(新訂版)の解説
    垂木形 片流れまたは両流れの屋根に於ける妻に取付けたる板にして垂木に平行するもの。
          ・・・あたかも破風のごとし。・・・垂木形は破風に比すれば、長さに対して幅が狭きものなり。  
           註 上側の幅を下側の幅よりも若干幅広にするのは、視覚的に、全幅が同じに見せる工夫。
    土居葺 屋根瓦下なる薄板葺をいう。・・・
           註 現在の野地板と見なしてよいでしょう。
    杓子枘 上向きに傾斜した枘で桁類と破風板の仕口に用いられる。
    留    二つの木が、直角またはその他の角度にて出会うとき、その角度を折半して継目を設けたるもの・・。
    手違鎹 鎹の一種にして、その両端の爪が互いに直角をなすものなり。
           註 直交する(交叉する)二材を留めるための鎹。
             床板の根太への取付けなどにも使われる(→鶯張り)。

長くなりましたので、今回はここまで。

方形、寄棟、入母屋などについての「補足解説」を、「小屋組」の項の紹介終了後に載せる予定です。

次回は「京呂梁」と「折置梁」についての解説の紹介。

この国を・・・・30: 感 覚

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[語句補訂 14.53]
暑い日が続いています。
1945年の夏も暑かった記憶があります。
そのとき私は、疎開先の甲府盆地の西のはずれ山梨県竜王にいました。8歳でした。
辛うじて戦前〜戦後そして現在に至る間の世の移り変りのありさまを見ることができた世代です。

最近の政府の要人たちの、いったいどうしたの?と思わざるを得ない「行動」が気になっています。
先日の新聞で、毎週金曜日の官邸前のデモ、脱原発デモは、原発に対しての「感覚での拒否反応」だから対応に困る、という旨の「見解」が政府の内部にある、との記事を読みました。
一言で言えば、「感覚=感情」に拠っていて「理性的」行動でないから対応できない、ということのようでした。
そうかと思うと、政府を支える政党の中枢にいる人物は、首相が、デモの「主導者」:呼びかけ人に会う、との「姿勢」に、「一活動家」だけに会うことは、適切でない旨を語っていました。どうやら、「一活動家を利する」だけだから、というのが理由のようでした。
国民投票で原発への対応を決めるのにも反対のようです。決めることができるのは「政治家」だけ、と思ってるようでした。
   私は、「呼びかけ人が会う必要は全くない」、と思っています。
   「国民の意見は十分聞いた」という「工作」に使われることは目に見えているからです。
   オーストリアでは、福島の事故以後、直ちに国民投票で、新設の原発の稼動を取りやめたそうです。
   イタリア、ドイツの方向転換を決めたのも国民投票。
   この「国民投票で決める」という判断を、彼の国では、「政治家」が決めた、のです。
   日本の政治家は、それを嫌う。「結果」がはっきりしているからでしょう。
   そこに、日本の政治家たちの本音が見えます。
   それは、いわゆる「《経済》界」の人たちと通じている。
   と言うより、「経済」の本義を忘れているからでしょう。
そうかと思うと、どうやら原発の下に活断層があるらしい。調査をしてそれが活断層であることが判明したら、稼動をやめる、という「専門家」の発言が報道されていました。
最近、鉄道に乗っていると、何々線では、走行中の異音の確認のために運転を見合わせています、という案内をよく聞いたり見たりします。
車を運転していても、いつもと違うな、と感じたら車を停めます。
運転を続けながら異常の有無を確認する、などという行動は、普通はとらない。
いつもと違うな、あるいは、おかしいな・・・、と思ったら、まず停まる、それが「常識」ではないでしょうか。
ところが、原発の場合は、運転を停めて確認する、ということをしないらしいのです。

この「いつもと違うな」という「認識」の根拠になっているのは、私たちの「感覚」です。
ところが、ある方がた(特に「エリート」たち)の間には、「理性」は「感覚」とは無縁なものだ、「感覚」から離れなければ存在し得ない、という《理解》があるようです。
それは、「客観」は「主観」とは無縁に存在する、という《理解》と根は同じです。数値化できれば客観的だという信仰もまたその《理解》の「結果」です。
いったい、オーストリア、イタリア、ドイツ・・・の人びとは「非理性的」なのでしょうか。
そんなことは、あるわけがありません。
「感性」「感覚」の裏打ちのない「理性」は存在しません。
彼らは、そのことが分っているからこそ、そのような決断ができるのです。
「非理性的」なのは、「感覚」の存在を無碍に無視し否定したがる日本の一部の「エリート」たちなのです。

こういう日本の(一部の)「エリート」たちは、どうして生まれたのか?
私は、science を「科学」(分けて学ぶ:《専門分科》して学ぶこと)として「理解」するようになってしまったことに起因していると思っています。つまり、西欧の思想:考え方に対する「誤解」から始まった。

「科学」という日本産漢語は、「一科一学」から生まれたいうのが定説です。
「一科一学」とは、西欧の《近代的》文物を早く吸収するために、手分けして学べ:一科一学:という「教条」でした。
この語が短縮されて「科学」と称され、なおかつ「分けて学ぶこと」(これを、日本では《専門》と称する)こそが science なのだ、と「理解」されたのが悲(喜)劇の始まり。[語句補訂 14.53]
以来、それが「近代化」であるとして、1世紀以上にわたって、視野の狭い「エリート」たちが続出するのです。
それはすなわち、人の上に人をつくる、ことに他なりませんでした。根は深いのです。

敗戦後、この「傾向」は是正されたかに見えましたが、最近になってまたぞろ復興してきた、しかも勢いを増している、そのように私は感じています。

8月15日、東京新聞の社説は、またまた明解でした。以下に転載します。
江戸時代の人びとは、貧乏だったけれども貧しくなかった、という一節があります。

「日本家屋構造」の紹介−11・・・・小屋組(こやぐみ):屋根を かたちづくる(その2) 京呂組と折置組

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いろいろと用事が輻湊して間遠くなりましたが、小屋組の解説の続きです。
今回は、梁の架け方:京呂組と折置組について。
[註追加 26日 9.44]
[註追加時の操作で、図版が別の図になってしまいました。補正します。27日 10.34]

「第三 京呂梁と折置梁の区別
京呂梁とは、先ず柱の上部に桁を架け、その上に梁を仕掛ける方法。
折置梁は、柱の上に梁を架け、その上に桁を載せる方法。
第三十七図の甲は京呂梁の側面図。
図の右側の仕口は、桁に渡り腮(わたり あご)で架けた場合の図、左側は兜蟻(かぶと あり)で架ける場合の図。
図の乙は、渡り腮の仕口。
梁の木口(こ ぐち)を桁の外側まで伸ばし、桁の内外の側面を桁幅の1/8ほど残した大入れとして渡り欠きを彫り、内側の側面には蟻掛けをつくりだす。
桁の上端は、内側の角から外側の口脇の角にかけて斜めに欠き取り、梁の下端もこの欠き取りに合わせ欠き取り、両者を嵌め合わせる。
梁の上端は、垂木の上端に合わせて勾配なりに削り、木口に垂木を受ける垂木彫(たるき ぼり)を彫る。
梁の下端は、桁の水墨(みずずみ)を下端とするのが定めではあるが、梁の形状によっては、多少下げることもある。
図の丙は、兜蟻の仕口。
梁を桁上端の真(芯)で切り止め、木口を面戸板で隠す。
桁には渡り腮の内側同様、蟻掛けで掛ける。
垂木は、梁の端部にわなぎ彫(輪薙彫)で取付ける。
図の丁、戌は、柱と桁の取合いおよび桁の継手を示す。
桁の継手としては追掛大栓継がよい。金輪継もよいが、その際は、あらかじめ地上で組んでおくこと必要で、建て方が難しい(後註)。」
   語彙の説明 「日本建築辞彙」(新訂版)の解説
    仕掛(け)る 一木を他の木の上へ、取付けることをいう。
           それよりして・・・仕掛けるための切欠きを仕掛(しかけ)と称するに至れり。・・
    わなぎ彫  一つの木を他の木に、わなぎ込むために、後者を彫ることなり。
    わなぎ込む 一つの木を他の木に食ます(はます)こと。
     
   補注 相欠き、渡り腮などは、組合わせる二材の双方を刻むが、この場合は片方の材は原型のまま。
         「わなぐ」という動詞は、一般の国語辞典にはありません。語源不明です。ご存知の方、ご教示ください。
         当然、「輪薙」という表記は、当て字でしょう。
    兜蟻    その外形が兜に似ているから、と説明を聞いたことがあります。
           要するに、普通の蟻掛けです。



次は折置組について           

「第四 折置梁
第三十八図の甲は、折置梁の側面図。同じく乙は軒桁、丙は折置梁の仕口を示している。
軒桁は、梁に1寸〜1寸5分ほどの深さで渡り欠きにして、梁の両側面に深さ5〜6分ほどの大入れ(追入れ)とする。
この場合、柱の枘は重枘(じゅう ほぞ、またはかさね ほぞ)として桁の上端まで差し通す。
図の丁は、梁の木口を板に写し取り、他の梁に転写する方法を示す。写し取る板をヒカリ板という。
この方法は、どのような場合でも、正確に転写することができる。」
   補注 ヒカル または シカル
       ヒカリ付け または シカリ付け
       これも語源が分りませんが、礎石の形に合せて柱の下端を削るなど、一般に転写する方法を言います。
       シカルはヒカルの江戸弁なのか、よく分りません。
       ご存知の方、ご教示ください。「日本建築辞彙」には載っていません。

補足
京呂組、折置組は、古代から用いられている方法です。
ただ、古代の例は、どちらの方式でも、必ず、梁の両端の下部には柱が立っています。
ある時代以降(正確には分りませんが近世末ではないか、と推測しています)、京呂組で、大きな断面の材を柱から持ち出した位置で継いで桁を架け、桁の中途に梁を架けることによって、すべての梁の下に柱を設けない方法が生まれます。柱を間引くことを目的とした方策と言えるでしょう。今回の京呂組の図解:第三十七図は、その例です。
もちろん、古代の京呂組でも、建物が長くなれば、当然桁を継ぐ必要が必ず生じますが、その時は、柱の真上:芯で継ぐ方法を採るのが普通です。
すなわち、古代の京呂組は、柱を抜くことを目的とはしていなかった、と考えてよいと思います。
古代の事例は、下記をご覧ください。
日本の建物づくりを支えてきた技術−5・・・・礎石建て2・原初的な小屋組

なお、一般の農家や商家の建物では、通し柱や差物、差鴨居のような横材を使用することで柱を抜く策を採っていますが、持出継ぎで継いだいだ桁を用いている例は見かけないようです。
下記で、差物、差鴨居を用いることで柱を抜いた古井家の例を紹介しています。
日本の建築技術の展開−25・・・・住まいと架構・その2 差鴨居の効能

ことによると、京呂組+持出継ぎは、一般の武家系の住居で多用された方法なのかもしれません。多くの武家系の住居は、見かけの上で書院造を模したつくりが多いからです(「見かけ」と「形式」の重視)。
書院造では、桔木(はねぎ)や長大な桁を使って柱を抜いている例が多く、それを模すために、(長大な材を得ることは一般には至難であるため)短い材を継いで長い材にする方策が生まれたのだと思われます。
持出継ぎは、寺院や書院造では、架構材には使われず、化粧の材で使われています。このあたりについては、下記をご覧ください。
日本の建物づくりを支えてきた技術−25・・・・継手・仕口(9)中世の様態」[追加 26日 9.44]
明治になって都市に暮すようになった人びとは、圧倒的に旧武家の方がたです。「日本家屋構造」で紹介されている家屋は、その方がたの住まいの代表的な事例をとり上げているのかもしれません。

この国を・・・・31: 嘘つきは・・・

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中旬のたんぼ。
今はもう、黄金色。近在ではコンバインの準備が進んでいます。

このところ、たまった用事の処理で時間がなく紹介ができなかったのですが、その間、東京webで読んでいる東京新聞には、あいかわらず、いろいろと素晴らしい論調、記事がありました。
以下に紹介するのは8月21日の紙面から。

社説は、政府が、福島県につくろうとしている「汚染土壌」のいわゆる「中間貯蔵施設」建設についての明解・明快な論。


素朴な疑問は、なぜ福島でなければならないのか。
なぜ、福島の方がたが、30年以上、生まれた土地から離れて暮さなければならないのか、それについての「釈明」を聞いたことがありません。

他の地域が設置を嫌うのは、よく分ります。
そういう問題が生じない場所があります。
それは、国会議事堂前の広場、あるいは総理官邸の広場。地下から地上まで、おそらく東京ドーム23個分ぐらいはできるのでは。
輸送が大変だ、と言うかもしれませんが、最終処分場を九州にしようと考えているらしいですから、その問題はないはず。日本は科学技術先進国なんだから・・・?!

