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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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復刻・「筑波通信」―14・・・・「今日」のない「明日」

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復刻・「筑波通信」―14・・・・「今日」のない「明日」                    筑波通信1982年12月刊の復刻

上越新幹線の開通をめぐって、開通に至るまでの諸々の《裏ばなし》が新聞紙上で紹介されていた。例にもれず、政治がらみの話だ。そのなかで私の目をひいたのは、ある駅が決定されるに至った経緯についての「解説」であった。
三国山系から越後平野に入って最初の駅の位置についてのものである。それが、在来の上越線の一小駅に設定されている、何故だ、政治がらみの駅ではないかという疑惑があるというのであった。それに対して事業者:当時は国鉄:の説明は、全く純粋に技術的な検討の結果である、というものであった。そのなかみは、ある標高で三国山系を抜けた列車の、スピードと安全を保つべく、勾配、カーブを地図上で検討したところ、妥当と思われる線が見えてきた、その線上に在来の上越線の交点を探したところ、それはその小駅の近くであった、というのである。おそらく、大方の人は、技術的に合理性が追及された結果ならば止むを得ない結論なのだろうと納得し、多少腑に落ちない点を感じた人も、《専門的な》なにやら難しい《技術的な》説明などされると、それに対抗できる反論を用意する気にもなれず、結局のところうやむやのままに終ってしまう。「技術」だとか「専門」という言葉は、今ではまるで《魔法の》言葉、その一言で大抵の人は恐れをなして口をつぐんでしまうのだ。
しかし、ここで紹介されている事業者:国鉄の説明に素直に従うと、新幹線の路線の決定に際し、いわば山越えの技術的解決にのみに熱心で、どこの町を通るか、駅は何処がよいか、といったことは考えられてはいなかった、ということになる。
これではものごとの順序が逆ではなかろうか。鉄道を敷設するのだから、先ずは通過地点をいろいろ考える、そのためには何処でいかに山を越えるのがよいか、そのためには何が技術的に問題か・・・、こういう具合に話が進むのがあたりまえ、そう私には思える。新聞の解説によるかぎり、新幹線の目的が、単に山を越えることだけに意味があった、かのようにもなりかねない。
しかし、この国鉄の説明は何らウソは言っていない。通過経路は考えられなかったわけではなく考えられていた。ただ、その際の眼目は、始点の東京、終点の新潟、途中の主だった分岐点の大宮、高崎などだけで、その他の所は、あくまでも単なる通過点:主目的を達するための止むを得ず通り過ぎる《途中》に過ぎない、と考えられていたのではないだろうか。そもそも、新幹線網という《思想》が、そういう類のもの。《途中》は、《ついで》なのだ。
しかし、近代以降、鉄道が果たしてきた効果・役割に対して、一般にバラ色の夢が持たれる。鉄道が通り駅ができる、そこには繁栄がある・・・と。それゆえ、繁栄を夢みて誘致合戦が行なわれ、政治家が絡んでくる。それゆえに、鉄道というと政治色で見るようになる・・・。
では、新幹線の敷設に、近代以降の鉄道敷設と同じような《沿線の発展》を期待できるか? 私にはそうは思えない。
鉄道の敷設にあたっては、明らかに異なる二つの《思想》あったように思えてならない。一つは、敷設により《沿線の開発》を意図するもの。「田園都市線」の《計画》などは、その典型だろう。
   最近の例では、いわゆる《