第一、国会議事堂や総理官邸などにつくれば、日本政府の「本気度」が、世界中に伝わります。
そして、それでも足りない場合には、脱原発に反対する経団連:経済界・経済人や政治家・政党各々が、それぞれの所有地内で請負う(もちろん電力会社も含まれます)。
「それはできない」という筋道たった理由はないはずです。
福島でなければならない、という筋道たった理由もないからです。

私は、経済界の偉い方がたの、電力が足りないと産業が空洞化する、・・・という《説教》を聞くたびに、幕末から明治初期の各地で鉱山を開いた経営者たちのことを思い出します。
彼らのもとに、電気をはじめ必要な品々が存分に他所から届いていたのでしょうか。
そんなことはありません。大半が「自前」です。
たとえば、いつか紹介した小坂鉱山では、足りないものは山道をかついで自ら運び入れ、・・・自ら発電機をつくり発電所を建設し、・・、上水道を整備し、住居を用意し、病院をつくり・・・という「経営」をしていました。
鉱山特有の排出物の処理も行なっています。ゴミを出しっぱなしで平気ではいられなかったのです。
もちろん完全無比ではなかったでしょう。しかし、「気遣い」はあったのです。
現在の経済界で、「気遣い」のある会社はどのくらいあるのでしょうか?

次は、この「気遣い」とも深く関連する「ドイツの脱原発の経緯」についての記事。
ドイツが脱原発を決めたのは「倫理」。


「倫理」は、今の日本では、単なる学校の一「教科」にすぎなくなっています。
ドイツでは、そうではなく、「倫理」とは、この世で人が生きてゆくにあたっての「あたりまえの感覚」であるようです。
この「感覚」は、近世までの日本人は誰でも、皆あたりまえに備えていました。そうでなければ暮せないからです。
それを「近代化」を焦った日本は、この「あたりまえの感覚」を何処かに置き忘れてきてしまったのです。置き忘れることを奨めてきたのです。
今、日本の中枢を牛耳っている(と思い込んでいる)方がたは、この感覚をお持ちでないように思えます。むしろ、そうであることが「先進的」と思い込み、積極的に捨てることを心がけてきた。それは、先の記事で触れたとおりです。

そんななか、今日の「リベラル21」の記事の中で、今、ある種の人びとから注目されているある「政治家」の言葉が紹介されていました。この人の自著(絶版)に載っているのだそうです。
以下に引用させていただきます。
   「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。
   自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、様々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。
   ・・・別に政治家を志す動機付けが権力欲、名誉欲でもいいじゃないか!
   ・・・ウソをつけないヤツは政治家と弁護士になれないよ!嘘つきは政治家と弁護士のはじまりなのっ!」。

何をか言わんや。


「日本家屋構造」の紹介−12・・・・小屋組(こやぐみ):屋根をかたちづくる(その3)

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いろいろと時間がとられ、またまた間遠くなってしまいましたが、「日本家屋構造」の小屋組の項の続きを紹介します。

小屋組は、梁間:梁行の長さに応じて、いろいろな架け方があります。
今回の解説を紹介するために、先ず、「日本家屋構造」製図編から、梁間に応じた代表的「小屋組図」:梁の架け方の説明図を転載します(今紹介している「構造編」には載っていません)。


今回の最初は投掛梁(なげかけ ばり)の解説です。
投掛梁とは、上の図の左下の梁間4間半、および右上の梁間5間の図のように、梁間:梁行の長さが長いとき、単に梁を継ぐのではなく、中途に桁行通りに受けとなる横材を据えて、それを台として、その上で梁を継ぐ場合、その梁のことを呼んでいます。この投掛梁を受ける横材を、一般には敷梁(しき ばり)と呼んでいます(上の図では「ヒ」という符号がつけられています。江戸っ子の訛りでしょう)。
なお、桁行の横材だから敷桁だ、と言う方も居られます。
では、原文の紹介。

「第五 投掛梁
第三十九図の甲は、投掛梁の仕口:接続法の図。乙は敷梁の同じく仕口:接続法。
両者とも、追掛大持継(おっかけ だいもちつぎ)で継ぐ。
   註 追掛 台 持継と書くのが普通です。
      「日本建築辞彙」でも台持継です。

      この解説を読んで、これは仕口ではなく継手ではないか、と思われる方も居られるでしょう。
      私は、用語に拘ることはない、と考えています。
      英語では、継手も仕口も joint です。joint がいわば継手・仕口の「本質」なのです。
      つまり、長手に継ごうが、直交させようが、joint であることに変りはない、という認識。
投掛梁は、梁間が大きいときに、梁を十字に架け渡すときの方法で、先ず敷梁の下木を柱の上部に嵌め込み、上木を載せる。そこで使われる継手が台持継で、その方法は次の通り。
継手の長さは、梁の丈(せい:高さ)の2倍半程度。全体は鉤型の付いた相欠きで、図のように、接触面を斜めに殺ぐ。
長さの中ほどに深さ0.8〜1寸ほどの段差:すべり段を設け、下木、上木それぞれの先端に梁材の幅の1/4四方ぐらいの目違いをつくりだす。
   註 中央の段差部の斜めの形は、上木を据えるとき、滑って容易に下木に噛み合うようにする工夫と考えられます。
      すべり段という呼称は、このことから付けられたのでしょう。
下木の先端部は、丈を2寸5分程度として、上木の下端の形に合せて刻む。この部分を誂子口(ちょうし ぐち)と呼ぶ。
   註 「日本建築辞彙」では銚子口と表記。
      誂の字は「あつらえる」という意。上木の形なりに「あつらえる」ということなのかもしれません。
      あるいは、銚子は酒を入れる「とくり」。その口の形に似ている、ということからの命名か。
下木と上木の接触面:割肌には、1寸2分角ぐらいで長さ1寸5分程度の太枘(だぼ)を設ける。
投掛梁の下木を、渡欠き(わたり がき)で敷梁に載せ、上木を敷梁と同じく台持継で下木上に据える。
台持継の上部には必ず小屋束を建てなければならない(そうしないと、台持継の効用が無になる)。
また、上等の仕口の場合は、小屋束の根枘(ね ほぞ)は寄蟻(よせ あり)とする。」
   註 寄蟻 
      図のように小屋束の下端に蟻枘を設け、一方、梁の上端の束の所定の位置に蟻穴を彫り
      その穴に隣接して逃穴(にげ あな)を彫る。
      小屋束の根枘を一旦逃穴に落とし、次いで、束を蟻穴側に寄せる。
      その結果、小屋束は抜け難くなる。
      逃穴に埋木をする場合もあります。
      寄蟻は、鴨居などを吊る場合にも使われる確実な方法です。

「日本家屋構造」小屋組の次の項は削り小屋仕口の解説。
削り小屋とは、使う材を鉋削りしてつくる小屋という意味です。
簡単に言えば、使用する材が仕上りとして見えるつくり。
この項の解説も、最初に載せた各種小屋組の図を参考にしつつお読みください。

「第六 削り小屋仕口
第四十図の甲は、棟木(むなぎ)に垂木を彫り込んで取付けるときの方法を示す。
   註 この方法は、削り小屋でなくても用いられます。
乙は母屋桁または梁間に繋梁(つなぎ ばり)を架けて、そこに棟木を受ける束:棟束を建てる方法を示した図。この方法は、廊下などに用いられることが多い。
   註 これは、前掲「小屋組図」の上段中の梁間3間の場合の棟木の取付け方を示しています。
      この図は、繋梁を京呂で母屋に取付けています。
      この方法は、削り小屋の場合、あるいは廊下に限定されるわけではなく、一般の小屋にも使われます。

      なお、原文で母屋に「おもや」のルビがふってあります。
      「おもや」とは、普通は「身舎」「上屋」のこと。
      意が通じないので、ここでは母屋桁としての母屋:もやと解釈しました。
丙は、梁間が長いときに使われる二重梁を折置で取付ける場合の図。
   註 前掲「小屋組図」の右上、梁間5間の図の記号「ニ」が二重梁です。
図の丁は、[に一]の箇所では通常の小屋束を建て繋梁を掛け、[ほ一]の箇所では束の横腹に繋梁を差す納め方を示す。その仕口が図の戌。
   註 前掲「小屋組図」の右上、梁間5間の図の記号「ツ」。
二重梁、三重梁・・は、一母屋置きに架け渡すのが普通である。」


今回の紹介は、ここまで。
次回は、前掲の小屋組図右下にある「與次郎組(よじろう ぐみ)」などの説明。
その紹介のあとで、補足として、小屋組全般についてまとめたテキストを転載する予定です。

「日本家屋構造」の紹介−13・・・・小屋組(こやぐみ):屋根をかたちづくる(その4)

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「日本家屋構造」の紹介、小屋組の項を続けます。今回が小屋組の紹介の最後になります。

はじめは第四十一図。

標題が「八 與次郎組、渡腮及ワナギ枘」とあり、そのはじめが「第一 與次郎組仝ワナギ枘」となっています。
仝という字は同の古語で「同じ」という意です。
しかし、與次郎組仝ワナギ枘が何を言っているのか、よく分りません。と言うのも、上の図、すなわち甲と、下の図乙・丙・丁とは関係がないからです。つまり、與次郎組が必ず乙〜丁の仕口をともなうわけではありません。
そこで、以下では、それぞれを分けて紹介、説明することにします。
「第四十一図甲は、與次郎組と呼ばれる小屋組のつくり方を示した図。
この小屋組は、梁間:梁行の長さが大きいとき、中柱あるいは土蔵のように梁上に束柱を建て、その束柱に、左右から小屋梁を登り木として枘差しとする方法。枘は、図のように束柱に対して段違いに差し、図の左側の登り木のように込み栓か、右側のように鼻栓を打つ。
その際、登り木の下端を束柱に5分、上端を束面にそろうように斜めに胴付を設ける。」
   註 與(与)次郎  弥次郎兵衛(やじろべえ)の別称
      弥次郎兵衛 (「広辞苑」による)
      玩具の一。短い立棒に湾曲した細長い横棒を付け、その両端に重しを取付けたもの。
      指先などで立棒を支えると、釣合いをとって倒れない。與(与)次郎人形。釣合人形。正直正兵衛。
      與次郎組  説明のために下図をつくりました。
      
      図の赤色部分を天秤梁と呼び、濃い黄色部分を與次郎束、黄色部分が登り木。
      黄色の部分が弥次郎兵衛に似ていることから弥次郎兵衛組、與次郎組と呼ばれるようになったようです。
      與次郎束を受ける天秤梁上の桁行の横材を、
      中引梁(なかびきばり)、地棟(ぢむね)、牛曳(うしびき)、牛梁(うしばり)などと呼びます。
      「日本家屋構造」では中引梁と呼んでいるようです。
      ただし、この横材を、かならずこのような形、天秤梁で受けなければならないわけではありません。
      両側の妻面の棟通りに柱を建て、その間に太い横材を架け、その上に與次郎組を組む方法あります。
      妻面の梁上の束柱に架ける場合もあります。
      つまり、上図の黄色部分の「原理」が重要で、その「応用」は任意で、定型があるわけではありません。

      また、この横材に対する呼称が日本語では多数存在します(そういう例は、他にもあります)。
      おそらく、西欧語では、一つのものに対して、このように多様な名は示されず、
      普通は、そのものを示すのに相応しい代表的名称を紹介し、その他をいわば「方言」として紹介するでしょう。
      「方言」とは、同一物に対しての、地域や人による呼び方の「違い」。
      日本でも、この多様な名称は、「方言」のはずです。
      その方言が「中央」に集められ「均質に」紹介されると、そのすべてを「知る」ことが意義あることだ、
      と思う方が生まれます。
      なかには、それならば、一つの呼称に「統一」しよう、と思われる方も居られるでしょう。
      私は、それは、どちらも無意味なことだ、と考えます。
      私は、そのすべてを知る必要はない、と思っています。私たちは辞書である必要はない、と思うからです。
      知らなければならないのは、そういう策を採る理由:謂れです。
      それが分ればそれでいい、と私は思います。
      いろんな呼び方を知っていることは、博識ではない、のです。
      ましてや、一つの呼称に統一しよう、などというのはもってのほか。
      「標準語」という言い方は、今は死語になりつつあり、あらためて「方言」の意味が見直されています。
      かつての「標準語」は、「共通語」という呼び方になっています。

      このように、いろいろな呼び方がある場合、当方の「意図」を示すために私が採る手段は、
      その部分を「絵に描いて示す」ことです。
     
      天秤 (「広辞苑」による)  
      ?質量を測定する器械。     
       (棒の)両端に皿をつるし、一方に測ろうとする物を、他方に分銅をのせて、水平にし、質量を知る。
      ?天秤棒(両端に荷をかけ中央を肩に当ててになう棒)の略。

第四十一図の説明の続き。
「図の乙は、柱に腕木を取付ける渡腮(わたりあご)の仕口と、柱径より小さい棟木を柱に取付ける仕口:ワナギ枘を示した図。
ワナギ枘は、柱枘の左右を棟木の大きさに彫り取り棟木を嵌め込み、枘に割楔を打つ。
図の丙は、棟木の木口の図で、点線は、中の2本が枘を示し、外側の線は柱の左右を棟木に嵌め込む部分を示している。嵌め込む深さは2分程度。」
   註 説明文だけでは分り難いので、絵にしてみました。
       
      原文の示しているのは、左側の図のような納め方と思われます。
      中の図のように、柱頭を低い位置で止めるのが普通かもしれません。
      その方が、「柱が上の材を受けている」感じが強いからです。その事例が右の写真。
「・・・腕木は、柱に渡り欠きをつくり差し通す。
渡り欠きは、腕木を図の乙の点線のように欠き取り、同じく柱には点線のように孔を穿つ。
柱に穿つ孔は、腕木外寸より高さを5分程度大きく、孔の下端は、柱の面より5分ほど入った位置から中を5分上がった位置で刻む。
腕木の欠き取り寸法は、長さは柱径より1寸程度小さく、深さは5分程度。
腕木を柱の孔の上端にそって差し込み、所定の位置で渡り欠きを噛ませる。孔の上端にできる空隙に、両端から楔を打ち締めると腕木は固定される。
腕木の先端上端に小根枘をつくり、桁を差し、割楔を打って締める。」
   註 ここに示されている図は、普通、簡素な門などで使われる方法で、與次郎組とは無関係です。
      参考として、「日本建築辞彙」から、腕木を用いた門、腕木門:木戸門の図を転載します。
       
      第四十一図では、桁を腕木の先端にそろえていますが、この図のようにするのが一般的です。

続いて節をあらため、「蔀を柱に差す仕口」
普通、蔀とは、下註で触れるように、板戸のことを言います。それゆえ、その理解の下では、この標題が何を言っているのかよく分りません。
そこで、そのあたりについて、下註で、前もって説明しておくことにします。
   註  蔀(しとみ) 「日本建築辞彙」(新訂版)の解説
      ・・・蔀は日除(ひよけ)の戸なり。また風雨を除ける物なり。
      その上方に蝶番(ちょうつがい)などを設け、開きて水平となし、多端を吊るようになしあるものを、
      吊蔀(つりしとみ)または揚蔀(あげしとみ)という。・・・

      蔀  「字通」の解説
      声符は部。日光や風雨をさえぎる戸板、しとみ、小さい蓆(むしろ)をいう。
      [名義抄]シトミ・カクフ(囲う)・オホフ(覆う)

      釣る蔀戸の詳細は、江戸時代初頭の光浄院客殿の開口部をご覧ください。

      江戸っ子は、ヒとシを混同し、蔀をヒトミと発音する人が多く居ました。
     
      商家では、店の通り側全面を、昼間は開け夜は閉じます。閉じる手段は開口部を板戸で塞ぐことでした。
      この板戸を、蔀あるいは蔀戸と呼びました。古来の由緒ある語です。
      閉じ方にはいろいろあります。雨戸もその一です。しかし、雨戸には戸袋(とぶくろ)がいります。
      そして、戸袋を設けると、開口がその分狭くなる。
      そこで編み出されたのが、板戸を開口の上部に擦り揚げる方法です。
      普通、揚戸(あげど)あるいは摺り揚戸(すりあげど)などと呼びます。
      この板戸は普通の雨戸を横にした形(たとえば縦2尺8寸×横5尺7寸)をしています。
      開口高さが1間程度のときは、この板戸を2枚仕込みます。
      この揚戸(摺り揚戸)を、古来の呼び名を使い蔀戸と呼んだのです。
      ところが江戸っ子はシトミドをヒトミドと呼び、その音に字を与え人見戸(ひとみど)という表記まで生まれます。
      「日本家屋構造」の著者は、漢字は蔀戸と記し、音ではヒトミドと表記しているのです。
      以下に、一般的な商家の店先の正面図を「日本建築辞彙」から転載します。簡素な例です。
       
      図の人見梁とは蔀梁のこと。同じく人見柱は蔀柱。
      蔀梁は、この梁の上部の内側に蔀戸を仕舞いこむための呼称。
        古の蔀戸は、この横材に金物で吊ってありました。今なら蝶番。それゆえ蔀釣梁。
      蔀柱は、蔀梁が取付く柱の意。
        人見には、人に見せる、人に見られる、という意が込められていたようです。
      店の間口が広いときは1枚の戸では納まりません。たとえば、上図の柱間が2間のとき、
      戸締りの際には中間(図の黄色に塗った束柱の下になります)に取り外し可能な柱を1本立て、
      その左右にそれぞれ1枚の戸を仕込みます。
      この柱の呼称は閂(かんぬき)、黄色に塗った束柱の呼称は箱束(はこづか)でした。
        閂は、開き戸を閉じたとき、外から開けられないように、内側に通す横材を言います。
        そして、この横材を保持するコの字型の金物が閂金物、閂持金物(かんぬきもちかなもの)。
        閂と同じような役割を持つため、この取外し可能な柱を閂と呼んだようです。
以上の下準備をした上で、本文の解説に入ります。     
「第一 蔀造りの仕方
第四十二図は、多くの商家の表入口上に設けられる蔀:蔀梁の構造を示す。蔀梁の上部の小壁部分は、蔀戸をしまうための戸袋となる。
蔀梁の取付けは差鴨居と同じだが、その裏面(店の内側)に板戸1枚を納められるほどの深さの决り欠き(しゃくり かき)をつくる。
夜間、店を閉じているとき、開口部を、上下2枚の板戸:蔀戸で閉じる。
開店時には、先の蔀梁の欠き込み部:戸袋に、上段の蔀戸を突き上げて納め、下段の蔀戸は、仕舞った上段の蔀戸の位置まで押上げ、ツマミを差し、止め置く(2枚の戸が並んで納まっている)。
この戸袋部を左右に仕切る束柱を箱束と呼び、蔀戸を滑らす溝が彫られている。
開口を閉じるとき、この箱束の下に、箱束と同じ断面の柱を立てる。この取外し自由な柱を閂と呼ぶ。
蔀梁は柱の外面から飛び出して取付くため、柱への枘を2枚に分け(二枚枘)、枘の先端を少し薄くして柱に差し、込み栓を打つ。このような先を薄くした枘をこき枘と呼ぶ。」
   註 蔀梁の仕口を二枚枘とし、さらに先端を薄く斜めに殺ぐのは、枘孔の位置が柱の外面に近いため、
      通常の枘で差すと、柱に亀裂が生じるおそれがあり、それを避けるための工夫と考えられます。
      枘を上下2枚に分けるのも同じ理由だと思われます。

最後は出桁造り(だしげた づくり)の解説ですが、この紹介のために、揚戸を設けた商家の店先の断面図を載せます。
左側は「日本家屋構造」製図編にある出桁造りの商家の矩計図、右は近江八幡にある旧・西川家の矩計図(「重要文化財 旧西川家住宅修理工事報告書」より)。

先の第四十二図は、左側の商家についての解説と見なしてよいと思われます(ただ、この図では、箱束が壁で隠れています)。
右の西川家の例は、柱間が1間、ゆえに板戸は1列、2枚の例で、閂、箱束はありません。なお、西川家では、蔀戸ではなく摺り揚戸(すりあげ ど)と呼んでいます。蔀戸は、江戸の呼び方だったのかもしれません。     

最後は、出桁造について。
この解説は上の矩計図を参照しつつお読みください。
「第二 出桁造り
第四十三図は、出桁造りの説明図。出桁造りは蔀造りの階上の造りに多く見られる。
図の甲は、肘木を取付けるための肘木受。肘木受は、肘木よりも高さは1寸5分以上大きく、厚さは2寸くらいとする。
   註 肘木=腕木
図の乙は、柱間の中間で肘木受に取付く肘木の仕口。大きさは幅は柱と同寸、高さは柱径より3分ほど大きくする。仕口は大入れ蟻掛け。大入れは3〜4分。
柱に取付く肘木は、長枘を設け、柱に差し、先端は間柱まで伸ばし釘打ちとする。
図の丙は、出桁の姿図。出桁の大きさは、幅:柱の8/10×高さ:幅+3分。肘木に渡り欠きで架ける。
出桁の内側には、肘木の上端位置に小穴(こあな)を突き、図のように天井板を納める。
   註 小穴  細い幅の溝。この場合は、板の厚さ分の幅、深さは板厚以上。溝を彫ることを突くという。
出格子(で ごうし)の出は、普通6寸以上8寸以下。柱は3寸角内外、上は肘木に枘差し・込み栓打ち、下端は頚切りをして瓦を嵌め込む。格子台の下端は瓦上端に置く。」

小屋組については、これで終りです。
次は縁側のつくりかたになります。

「ここに、《建築家》は、要らない」 

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       滝 大吉 著 「建築学講義録」第一章 建築学の主意
蔵書印で隠れている箇所を補うと、以下になります。
  建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
  成丈恰好能く丈夫にして無汰の生ぜぬ様建物に用ゆる事を工夫する学問にして・・・
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[文言補足 18日 2.30][文言追加 18日 7.17][文言補足 18日 10.07]

先日、ある市役所に勤める方からメールをいただきました。
同意をいただきましたので、その一部を紹介させていただきます。場所や人物が特定されないように加工してあります。
   ・・・・・   
   今日、〇大学の若手の〇先生の話を聞きました。
   〇市役所(の建物)は〇さんの「作品」で、とてもすばらしい。
   あなたの市(私の勤め先)でも〇さんを呼んで設計してもらったら?
   と言われ「カチン」ときました。
   これまで、設計者は施主の要望を超えた設計をしないといけない、と思っていましたが、
   今日の話で変わりました。
   それは、施主(市民)は、今流行りの一「建築家」の思惑通りに動かされているだけ、
   つまり、施主を含めて「作品」の一部にされてしまっているだけ。
   それではだめなんではないだろうかと。 

   「建築家」がいなかった時代にも建物や街が美しかったように、  
   そのような時代の人びとが持っていた感覚をもって、
   「建築家」の思惑を超えないといけないんではないかと。
   「建築家」がいなくてもいい建物や街ができるんだ!ということを
   いつか○先生に言ってやりたいと思いました。

   こんなことを考えて、なかなか涼しくならない私でございます・・・
   ・・・・・

たとえば、F・L ライトが設計・計画に関わった建物について、あるいは構想段階の様子について、それらに係わる諸資料(設計図のコピー、スケッチのコピー、あるいはできあがった建物の写真など)を編んだ書物を、通常 F・L ライトの「作品集」と呼んでいます。
同じように、ある彫刻家の制作した彫刻の写真やデータなどを編纂した書物も「作品集」と呼ぶことがあります(美術館ではカタログ:目録などと呼ぶようです)。絵画の場合も同様です。

では、ここで常用される「作品集」の「作品」は、ライトの場合(つまり、建築に係わる場合)と彫刻、絵画などの場合と、同じ意で扱えるのでしょうか。扱ってよいのでしょうか。

紹介したメールの内容を理解するためには、この点について考えてみる必要があると思います。
すなわち「作品とは何か」。

「作品」を英語では work と言うようです。
   作品:製作物。主に、芸術活動によって作られたもの。文学作品。(広辞苑)
   作品:心をこめて制作したもの。狭義では、文芸・美術・工芸など芸術上の制作物をさす。(新明解国語辞典)
   work:?a 細工、製作 b(細工品・工芸品・彫刻などの)製作品
       ?(芸術などの)作品;著作、著述 特定の個々の作品をいう場合は
         a picture by Picasso のように言うことが多い。・・・・(新英和中辞典)
では、ここにでてくる「芸術」「芸術活動」とは、何を言うのでしょうか。
   芸術:?技芸と学術[後漢書 孝安帝紀]
       ?(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、観賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。
        絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを       
        指す場合ももある。(広辞苑)
   芸術:一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美的表現にまで高めて
       描き出す人間の活動と、その作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など。(新明解国語辞典)
   art :?芸術;美術・・・?専門の技術、技芸;技巧、わざ、腕・・・(新英和中辞典)

広辞苑の解説では、「観賞的価値の創出・・・」の活動・所産とし、絵画、彫刻、工芸、詩、音楽、舞踊と並んで「建築」が出てきます。
つまり、「建築」も「観賞の対象」として見なされています。
おそらく、これが、現在の世の中の理解・解釈の大勢なのかもしれません。

しかし、「建築」は、他の絵画・彫刻・工芸・詩・音楽・舞踊などとは、決定的な違いがある、と私は考えています。
それは、他がすべて、それに関わる「個人」の、いわば「思い通りになる」ものであるのに対し、「建築」はそうではないからです。
「建築」の場合、自らが自らの思いを実現すべく身銭を切って作品の制作に関わる場合を除き、制作物は制作者個人の思い通りになるものものではない のです。
言い方を変えれば、建築は、必ず他者に関わる、あるいは、他者が関わる、ということです。
単なる観賞の対象として、一個人によって、その個人の「表現」の為に、制作されるものではない、のです。[文言補足 18日 2.30]
   「建築」という語は、古くから存在する語彙です。
   しかし、明治以後(正確に言うと明治30年:1897年以降)、この語は、ARCHITECTURE に対応する日本語として
   使われるようになります。
       現在では、漢字を用いる諸地域で、同様の意に使われています。
    本来の「建築」は、字の通り、建て築くこと、すなわち build を意味します。
    ARCHITECTURE の当初の訳語は「造家」でした。それを「建築術」に変えよう、というのが伊東忠太の提言。
    その提言から術の字が取去られて現在の「建築」が生まれてしまったのです。
    研究社の「新英和中辞典」では、ARCHITECTURE :建築術、建築学 とあります。
    これは多分、英語の原義に忠実な訳だと思います。
    そういう理解・認識が日本では欠けているように思います。
    なお、このあたりについては「日本の『建築』教育」「実業家:職人が実業家だった頃」で触れています。

現在、多くの建築に関わる方、特に「建築家」を任ずる方がたの多くは、「建築の設計」とは(私の常用語で言えば「建物の設計」とは)、絵画・彫刻などのいわゆる「造形芸術」と同じく、「自ら(の独自性・個性・考え・・・)を表出する、表現すること」だ、と考えておられるのではないでしょうか。つまり、広辞苑の解説そのまま。
それはすなわち、「実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って(よって)真美を発揮するに在る」という「理解」にほかなりません。   
この文言は、伊東忠太の「造家」を「建築術」に改めよ、との提言趣意書にある一節です。
彼は、なぜ「造家」の語を変えたいと考えたのか。
この文言は、次の一節に続きます。
「・・アーキテクチュールの本義は啻に(ただに)家屋の築造するの術にあらず・・・」。
そして更に次のように続けるのです。
「彼の墳墓、記念碑、凱旋門の如きは決して家屋の中に列すべきものに非ざるなり。・・・」
つまり、「家屋の築造」などはいわばマイナーなもの、というわけです。
これは推測・憶測ですが、彼が「家屋」「造家」を嫌ったのは、家屋、造家には、必ずそこに住まう人が、非常に具体的な人が、居るからではないか、と思います。
具体的な顔を持つ人びとにかかずらうことは、「創作」すなわち「我が表現」の邪魔にしかならない・・・。だからこそ「実体を建造物に藉り・・・」という文言が挟まれることになるのではないでしょうか。
建造物には必ず他人が居る。まともにそれに係わっていたら、思うようにならない。それゆえ実体を建造物に藉りることになったのです。
   伊東忠太が教育に携わった時代の建築教育では、「どのような意匠の」建物にするか、に集中しています。
   「意匠」とは、簡単に言えば、形体のこと。当時では西欧の「様式」に拠る形体が中心。
   東京大学建築学科図書室には、当時の学生の図面がいくつか保存されていますが、その中には、
   立面図に、この立面の建物をいかなる用途の建物に供すべきか、を書き記したものが多数あります。
   これは裁判所向き、・・・などという詞書(ことばがき)です。
   しかし、そのいずれにも平面図はありません。
   では、何をもって立面が決められたのか?
   おそらく、彼の地の建物の写真、図、図面などがモデルだったのでしょう。
   伊東は「意匠至上主義の時代でより多くヨーロッパ趣味をあらわしたものが、よりよい建築である」、と
   述べているそうです。(岸田日出刀著「伊東忠太」)
では、こういう時代の教育を受けた方がたの設計した建物は、出来が悪かったでしょうか?
必ずしもそうではありません。むしろ、使える建物が多い。今話題になっている大阪の中之島にある図書館(下図)などもその一つではないでしょうか。

                      鈴木 博之・初田 亨 編「図面に見る都市建築の明治」(柏書房)より転載編集

しかし、現在の「建築家」の設計した建物は、その多くもまた「実体を建造物に藉り」我が意の発露に心したものではないかと思いますが、大半が使える建物ではない、と言ってよいと私には思えます。そして、寿命も短い。
この違いは何なのでしょう。
それは多分、明治初頭に生きた方がたには、人の世についての「素養」があったからだと思います。それは、江戸時代の人びとならあたりまえに持っていた「素養」(明治初頭の事業に携わった渋沢栄一や久原房之助といった方がたも同じだったように思えます)。
つまり、その建物は人びとにどのように使われるか、について、あたりまえのこととして一定程度分っていた。その「程度」は、現在の「建築家」のそれとは比較にならないほど高かった、と言ってよいのではないでしょうか。
多くの職人の方がたに読まれた「建築学講義録」では、「いかにつくるか」が述べられ、「何をつくるか」については触れていません。
これも、当時の職人の方がたにとって、「何をつくるか」は自明のことだったからだ、と考えられます。
なぜなら、職人:専門家は、常に人びとと共に在ったからです。

現在の「建築家」を任じる方がたの多くは、自らを表現すること、それをより高めることに「熱中」し、人の世は、「彼らが意匠の運用で真美を発揮するために藉りる『実体』」を提供してくれるものに過ぎない、と思っているのかもしれません。人びとと共にいる必要はない、のです。むしろ鬱陶しい・・・。

いったい、彼らがつくる建物:作品は、何なのでしょう。
     

9月11日付の毎日新聞夕刊に、「第13回 ベネチア・ビエンナーレ国際建築展 報告」という特集ページが組まれていました(全文は、毎日 jp でアクセスできると思います)。
タイトルは「注目された『人間性』」。日本からの出展のテーマは「ここに、建築は、可能か」であったとのこと。そして、展示責任者は某「建築家」。
記事の中に、ある「建築評論家」の言が紹介されていました。
「(彼は)世界的に評価の高い日本の建築家の中で、最先端を歩む表現者の一人。その彼が大震災を機に建築を根本から見直すというのは『事件』だった。」
この発言の紹介のあと、記事は次のように続きます。
「・・・今回、社会との関係が問い直されたことも大きい。(今回の)総合ディレクターが掲げた全体テーマは“ common ground ”。歴史や文化など、建築と人々の『共通基盤』を再発見する狙いが込められている。アート色が強かった前回に比べ、全体に堅実な内容に仕上がった。・・・」
   「事件」については、「理解不能」で触れています。

この「報告」は、建築に係わる多くの方がたに特有の、言わんとすることがよく分らない文章でした。
  たとえば、アート色とは何だ、art とは違うのか同じなのか、一体何なのか?
  「注目された人間性」って何?
  「建築と人々の『共通基盤』を再発見する・・」って何?
  今まで、建築と人びとはどんな関係にあると思っていたの?・・・などなど

そして、「根本から、0から見直した」結果が今回の展示なのだとすれば、何ら「見直し」がなされていないのではないか、単にこれまでと「目先」が変っただけなのではないか、と私には思えました。
なぜなら、根本から見直したのならば、それを展示するなどということに至るはずがないからです。
まして、「ここに、建築は、可能か」などとは言わないはずです。言えないはずです。
メールにある「・・・施主(市民)は、今流行りの一『建築家』の思惑通りに動かされているだけ、つまり、施主を含めて『作品』の一部にされてしまっているだけ・・・」という「指摘」は実に的を射ているのです。[文言追加 18日 7.17]
私には、黙々として、外からの「評判」など一切気にせず、今なお支援活動を続けておられる多くの無名の(名が広まることなどは無用と考える)方がたに対して極めて失礼な行動に見えてしかたがありませんでした。[文言補足 18日 10.07]
「ここに、《建築家》は、要らない」のです。

かつて、私が、学生の方がたに必ず最初に言ったのは、建物の設計は、設計者の(個性)表現のための造型制作ではない、ということでした。
建物の設計で、設計者が名前を表わす必要はない、と私は思っているからです。ただ、責任をとるだけ。

冒頭のメールにあるように、私たちが、「素晴らしい」と思う古の建物や街並みを、誰が設計した、などと問いますか?まして、誰それの設計だからいいんだ、などと思いますか?

私が「設計したのは誰だ」と知りたくなるのは、ここをどうして、何を考えてこうしたのだろう、と気になったようなとき。
それは大工さんかも知れず、建て主さんかも知れません。そしてその誰もが、生前に、俺がやった・・・などとは語ってくれてはいません。だから、通常、それが誰だか分りません。
これはかつての「専門家」の間では、あたりまえだったように思います。
その極めつけは、「地方巧者」ではなかったか、と私は思っています。

むかしむかし、芸術系の大学の建築教育は、工学系の大学のそれとは異なり、もっと art 的、design 的な側面が全面に出るべきではないか、と問う学生がいました。
私は、art や design の語を説明するのではなく(それをやっていたら時間がかかり面倒なので)、次のように問い直しました。
「あなたは建物をつくる専門家になりたいのでしょう?」
学生「そうです」
私「建物をつくる、ってどういうことかなぁ」
それで終り。

私は、「建築家」や「建築評論家」・・・を任ずる方がたに、同じように訊ねたいのです。
建物をつくる、ということを、どのように考えておいでなのですか、と。

補足・「日本家屋構造」−4・・・・小屋組(その1)

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出桁の例 垂木 3.5×3.5/2寸 出桁および母屋 4.5×4.0寸 
口脇を大きくして、垂木が出桁・母屋の全幅に載るようにしている。大工さんには邪道!と言われました。
垂木、破風板の先端を、直角ではなく、下端を少し手前に引いて切ってあります(直角の線に対して 7/10勾配)。垂木には鼻隠しを設けてあります。
直角だとブツンと切れて無愛想になりがちですが、こうすると見えがかりが安定した感じになるようです。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「日本家屋構造」の小屋組の項を紹介してきましたが、右と思えばまた左・・という具合に話が融通無碍に飛ぶので、分りにくかったかもしれません。
そこで、茨城県事務所協会主催の設計講座で使ったテキストから、小屋組について私なりにまとめた部分を編集しなおして転載します。
長くなりますので、2回に分け、今回は束立組(和小屋組)、登り梁方式、次回にトラス組と合掌方式についての部分を載せることにします。
なお、テキスト中に註書きがありますので、特に補註は付けません。














補足・「日本家屋構造」−5・・・・小屋組(その2)

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丸鋼を引張り材に使ったトラス組の例。
今回の末尾に、この部分の設計図(断面図)を載せてあります。
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

[2日 10.25 リンク先追加][2日 18.05 文言追加]

前回に続き、設計講座のテキストから小屋組の残り:トラス組と合掌組の解説部分を転載します。


ここで引用させていただいている書物は、彰国社から出ていた「木造の詳細」。構造編、仕上編、住宅設計編の全3冊からなっています。初心者には大変分りやすかった。
私が参考にしたのは、現在の法令規定前の出版。現在、どのように変っているのか(出版されているのか、も)不詳です。
次は、その書から、詳細図と部材の標準的寸法と仕口の部分の抜粋です。



木造トラス組の実例は、最近の建物では少ないようです。
以下に、明治期の建物で使われている木造トラス組を紹介します。
一つは学校、もう一つは銀行の建物。
いずれも「修理工事報告書」から転載、編集させていただいています。









次に、筆者が関わった木造トラス組の設計例と海外の現代建築の事例。
上の2例:小学校と幼稚園は、いずれも丸鋼を引張り材に使ったトラス組です。
下段は、この設計のヒントになったヘイッキ・シレンの教会の建物。トラスの話のときに紹介したと思います。
   なお、トラス組の生まれた謂れについて、「建築学講義録」に、構造力学を用いない分りやすい解説があります。
   構造力学の誕生前からトラス組はあったのですから、このような解説が為されて
   当たり前と言えば当たり前な話なのです・・・・。
   今の構造の専門家に、こういう解説はできるでしょうか、はなはだ疑問です。
   下記をご覧ください。[2日 10.25 リンク先、文言追加][2日 18.05 文言追加]
   トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術−3
以下は、上のカラー写真の小学校の木造トラス組の詳細図(部分)。
上段左側の写真を拡大したのが冒頭の写真です。
梁間は7,200mm。約4間。トラスは各所共通です。


他の海外の事例をいくつか紹介します。
日本では、張弦梁などの事例は多く見かけますが、トラス組の事例は少ない。


   戦後、日本でつくられた(と考えられる)木造トラスの事例を下記で紹介しています。[2日 10.25 リンク先追加]
   みごとなトラス組・・・・尾花沢・宮澤中学校の旧体育館

次いで、トラス組の一と考えられる合掌組について。




以下は、テキストのまとめの部分。西欧の小屋組の事例(断面)をいくつか。


最後に付録。冒頭の写真の部分の設計図。
この建物は、RCの躯体に小屋は木造トラス組、屋根の仕上げは瓦葺です。


次回は「日本家屋構造」本体の紹介を続けます。

この国を・・・・32:「ほっとく・・・」

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手入れをさぼった草叢に埋もれているムラサキシキブ。近くの木々のてっぺんでは、モズがけたたましく啼いています。
モクセイも花をつけだしました。
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10月8日付毎日新聞朝刊「風知草」は、以下の内容とも関連すると思われる論説でしたので、末尾に転載させていただきます。標題は「映画『東京原発』再び」。
その文の終りにあった言葉。
「人間、終わったことには関心がない。3月11日は終わらないという自覚が重要だ。」
私は、この映画「東京原発」の存在を知りませんでした。[追加 8日 17.39]
更に追加。東京webから今日のコラム「筆洗」。[8日 20.30]
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たまたま見たニュースの一画で、福島の女子高生が、現在の「福島の状況」について「要約」としてまとめた言葉、それは「ほっとかれてる・・」でした。
これはきっと福島に暮す方がたに共通の「思い」に違いありません。
   「ほっとく」とは「ほうっておく」の簡略:訛りです。
同じニュースで、自宅の「除染」をされていたご夫婦が、除染しても、取除いた土を自宅の一角に埋めておかなければならず、それがまたストレス。いっそのこと「国会議事堂」の前に置かせてもらいたい、と話していました。

聞くところによると、自民党の総裁選挙で候補に立った方がたで、東北を「遊説」しても、福島を訪れた人はいなかったそうです。
そう、福島は「ほうって おかれた」のです。

原発の更なる再稼動を希求する「経済界」の方がたは、そうしないと「国民」生活がマヒするかの発言をされています。
そのとき、福島に暮す方がたは、この方がたの言う「国民」に含まれているのでしょうか。そういえば、この方がたで、福島の地を訪れたという方もいないようです。
やはり、福島は「ほうって おかれて」いるのです。

この方がたには、一部の人びとを踏み台にして、他の人びとが生きればいいのだ、という「思考」(これを思考と言うかどうかは別にして)がある、としか考えられません。
福島・三春に在住の、僧侶であり作家でもある 玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)氏が毎日新聞で次のように語っています。
「・・・原発所在地と郵便番号の関係を知っていますか。
全国54基のうち39基の所在地の郵便番号は[9]か[0]から始まる。
つまり、[1]で始まるこの国の中心・東京から最も遠い場所に、ほとんどの原発がある。
・・・この国の構造そのものに由来する根深い問題です。・・・」

「脱原発」を言うのは、精神論、感情論だ、という「言説」が、相変わらずあるようです。「理性的」でない、とでも言うのでしょう。
しかし、そういう言説を唱えることこそ non-scientific で non-logical に、私には思えます。それこそ、理性的でない。

「王様は裸だ」と、こともなげに言ったのは子どもでした。
何のことはない、見たこと、感じたこと、思ったことを、そのまま言ったに過ぎません。
しかし、大人も見て知っていたはずなのに、言わなかった。言ってこなかった。
このとき、子どもは「感情的」で、大人は「理性的」だったのでしょうか?
単に、大人は「『利』性的」だったに過ぎません。

各地域で生じた「高濃度の放射性廃棄物」、簡単に言えば除染したゴミの処分場を、生じた地域ごとに、具体的には各県単位に設けるのだそうです。地域のことは地域で、というわけです。
今、その具体的な処分場用地の公表の仕方が問題になっているかの報道が為されています。
そうではないでしょう。
地域のことはその地域で・・・、というのは一見すると「合理的」に見えます。
しかしその「策」が、この「問題」に対してのみ採られるのは、決して合理的ではありません。
先の玄侑氏の言われたことを考えれば、その不合理・非合理が明らかです。
もっと端的に言えば、ご都合主義。誰の?「利」を得る方がたの。
その点を論じなければ報道機関として「失格」ではないか、と私は思います。
この論理が一貫しないやり方を、えらい方がたは、それこそ一貫して続けてきて今に至っているのではないでしょうか。
ここは一つ、国民の生活を心配しておられる経済界や政界の方がたの出番ではないでしょうか。
放射性廃棄物を自ら引き取り、国民の不安の解消をはかる、それをお得意の「ビジネス」にしたらいかがですか。
   もっとも、そうすると、どこか他国へ安全だと称して捨てかねない。今のえらい人たちの考え方では・・・・。
しかし、原発建設を推進してきた自民党も、それを支えてきた経済界も、だんまりを決め込んでいる。現政権にその責を負わせて知らん顔している。さらに、現政権自体、「信念」が失せている。
結果として生じるのは、「国民」、特に福島および周辺の「国民」の負担と困惑。
原発事故直後の、「福島県に暮す人びとは、本当に日本国憲法の下に保護されているのか?」というある町の町長の言は、今も活きている、私はそう思っています。

もうひと月も経ってしまいましたが、九月の初めの東京新聞に「言いたいことを言うのは権利だが、言わねばならないことを言うのは義務である」と論じた社説が載っていました。
王様は裸だ、と言った子どもは、権利と義務を行使したのです。しかし、大人は?
その社説を以下に転載します。


毎日新聞 10月8日朝刊所載「風知草」
  
東京webから今日のコラム「筆洗」を転載します。

まったくうんざりします。

この国を・・・・32の続き:「ほっとく・・・」:その2

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「日本家屋構造」の紹介の続きが難航しています。図が難解なのです・・・。

その合間に読んだ今日の毎日新聞夕刊に、今話題になっている映画「希望の国」の監督、園 子温(その しおん)氏へのインタビューが載っていました。
先回、「この国を・・」で触れた「言わねばならないことを言う」義務をみごとに語っていました。
そこで、前回の続きを。

インタビューの中の一節。
   

いまのところ、毎日jp には載っていません。
全文を以下に転載させていただきます。
小さすぎて恐縮。拡大して読んでください。



「日本家屋構造」の紹介−14・・・・縁側、その各部の構造

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今回からは、家屋:建物の各部の詳細の解説になります。 

はじめは縁側各部の納め方。全部で四項あり、途中で切るところがありません。
それゆえ、今回は一度に全項紹介しますので長くなります。

縁側は、いまや珍しい存在になってきました。
しかし、つい先日まで、日本の住宅には、縁側があるのはあたりまえでした。
  なお、「日本建築辞彙」の縁側の解説は、以下のようになっています。
  縁側  建物の外方の板敷なる所をいう(英 Veranda. 仏 Ve´randa. 独 Veranda ) 。
  また、縁側の謂れなどについては、別途、補足で説明することにします。 

第一 縁側の仕口
第四十四図の図の甲は、縁側の各部の構造を示した図。
縁側は、柱(縁柱、縁側柱)、框(かまち 縁框 とも呼ぶ)、無目(むめ)、一筋鴨居(ひとすじ かもい)、束(吊束、釣束)、そして縁板から成る。
   註 この解説は、未だガラスが使われていない頃の縁側について述べています。
      前記の「日本建築辞彙」の解説も同様です。
      この頃の縁側は、昼間は外気に曝されていました(風雨のとき以外)。
      西欧語の Verannda は、そのような場所を言います。
      明治末、大正に入ると、柱の通りに新たにガラス戸が設けられるようになります。 
      その際は、無目に溝が彫られて鴨居になります(無目とは、目がない、つまり溝がない、という意です)。
      この場合は、 Sun Lounge(英), Sun Parlor あるいは Sun room(米)が相応しいかもしれません。

      また、柱の上部の桁に丸太を使っていますが、角材も可能です。
      丸太を使うのは、武家住宅以来の一種の「流行・様式」と考えてよいと思います。
框の上を雨戸を滑らせるため、外側に7〜8分の縁:樋端(ひばた)を残し溝を彫る。溝の幅は8分〜1寸、深さは2分とし、溝の底には樫の板を埋め込む。これを埋樫(うめ がし)という。
   註 溝の幅は、雨戸の見込:厚さによります。
      現在は見込1寸:30mm程度、戸の下部を一部削りとり溝に入る部分を7分:21mmとするのが普通かと思います。  
      往時は、戸をすべて溝に入れる方法が普通で、これをドブと呼んだりしています。
      溝幅に往時と違いがあるのは、加工道具の違いによるものと考えられます。
      埋樫は敷居の磨耗を防ぐためのもの。
      埋樫のいわば代用品がいわゆる敷居滑りです。

縁板は、榑縁(くれ えん)とし、幅3〜4寸×厚7〜8分、傍:接する端部は合决り(あい じゃくり)に加工し、合釘(あい くぎ)、落釘(おとし くぎ)、あるいは手違鎹(てちがい かすがい、手違と縮めて呼ぶことがある)、目鎹(め かすがい)などで根太上に張る。
   註 榑縁  縁側の長手に沿って板を張った縁側を言う。
           寺社や古代〜中世の建物では、短手に厚板を張り、これを切目縁(きりめ えん)と呼んでいます。
      合决り 二材の端部を互いに逆向きのL型に加工し、合せる継ぎ方。
      合釘  両端を尖らしてある釘。
      落釘  下側になった合决り部分に打つ釘。普通の釘。
      手違鎹 両端の爪の部分の向きが、直角になっている鎹。
      目鎹  図のように、片側が爪、他方が平になって釘孔がある鎹。
           爪を板に打ち込み、平部分に釘を打って根太に留める。
      現在の縁甲板は、一端部を凸型に、他端を凹型に加工しているのが普通。
      突起部分を実(さね)と呼ぶ。実継(さね つぎ)。あるいは本実継(ほんざねつぎ)。
      この場合は、凹部に釘を打ち(落釘)、次の材の凸部を凹部に嵌めて張ってゆく。
      なお、合决りで、手違鎹、目違鎹で留めた往時の縁は、材の乾燥にともない、金物部分がきしむようになる。
      鴬張りという呼称は、そこを歩行する際に生じる音からつくられた語。
無目は幅は柱の幅の9/10、厚さを1寸8分〜2寸程度とし、一筋鴨居は、幅2寸2分、高さ2寸程度、溝幅は8分、深さは6分として、無目と一筋鴨居との仕口は印籠嵌(いんろう ばめ)とする。
   註 印籠嵌 印籠継ともいう。前註の実継の別称。
図の乙は釣束(つりつか)。束の下部、無目との仕口は篠差蟻(しの さし あり)とする。図の丙は篠差蟻のために彫る孔の形を示す。
篠差蟻とは、図丙のように、蟻型のすべてが入る孔を彫り、その両端に細い溝を切り、 束を嵌めた後、その溝から、篠(しの):薄い板状の竹を蟻型と孔との隙間に差し込む方法をいう。
   註 篠は堅木でもよい。 
図の丁は、縁桁に釣束を取付けるときに用いる仕口で、地獄楔(ぢごく くさび)という。手摺子(てすり こ)などの取付けにも適す仕口である。
   註 これは、現在は、一般に地獄枘(ぢごく ほぞ)と呼んでいると思います。
地獄楔とは、普通の平枘の先端の左右に図のように鋸目(のこ め)を入れ、これに小さな楔を嵌め、枘孔は蟻型に刻み、そこに枘を打ち込む。そうすることで、枘の先が孔の中で蟻型に広がり、束が抜けなくなる。
この枘を使うにあたっては、枘孔の形と枘の開きの間係に留意する必要がある。
   註 一旦取付けた地獄楔は、取外すことはできません(壊すしかありません)。
      この方法は、増築などで、繋ぎ梁を既存の桁・梁に取付ける場合などに用いられます。
      また、切石の礎石に独立柱を立てる際、礎石に末広がりの枘穴を穿ち、柱の根枘を地獄枘にすると、
      金物なしで、柱を礎石に堅く結びつけることができます。
    
次は縁桁の仕口
以下に紹介されている縁桁の仕口は、桁の交差する隅の部分。
普通、この部分は合欠きで組まれます。
しかし、交差した桁材の上には、隅木が載ります。それゆえ、桁の高さ寸法が小さな場合には、合欠きの上に彫られる隅木のための欠き取りによって材が薄くなり、折れてしまう可能性が大きくなります。
そのような場合の工夫として捻組という手法が発案されています。この点については、「日本家屋構造」では小屋組の最初に触れています。下記を参照ください。
  「日本家屋構造の紹介−10・・・・小屋組:屋根をかたちづくる(その1)

捻組も造れない、造っても折れてしまう場合の対策法が今回の仕口です。
これは、言ってみれば、実際は材が交差していないが、交差しているように見せかける方策です。

以下に原文を紹介します。
ただ、この図解は、私にはよく判らないところがありますので、とにかく先ずそのまま現代語に直します。

第二 縁桁の仕口
第四十五図甲は、縁桁の丸木(丸太)を組み合わせた姿図で、これを掛鼻(かけ はな)という。
乙は、図の甲の右側の桁を表わしたもので、下木(女木)になる。この材の木口(こ ぐち)に平枘を造りだし、さらに図のように長手に孔を彫り、シャチ栓の道を刻む(その結果、木口に2本の突起が残る)。
図の丙は、その鼻木(はな き)となる材で、掛鼻(かけ はな)と呼ぶ(注 端になる木、すなわち鼻木)。
この材には、(材の右側に向って)枘を造りだす。この枘を竿(さお)と呼び、根元は重枘(じゅう ほぞ)のごとく造り、図の丁の材(これは、図の甲の左側の材)の直径ほどの距離をあけたところからその幅を広め、シャチ栓の道を刻む。
このように造りだした竿を横にして丁の材の孔の内を通し、乙の材に差し合せ、シャチ栓を仮打ちし、乙、丙の材を引きつけ(注 栓を打つとに材が引き寄せられる)丸身に馴染ませ(注 丁材の丸身に馴染ませる意、と思われる)シャチ栓を本打ちする。
この場合、柱枘の上半分以上はわなぎ枘となるゆえ、上端から割楔で固める必要がある(注 図の甲で、交差部の上に見える2個の方形は、わなぎ枘の上端と思われる)。
   註 わなぎ枘については下記参照。
      「日本家屋構造の紹介−11

      この「解説」と「図」によると、
      丙の材すなわち鼻木を丁の材に通すためには、丙を右に90度回さないとなりません。
      当然、丙を差し合せる乙の材も同様にします。
      そのままでは、竿の部分は、右側(図では外側)にあります。
      さらに、そのままでは柱の枘が竿に当たるはずです。
      つまり、柱の上に載せるために、丙+乙の材を、元に戻す:左に90度回転させることになる。
      ということは、竿が丁の孔の中で回転するということ。
      該当部分は竿の細い部分とは言え、それは可能か?
      これが私の第一に判らない点。

      次に、仮に、このような手順であるとすると、まず初めに桁を組んで交差させ、次いで柱に載せる段取りになる。
      この段取りでは、鼻の部分が、作業中に折損する可能性が高い。
      第一、それでは掛鼻にする意味がないのではないか?
      私の理解してきた掛鼻は、いわば最後の工程で化粧のために後付けるもの。それゆえ判らない。
      これが私に第二に判らない点です。
      ことによると、以上の私の工程の「理解」は、誤りかもしれません。
      どなたか、このような刻み、あるいは丸太桁で掛鼻を刻んだ方が居られましたら、
     是非ご教示いただきたいと思います。

      なお、掛鼻手法は、鎌倉時代以降の寺院で、木鼻(き ばな)の取付けで発達したようです。

次は、縁框と一筋鴨居の継手と仕口について

第三 框および一筋鴨居の継手
第四十六図の甲は、縁框の隅の仕口、隅留二枚枘差(すみとめ にまい ほぞさし)の図解。
図の襟輪欠(えりわ かき)は、取付く柱幅に同じ。柱へは太枘(だぼ)を打ち、さらに手違鎹などをあわせ用いて取付ける。
   註 図甲の欠き込みを襟輪と呼ぶのかどうか?
図の乙は、縁框の継手の一例。箱目違(はこ めちがい:L型やコの字型の目違い)を設け
片方の材に枘を造りだし、枘部分を柱に大釘で打ち付け、そこへ他の材(図の左側の材)を嵌め合わせる(継目は、柱の芯位置)。
さらに丁寧なつくりは、図の丙のような箱目違い付竿シャチ継とする。
なお、図の丙は、一筋鴨居の継手の例である。
框、一筋鴨居の溝の深さ、幅などは、第一 縁側仕口で触れたとおり。
   註 ここに紹介・解説されている方法は、現在ではほとんど見かけないきわめて丁寧な仕事です。

縁側の解説の最後は切目縁とその板の張り方について。
切目縁も、今や都会では、絶滅危惧種になっています。

第四十七図の甲は、切目縁を示す図。雨戸の外側の濡縁に使われることが多い。
板の厚さは8分以上1寸以下ぐらいとし、板の角には、図のように敷居際から2〜3寸ほどのところまでは大面(だい めん、おお めん)を取る。
縁先で板を受ける(縁)框:(縁)桁は、その外面(そと づら)が、板の木口から板の厚さの1.5〜2倍くらい内側になるように設け、板の建物側への取付けのために、板掛けを柱に打ち付ける。
框:桁を受ける束は、図の乙のように頭部に蟻型を刻み、框:桁を落とし込む。
板の長さの中央に、幅1寸〜1寸4分角で厚さ2.5〜3分ほどの堅木製の太枘(だぼ、だほぞ)を立て(註 参照)、合釘・落釘・手違鎹などで(框・桁、板掛けに取付けて)張る。
   註 この太枘は、ちぎりのことか?
      どなたかご存知の方、ご教示ください。
      ちぎり
      板を矧ぐとき、相互を確実に接合させるために埋め込むバチ型などをした材をちぎりという。
      なお、板相互の不陸:凹凸が生じないように、板の裏面に吸付桟(すいつき ざん)を設ける丁寧仕事もある。
      木製のまな板の脚はこの方法で取付けてある。
図の丙、丁、戌、巳は、各種の板の張り方を示した図。
丙:敷目板張(しき めいた ばり) 継目部分に目板を設ける張り方。
丁:入実張(いれ さね ばり) 継目に雇いの実板(さね いた)を入れる張り方。 雇実(やとい さね)とも呼ぶ。
戌:本実張(ほん さね ばり、ほん ざね ばり) あらかじめ板に実:突起部を設けておく。現在の縁甲板はこれ。
巳:合决り張(あい しゃくり ばり、あい じゃくり ばり) 第一項に説明あり。

長くなりましたが、本書の縁側の解説は以上です。

閑話・・・・鐘楼 と 釣鐘 の 関係について : 一枚の写真から

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本棚から「岩波写真文庫 12 鎌倉」という写真集が出てきました。
写真集と言っても、B5判60頁ほどの小冊子に近い書物です。下の写真はその表紙。



「岩波写真文庫」は、1950年代から60年代にかけて、多分300冊ほどは刊行されたと思います。全ページが写真、中には今やきわめて貴重なものもあります。
   註 調べたところ、1958年まで、286冊刊行されたとのことです。
      最終巻は、「風土と生活形態」、どこかで探してみたい![註記追加]
因みに、一冊の価格は100円!。私は30年ほど前、古本で500円で買いました(そのとき、「日本建築辞彙」の昭和4年版も同じく500円だった!?)。

表紙はどれもこういうスタイル。どこかで見た方も居られるでしょう。  

その中にあったのが次の写真です。 



鎌倉の東南、由比ガ浜・材木座を挟んで長谷寺、鎌倉大仏のいわば対岸に位置する光明寺の鐘楼だそうです。
この写真集は1950年8月が初版ですから、写真はそれ以前、敗戦直後の撮影と思われます。

釣られているのは梵鐘ではなく、大きな石、と言うよりも岩が 数十個・・・。 
解説に次のようにあります。
   ・・・鐘は弾丸に化けたのか、石が下がっている。そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ・・・。

だいぶ前に、奈良時代につくられた東大寺大仏殿は、平安時代末に焼き討ちされるまで何回も地震に遭っていますが、軒は波打っても、壊れることなく建っていたようだ、と下記で書きました。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術−12・・・・古代の巨大建築と地震
その中で、鐘楼の釣鐘が「地震で落ちた」という記述が何度か史書に出ていることを紹介しています。他の建物に被害はなく、ただ、鐘は、頻繁に落ちたようです。

釣鐘の代りに巨石群を釣ってある光明寺の鐘楼の写真を見て、
そして「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」という一文を読んで、
なぜ、東大寺では、大仏殿などの建物は壊れずに釣鐘は落ちたのか、
私は深く考えていなかったことに、あらためて、気付かされました。

きわめて重い梵鐘の釣られている鐘楼は、普通、四本の柱で屋根を支え、その梁から鐘を釣っています。
当然、現代の木造ではありませんから、鐘楼は礎石上に置かれているだけです。
現在見かける鐘楼は、ほとんど、四本の柱のそれぞれが独立の礎石に立っています。

しかし、現在東大寺にある鐘楼(「しゅ ろう」と読むそうです)は、鎌倉以降の再建で、下の写真のような姿をしています。
柱の下に、土台のような材があります。しかしこれは、いわゆる土台ではなく、柱を貫いている地貫(ぢ ぬき)。地貫は四角い枠を形成し、その隅部の上に、四本の柱が、いわば跨って載る形になっています。

   

   なお、現存の東大寺鐘楼の詳細については、下記をご覧ください。地貫の工法についても触れています。
      「東大寺鐘楼
      「東大寺鐘楼−2

先の光明寺の鐘楼の写真では、脚部が大きく写っていませんが、辛うじて見える右側の脚部の様子から、やはり地貫があるように見えます。

1) 一般に、地震があると、地面の上に在る物体は、いかなるものも、物体が元あった所:位置を維持しようとします。
   いわゆる「慣性の法則」です。
   それゆえ、地震で地面が右へ動いたからといって、物体は元の位置に留まろうとしますから、
   物体は地面と同時に右へ動くとは限りません。ダルマ落しがその一例です。
2) また、地面が上に動いたからといって、物体が地面と一緒に上に動くわけでもありません。
   その場合は、物体は元の位置を保とうとしていますから、地面の動きにより、強い衝撃を受け、跳び上がるでしょう。  
   逆に地震で地面が下へ下がると、物体は一旦地面から離れ宙に浮いた形をとり、次いで落下して、
   そのとき強い衝撃を受けるでしょう。

しかし、1)の場合、まったく地面とともに動かない、と言うわけではありません。
物体と地面がどのような関係にあるかによって、挙動は異なるはずです。
たとえば、物体が地面に強く拘束されているならば、物体は地面の動きのままに動くでしょう(現在建築基準法で奨められている木造建築はその一例です)。
物体と地面との間に生じる「摩擦」も拘束の一つです。
また、地面に埋められた礎石は、埋め方によっては、摩擦どころか、ほぼ、地面と一体になって動くでしょう。もちろん、掘立て柱も同様です。

物体が軽いか、地面が平滑だったならば、ただ物体が置かれているだけであれば、物体は、いわば地面の上を滑るような、逆に見れば、地面の方が勝手に動いたような状景を見せるはずです。建物の場合でも、相対的に軽ければ、そういう現象が起きると思われます。
   阪神・淡路大地震のとき、淡路島で布石に土台を据えた家屋が横滑りした例をいくつも見ました。下記参照。
実際の地震では、2)のような事象は滅多に起きず、1)と2)が同時に起きます。そのとき、地面に置かれただけの物体は、あたかも跳んだように別の場所へ移動することも起きるでしょう。地震が与えた衝撃で跳んでしまうのです。
   この実例を、阪神・淡路大地震の際、西宮駅の近くで見ました。下記参照。
   「地震への対し方−1・・・・『震災報告書』は事実を伝えたか
   「地震への対し方−2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと
鐘楼の建物は地面に置かれているだけですから、地震があると、その状態を維持して(維持し続けようとして)、地面の方がいわば勝手に動く筈です。
とは言っても、まったく地面の揺れと無関係というわけにはゆきません。
礎石は地面に据えられています。したがって、地震に際し、地面なりに動くでしょう。
柱:建物は礎石の上に置かれているだけですから、地震の際、礎石の動き=地面の動きとまったく同じには動きません。地面が勝手に動きます。
しかし礎石と柱の間の摩擦、あるいは地面の縦揺れには無関係ではあり得ませんから、地面の揺れとまったく同じではないにしても、地面に追随して一定程度は揺れ:変動を生じるはずです。
掘立て柱の時代に代って礎石の上に建てるようになった古来の日本の建物では、地震のときには、常にこのような挙動を生じたはずです。
   ただ、その建物の挙動の様態を算定する一定則はありません。置かれている様態によって異なるからです。
   つまり、礎石の様態、置かれ方の様態、重さの分布・・などで、事例ごとにまったく異なります。
   一定則を設定するには、実際の様態を「理想形」に「変形」する必要が生じます。
   しかし、何をもって「理想形」とするか、これは難題です。あまりにも様態はさまざまだからです。
   そこで、この様態の実体に「まともにつきあう」ことを止めてしまった、
   これが、日本で、古来の木造建築の「解析」が行なわれてこなかった理由であろう、と私は考えています。
   一方で、大工さんたち工人は、その「解析」を、身をもって、つまり「経験・体験」で行なってきたのです。
   これを、学者は、「非科学的」だ、と言って批難してきました。これが日本の学者の世界です。
   蛇足:私は、そういう学者の世界こそ non-scientific と言ってきました。


では、鐘楼に釣られている梵鐘と鐘楼とは、いかなる関係にあるのでしょうか。

釣鐘は鐘楼に釣られています。いわば宙に浮いていますから、地震があっても地面の動きとはまったく無関係、元の位置を保ち続けようとするでしょう。唯一、鐘楼にロープで繫がっている。
鐘楼の重さは巨大です。もしかすると、鐘楼そのものと同じか、それ以上の重さがあるでしょう。
この釣鐘の重量は、釣っているロープを経て梁などにかかり、最終的には四本の脚を経て地面に伝わります。
もしも鐘楼の柱が掘立てならば、軟弱な地面ではもぐってしまうかもしれません。そうなることを避けるには、地形(地業)を確実に行い、底面の広い石を用いた礎石建てにする必要が生じるでしょう。

おそらく、古代の東大寺の鐘楼も、そういう大きな礎石を据えて四本の柱を建てていたと思われます。
そしてまた、古代の鐘楼の小屋の架構は、他の東大寺の建物と同じような架構法だったのではないかと思います。
   古代の東大寺大仏殿などの架構法は下記等をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開−8

このような礎石上の四本の柱で支えられた鐘楼は、建物自体と釣鐘の重さによって、おそらく柱は礎石に喰いこむような様態を呈していたと思われます。
そういう状態の鐘楼が地震に遭ったらどういう挙動を生じるでしょうか。
鐘楼は、地面に喰いついてるような状態ですから、地面の動きに追随して動く、動かざるを得ない、と思われます。

一方、釣られている釣鐘の方は、追随はしません。極力、元の位置を保とうとするはずです。
この両者の挙動の違いはきわめて大きなものであった、と思われます。
それゆえ、傍からは、大げさに言えば、釣鐘は動かないで、まわりの鐘楼が激しく動き、それに引きずられて釣鐘の頂部:ロープの取付け部が揺さぶられる光景を見たのではないでしょうか。そして、その挙動の差が過大になったとき、釣っていたロープが切れ、あるいはロープを取付けてあった梁が折れ、鐘は落下した、そのような状況になったのではないか、と思われます。

では、大仏殿はなぜ壊れなかったのか。
おそらくそれは、建物が巨大で重かったからです。唐招提寺の拡大コピーのような架構でも、巨大ゆえに壊れなかった・・・。
たしかに大仏殿の総重量は巨大ですが、独立の礎石に載っている柱は、大仏殿の場合、裳階まで含めると総数92本あります。それゆえ、1本の柱が支える重さは、鐘楼のそれに比べ、圧倒的に小さい(正確に計算したわけではありません。いつか試みてみようと思いますが、この判断は復元図を見ての勘です)。
ということは、礎石:地面との摩擦は少ない。つまり、地面に拘束される割合が小さい。ゆえに、地面が揺れても追随しない。建物の重量が巨大ゆえ、建物は現在位置を容易に維持しようとするのです(慣性の大きさは、重さに比例します)。
結果として、同じ架構法の大仏殿は壊れずに、鐘楼は壊れてしまい、釣鐘が落ちてしまった・・・。
というのが私の解釈です。
   江戸時代に、西本願寺など巨大な建物がつくられていますが、それらもまた、地震で被害を受けていません。
   もちろん、壁は少なく、地面に置かれているだけで、耐震診断をすると補強が求められる建物群です。
   なぜ被害を受けないのか。
   私は、架構法もさることながら、その総重量に理由があると思っています。特に、瓦の重量。
   重い瓦は地震に弱い、というのは人為的神話の類、と私は思っています。
   これについても、先の「地震への対し方−2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」で触れたと思います

では、建立以来たびたび見てきた釣鐘の落下から、工人たちは何を学んだか。
それが、再建東大寺の鐘楼に使われた地貫だったのではないでしょうか。より正確に言えば、貫で組んだ構築物は堅固な立体:箱になること、すなわち貫工法そのものの原理を学んだのです。

つまり、鐘楼と釣鐘の重量を、四本の柱の柱脚部にのみ集中させず、地貫のつくる方形の枠全体に分散させたのです。そうすれば、地面と建物との間の摩擦が格段に小さくなり、地面の動きへの追随も小さくなるからです。しかも、鐘楼全体が堅固な立体:箱になっている。
そうであれば、鐘楼は、地震に遭っても、形も位置も維持し、梵鐘もそのまま。
もしかしたら、鐘楼の下で、それこそ、地面が勝手に右往左往、上下するような光景を呈したかもしれません。
そのとき、この光景に大きく「貢献した」のが、梵鐘の重さだった、と考えられます。慣性の力を大きくしているからです。
つまり、工人は、梵鐘の重さを、単なる「負荷」:余計な重さ:とは考えなかった、のではないでしょうか。
   現在の構造の考え方では、おそらく「負荷」と考えると思います。

岩波写真文庫の説明は、光明寺の鐘楼で、没収された梵鐘の代りに岩石群を釣っているのを、「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」と書いています。
このような、鐘を没収されてもそのままにせず石を釣るという判断をなさった方は、大仏様を引継いだ鐘楼のつくりかたの原理を知っていたからなのではないか、と私には思えます。

以上は、一枚の写真を見ての、まったくの私の勘による事象の解釈です。
どなたか、別のより妥当な解釈があれば、ご教示のほどお願いいたします。 

この国を・・・・34:不足

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原発事故は、風化し始めているように思えます。
咽喉もと過ぎれば熱さをわすれ、人の噂も75日・・・、
月日の過ぎ行くのをひたすら待っている人たち、一部のいわゆる経済人と政治家。

今朝の東京 web で見つけたコラム。
そのままコピーし転載させていただきます。
段落などを変え、そして、最後の一行、太字にさせていただきました。

筆洗 2012年10月27日

後藤貴子さん(50)が小学生になって初めて書いた詩は、たった三行だった。
  おかあさんはでぶです
  すこしやさしいです
  ときどきはらまちにつれていってくれます

後藤さんの母、門馬由利恵さん(75)は福島県の原町で育ち、隣町の小高で家庭を築いた。
患っていた認知症が一気に悪化したのは、原発事故で避難を強いられてからだ。
南相馬市小高区への一時帰宅が許された時、持ち帰ることが許されたのは、大きなごみ袋一枚分だけ。
母が持ち帰った物を見て、後藤さんは驚き、切なくなった。財布も服もない。入っていたのは、幼い娘が詩を綴(つづ)ったノートや、ちびた鉛筆…。
後藤さんは、四十年ぶりに母への思いを詩にした。
  渡されたゴミ袋一枚に
  母の優先順位はくるってる
  貴重品も大切にしてた着物も
  何も入れずに入らずに
  思い出さがすようなものばかり
  もう原町には行けないんだねえ
  何で認知症になったのかねえ
  なんで原発爆発したのかねえ
  母のひとりごと

原子力規制委が出した事故による放射能拡散予測を見て、慄然(りつぜん)とした人も多いだろう。
原発三十キロ圏内に住む人は四百六十万人以上。
政府と電力会社は、本当にその生活を守りきれるのか。
福島の事故では今も十五万人以上が避難生活を送る。
思い出と切り離されて生きるつらさ、むなしさ。
怖いのは電力不足より想像力の不足だ。

進行中の仕事

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今、現場が佳境に入っています。
現場は山梨県塩山の近く、かつて甲州と秩父を結んだ街道、雁坂(かりさか)峠の南側、「巨峰」の発祥の地と言われる牧丘。字のとおり、古代は牧だったらしい。[説明追加]
   秩父山地を囲んで、甲州、秩父そして信州・佐久には、よく似た養蚕農家があります。[説明追加]
私のところからだと、片道3時間半から4時間の場所。現場に居られるのがやはり3時間半から4時間。
現在、月に1〜2度現場に行き、あとはメールや FAX あるいは電話での打合せで進んでいます。昨日、金曜日、行って来ました。

つくっているのは30年前に建った知的残障者居住施設の増築。
敷地はかなりの斜面。
30年前は、辛うじて平らな部分を整地して建てましたが、それでも南側に約2mの擁壁を設けました。
今回は、そのさらに南側の斜面に建てることに。
   どういうわけか、斜面に建てる仕事が多い・・・・。

施設の性格上、極力、一層:同一平面:でありたい。
しかし、かなりの急斜面(元は、数段の段差のあるぶどう園)。擁壁で盛土は先ずあり得ない。地山をいじらずに使いたい。
幸い地山は、地表から平均1.2m下が厚いシルト質の地盤(はるか昔の火山灰の蓄積でしょう)。表土は、かなり手が入っている。[説明追加]
そこで、既存の敷地とほぼ同高の面を、鉄骨の架台の上につくることに。
要は、鉄骨に支えられた人工地盤。人工地面は、鉄骨架台上にデッキプレートを敷いて、RCのスラブをつくる。
その上に建屋をつくる。
建屋は、いまどき見かけないコンクリートブロック積み。保温材を使わなくても、保温性がいい。
CBの壁の上に、ふたたび鉄骨の小屋を架ける。これは軽量鉄骨。
全体を軽くすることで杭工事は不要になった。
   CB造:補強コンクリートブロック造:が塀専用のごとくになっているのは
   かねがね もったいないと思ってきました。保温性もいい。多分空洞があるからでしょう。
     ただ、開口のつくりかたは要注意。
   今回も、建築のブロック工を探すのに苦労したようです。建築ブロックの経験者がいない!

現在、人工地盤が仕上り、その上にCB積が進行中。
そこまでの過程を、写真でざっと紹介します。ただ、地形:根伐段階は省略。

先ず、鉄骨架台の建て方。
この方式に至るまでに、半年以上かかりました。
最初は、懸崖造を鉄骨でできないか、と考えたのですが、ダメ。いわゆるラーメン構造になり、エライことになってしまった。
木造のようにはゆかないらしい。なぜ木造は平気なのだろう??
そこで至ったのが、この方杖方式。方杖を四方に広げ、梁を受ける方法。
梁の受け方、方杖の受け方は、木造の柱頭などの方法の(特に古代の)原理を参考にしました。
設計図はいずれ紹介します。
   材寸などは増田 一眞 氏に示唆をいただいて設計図を描き、
   その妥当性を構造計算で確認していただきました。
   


建て方中。
梁が未だ架かっていないところがある。建て方は小さなクレーンで行なっています。
写真の正面、狭い箇所はスパン2.1m、広いところは5.6m。
亜鉛メッキが工費の都合でできず、グラファイトペイント防錆に変更。
この写真は、グラファイトペイント塗装前の段階。
鉄骨の脚部はコンクリートでくるむ。

以下は、グラファイトペイント塗装の終わった鉄骨架台の状態。
2枚の写真の奥の方に、既存の擁壁が見える。
人工地盤面は、ほぼこの擁壁の高さになる。
地盤面と地山:現状地盤:との落差は最大で7m弱。
この「床下」は高さがほぼ2階分あるので、確認申請審査で、竣工後ここを使用してはならない、と釘をさされています!

写真の箇所では、奥行スパンは、3.15m・2.1m・3.15m、計8.4m。
2,100mm(1,050×2、700×3)を基準寸法にしています。
   3.15m=2.1m×1.5。
   5.6 m=2.1m/3×8。[説明追加]



鉄骨の柱は8.5吋:216.3mm径の鋼管(厚1/3吋≒8.2mm)。
方杖は不等辺山型鋼(125×75)2枚あわせ、梁は溝型鋼(200×90)の2枚あわせ。
いずれも9mm厚のプレートを挟んで高張力ボルト締(昔ならリベット)。[説明追加]
大型のトラックが入れないので、小ぶりの材を現場で集積する方法を採っています。
メッキを施したデッキプレートは、形枠の代り。構造要素とは考えていません。
要は、いわゆるジョイストスラブ(繁根太床版)の形枠にデッキプレートを使う、という方法。
   最近は、デッキプレートを構造要素とする方法が盛んなようです。
   
下の写真2枚は、少し離れて見た姿。
銀色に見えるのは、地盤の端部に設けたフェンス。亜鉛メッキの溶接金網製。
風雨に直接曝される箇所のみ、溶融亜鉛メッキが施されています。[説明追加]




床下にもぐるとこんな具合。
上下水、電気等の配管がぶら下がっている。


次の2枚はデッキプレート上の配筋中の写真。



鉄筋が立ち上がっている部分は、CB積みの基礎になるところ。
スラブを打った後で、あらためてCBの立ち上がり筋をセットし、コンクリートを打つ。

CB基礎の打設も終り、現在CB積が進行中。CBは、B種150mm厚。
この写真で写っているコンクリート部分は、建屋の床下になる。床仕上り面は、CB基礎の天端。

CBの中途に見える空隙は、壁が交差する箇所。壁のCB積がすべて終わると、この空隙にコンクリートが充填される。

年内には屋根まで仕上がる予定。
以後の経過は、またの機会に紹介します。

補足・「日本家屋構造」-6・・・・縁側 考 : 「謂れ」について考える  

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試みに「縁側」を検索すると、最初に WIKIPEDIA の「解説」が出てきます。 
そこには、下記のように書かれています。
  縁側(えんがわ)は、日本の和風家屋に独特の構造で、
  家の建物の縁(へり)部分に張り出して設けられた板敷き状の通路である。
  庭等外部から直接屋内に上がる用途ももつ。
  欧風建築では、ベランダ、ポーチといったものが意匠的には似通っている。
  障子が、薄明かりの中でその向こうの人や風景を見えるような見えないような
  曖昧さの中に感じることが出来るのと同じように、内でもなければ外でもないという縁側に、
  空間を仕切る意識が希薄な日本家屋空間独特の曖昧さの構造を見る、という文化論も語られる。

「縁側」、それは「中間領域」である、などという論がありました。
これは、「外部空間」という《概念》が言われだされた結果、対語として「内部空間」という《概念》が語られるようになり、「縁側」はそのどちらに属するか不分明な領域である、というところから派生した《概念》と言えばよいでしょう。
   ただし、「外部空間」とは何を言うか、ちゃんとした定義は聞いたことがありません。
いろいろと語られた「外部空間」論(?)は、いわゆる「環境」:私の用語で言えば SURROUNDINGS :について語られるようになる契機になったことは確かですが、残念ながら、常に「結果についての論」でしかなかった、と私は考えています。
   たとえば、清水寺の参詣道が微妙に曲がりくねるのは、
   あたりの風景が「みえがくれ」することを意図している、
   などという「解釈」がそれです。
   このことについては、かなり前に、下記で書いてます。
      道・・・どのように生まれるのか
つまり、目の前に存在する(人為によって生まれた)モノを、「見かけの形についてのみ語る論」に終始し、それがなぜ「そういう形になっているのか」、すなわち「形の謂れ」を問う視点が捨て去られてしまうおそれがあるからです。「人為」の「中味」についての考察が抜けてしまうのです。
「空間を仕切る意識が希薄な日本家屋空間独特の曖昧さ・・・」という冒頭に転載した WIKIPEDIA の「解説・文化論」も、その類の「代表格」と言ってよく、昔から(あるいは昔の)日本の家屋には、縁側が付きもので、空間の仕切りがなかった、かの如き理解が為されかねません。おそらく、寝殿造あるいは桂離宮などが「真の日本家屋だ」などという理解が念頭にあるのではないか、と思います。
   和風の、という言い方には、片方に、洋風の、という語が隠れていますが、洋風という言い方は
   いわゆる「近代化」以後の話と言ってよいでしょう。
しかし、日本の家屋に、古より縁側があったわけではありません。
よくCMなどで見かける茅葺の農家の陽のあたる縁側で、作業をしたり茶飲み話にふける光景。こういうのを見ると、農家には縁側があるものだ、あるいは、必ずあった、と思ってしまっても不思議ではありません。
しかし、農家:農業を営む人びとの住まいに、昔から縁側が付きものであったわけではないのです。

当初の農家は、きわめて閉鎖的、極端に言えば、開口は出入口しかなかったのです。
現存最古と言われている農家は、室町時代の建設と考えられている兵庫県の古井家や箱木家です(古井家は当初の位置に保存、箱木家は直ぐ近くの地への移築保存です)。
東日本では、茨城県の江戸時代中期建設の椎名家が現存最古とされ、現地で保存されています。
   残念ながら、日本には、室町時代以前の住宅の遺構事例がありません。
   日本の建築史学で、住まいの歴史に関心がもたれるようになったのは、
   ほんの近年だからです(第二次大戦敗戦後と言って言い過ぎではないでしょう)。
   もしももっと以前から歴史学が住まい関心があったのならば、室町以前の事例も保存されたはずです。
   西欧の木造建築では、中世の事例がかなり遺されているようです。
これらの最古とされる事例は、復元考察の結果、建設当初はきわめて閉鎖的であり、縁側が設けられるのは、かなり後になってからのことが分っています。
このことを、架構の視点で触れたのが、これもだいぶ前の下記の記事です。
   「日本の建築技術の展開−24・・・・住まいの架構−その1」

しかし、閉鎖的であるのは、農家だけに限りません。
一般に、住まいは、「閉鎖的」であたりまえなのです。
これは、洋の東西を問わない、そして地域に拠らない、「住まいの原理」と言ってよいでしょう。
しかし、日本の貴族の住まい:いわゆる寝殿造などは全面開放ではないか、という疑問が生まれるかもしれません。
この点についても何度も触れたように思いますが、この「疑問」は、住まいをどのように理解するかに係っています。
いつの頃からか、建物を「物:モノ」として理解することが「常識」になってしまいました。したがって、「住まいをつくる」ことは、「住まいというモノ」をつくることであると「理解」し、そういう「理解」があたりまえだ、というようになってしまったのです。それゆえ「外部空間論」などという「論」が現れたのです。
   「モノ」づくりに邁進する現代の建築家の思考もこの「理解」が根にあるはずです。
   多分、彼らには「モノ」しか見えないのです。
しかし、ひるがえって考えて見ます。
自ら「住まい」をつくるとき、いったいどんな「モノ」をつくるでしょうか?何を考えて「モノ」をつくるでしょうか?
こういう問をたてても、ことによると、あんな風の「モノ」にしたい、和風がいい、イタリア風がいい・・・、などと考えるかもしれませんから、過酷な状態の場合を考えてみることにします。
たとえば、ホームレスになった場合、山中ではぐれてしまった場合(はぐれる、というのは、自分の現在位置が比定できない状態、人は常に、自らの現在位置を比定しながら生きている)、あるいは戦火に焼かれたとき・・・。要は、「原始的」状況に置かれたとき。
そのとき人は、先ず、何を考えるか。たとえば、いかにして一夜を過ごそうとするか。
眠くなったから、まわりを気にせず倒れて寝込む、などということは決してないはずです(酔っ払ったとき以外は・・・)。夜を過ごせると「思える」居場所を、先ず探すでしょう。
あるいは、たとえば、昨年の震災のとき、だだっ広い体育館に避難を余儀なくされた方がたが、自分の居場所をどのように確保しようとしたか、を思い出してもらってもよいでしょう。
そのような場合、人は、自らの一時的な居場所を、周辺から隔離することにより確保しようとするに違いありません。
避難所になった体育館では、居場所を段ボールなどで囲っていました。ホームレスの方がたが行なうのに似ています。その方がたは、天井まで囲います。これが住まいの原型である、と私は考えています。
つまり、住まいは、先ずもって、SURROUNDINGS の中に自らの居場所となり得る所を確保することである、と考えてよいのではないでしょうか。すなわち住まいの「空間」。
したがって、当初は、SURROUNDINGS の中で閉鎖的になるのです。そうすることで「安心」することができるからです。
寝殿造の場合、実は、SURROUNDINGS の中で、他と区画された壮大・広大な「囲まれた土地」にいわゆる「寝殿造の建物」が在った。貴族にとっての「住まい」は、その区画され囲まれた土地の中すべてであったのです。
   このことは、以下で触れています。  
   「分解すれば、ものごとが分るのか・・・・中国西域の住居から
   この西域の住居を観て、このような私の考えは「確信」に変りました。
この記事で触れているように、農家に縁側が現れるのは、農業を営む方がたが「屋敷」を構えることができるようになってはじめて、寝殿造をつくった貴族と同様の「心境」になり得たと考えてよいのです。
そうなるまでの時間は測り知れないものがあったと思われます。
   この点についても、くどいほど何度も書いてきました。
   2010年10月1日の「建物をつくるとは、どういうことか−1」からの16回のシリーズは、いわば、その「まとめ」です。

では、縁側は、新たに「付加」された部分だったのでしょうか。
否です。先の「日本の建築技術の展開−24」で触れた「住まいの架構」がそれを可能にしたのです。
   「付加する」ことで縁側をつくるようになるのは、おそらく近世になってからのことだと思います。

下に、以前に載せた古井家の架構模型と間取りの変遷図を再掲します(2010年2月13日記事)。

     
     
       「古井家」の建設時からの間取りの変遷。       
       図中の青の●印は板戸、○は紙張り障子、□は襖です。
古井家は、古代の架構法、上屋の四周に下屋をまわす架構法を採っています。
   寝殿造や寺院では、上屋・下屋ではなく身舎(もや)・庇 or 廂(ひさし)と言いますが、基本は同じです。
   寝殿造では、下屋(庇・廂)を何重にも設ける例があり、その場合、孫庇などと呼んでいます。
   このあたりについては、下記をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開−2
   「日本の建築技術の展開−2の補足
この記事でも書きましたが、下屋(庇・廂)は、本来、上屋だけでは不足する面積:空間容積を拡大するために採られてきた方法ですが、おそらく、永年のうちに、下屋(庇・廂)は架構を安定させるのに有効であることに気付いたのではないでしょうか。いわば控柱の役を果たしてくれるからです。これは、西欧でも同様で、(木造の)教会建築は、その代表的な例です。

古井家の場合、梁行では、中間に柱が1本立っています。原初的な家屋では、両脇の2本の柱:上屋柱が梁を支えていて、中間には柱はないのが普通です。
柱を1本立てることで面積:空間容積を増やすことはできたわけですが、それでいてなお下屋が付けられ、しかも、下屋の幅が僅か3尺程度であることからみて、これは架構の安定のためと考えてよいのではないでしょうか。 
ただ、下屋を設けると、当初平面図で明らかなように、おもて、なんど、ちゃのまには、壁際に上屋の柱が林立します。どまにもあります。
これらの柱が「なければいいのに」と思った場面がたびたびあったに違いありません。
住み手が数代経過し、江戸の時代に入ると、邪魔な柱を取除く工夫が施されます。
   その工夫:方法については下記をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開−25
図の?で、おもてとどまの上屋柱がなくなっていることが分ります。
当初のおもては、ざしきとおもてに建具で分けられています。
   このことは、住まいは、諸室の足し算でつくられるのではないこと、
   住まいづくりは、先ず一つの空間を確保することから始まる、ということ、
   その一つの空間を分割して諸室が生まれるのだ、という「真理」を語っています。
   当然、最初の空間の大きさ次第で、分割して生まれる諸室は異なってきます。
この改造にあたって、ざしきとおもての南側に、濡れ縁が設けられていることに注目してください。
ざしきとおもての南側の開口は、狭く、建具は板戸です。
しかし、建設当初に比べると、ここから外へ出てもいい、あるいは、ここから中が見えてもいい、という「意志」があるように思えます。
おそらく、この時代には、当初の建屋の中にだけ「我が領域を確保する」という意識が薄れていたのではないでしょうか。建屋周辺も、我が家の「うち」と認めることができたのです。
   「うち」と「そと」という語の意味は、きわめて「深遠」です。
   いかなるとき、「うち」と言うでしょうか。たとえば「うちの会社」の「うち」とは何か。
   ある国語学者は、「うち」とは、第一人称で語れる範囲・領域のこと、と解説しています。
   簡単に言うと、第一人称で語れる人ならば、住まいの奥深く呼び入れる、
   住まいの中で共に居られるのは、第一人称で語り合うことのできる人だけなのです。
   第二人称の方は、どま、玄関まで、第三人称で呼ばれる方がたは、玄関前まで、ときには門前払い。
しかし、つくられたのは濡れ縁。縁側ではありません。
さらに時が過ぎると、濡れ縁はざしきの前だけになり、おもての南側にえんが現われます。
そして、このえんは、下屋の部分に相当します。
狭い下屋の部分に新たな「意味」を見つけた、と言えるかもしれません。

このえんは、濡れ縁とは違って、夜になると、雨戸を閉めることで、それ以前の様相、つまり、かつての囲いの中に戻ります。
夜は、自らの領域の確保にとって、いちばん不安な時間。昼間は、周辺をも「うち」と見なすようになっても、夜はそうはゆかない。雨戸がそれを「解決」してくれたのです。
このように、縁側は、雨戸の発明とともに、元から在る空間の中に、設けられるようになった、と考えられます。
   雨戸については、日本における「建具」の歴史をあらためて考えなければなりません。
   それについては、別途、触れることにします。
四周すべてが開放されている寝殿造では、夜昼問わず一日中全面開放であったわけではないようです。要所、特に身舎:上屋にあたる部分は、夜間、蔀戸で囲われたのです。朝夕のその開け立ては大変な作業だったでしょう。

寝殿造の流れを受け継いだ書院造では、広縁にその名残りが見られますが、この場所も農家と同じく下屋:廂の部分にあたります。
書院造の初期の姿と考えられる方丈の建屋を観ると分りますが、どれも四周に下屋:廂が回っており、その南面が広縁になっています。
ただ、この広縁は、外部に面して建具はありません。夜間、上屋:身舎の部分にのみ、板戸:舞良戸(まいらど)で閉じられます。
   この事例は、下記をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開−17
   「建物づくりと寸法−1
書院造は、玄関:入口から奥に向って徐々に畏まってくるつくりになっていますが(最奥は上段)、これは、上下関係を強く意識する武家に好まれ、武家の住まいに、その方式が受け継がれます。
これは、武家の中の上層階級だけではなく、すべてに好まれたようです。
下は、普通の武家:侍の屋敷と旗本の屋敷、そして大名の江戸屋敷の平面図です。いずれも「日本建築史図集」(彰国社)からの転載です。



侍屋敷の南面に縁がまわっています。柱がありますから、屋根の下と考えてよいでしょう。広縁の系譜と言えるでしょう。
この縁は、夜間も開放されています。閉じられるのは、縁の内側です。
旗本の住まいの南と西面にも縁がまわっていますが、この場合は外周に雨戸が設けられています。
   この図では、東側にも縁がありますが、ここには雨戸はないようです。
   雨戸を設けることは、旗本であっても、容易なことではなかったのでしょう。
大名の屋敷では、すべての縁に建具の表記がありますが、それがどういう様子であるのかは、この図では分りません。一番南側の縁は、戸袋があるので雨戸と分ります。

この3例については、断面図がないので縁側部分が架構の上でどのようになっているかは分りませんが、推測すると、下屋部分につくられているのではなく、いわば、縁側のために付加されているのではないか、と思われます。
縁側という場所が、一つの独立した要素、あるいは「形式」となった、と考えてもよいのではないでしょうか。それは、かつて、軒下の組物や、あるいは長押が、本来の役割を失って、ただ形式・様式として遺ったのと似ているのかもしれません。
   こう考えるのは、武家の住まいで、農家の縁先と同じような「光景」が展開したとは思えないからです。

これはまったくの私見ですが、
近世までは、架構と空間は緊密な関係のもとにあったのに対し、
近世も終盤に近づくと、そして明治になると更に、架構と関係なく空間をつくるように変ってきた、
つまり、先ずはじめに「形」(あるいは形式、様式)があり、架構はその「形」をつくるためにあるのだ、と考えるようになってきた、ように思えます。「技術」が、それを可能にするような段階に至っていたからかもしれません。
これは、紹介中の「日本家屋構造」の構成が、架構全体を観ることからではなく、各部分の解説・説明から始める、という叙述になっていること、簡単に言えば、部分の足し算で語っていること、にも私はその気配を感じています。

一言で言えば、古代から近世まで、人びとにとって、架構=空間であった。しかし、技術が進展した結果、空間>架構、架構は空間に従う、という傾向・志向が出てきた、そして、その挙句の果てが、近・現代の建築の世界なのだ、と私は考えています。
建物づくりは、先ず、架構=空間出なければウソだ、架構がいいかげんな空間はウソだということです。
なぜなら、空間>架構、架構は空間に従うと考え出したとたん、「形の謂れ」が無節操になってしまうからです。
その空間の存在の根拠について考えることもせず、まったくの「思いつき」で済ましてしまうようになるからです。
空間>架構、架構は空間に従うという「思考」があたりまえになってしまったとき、「理解不能」な建築家たちが横行するようになったのではないでしょうか。
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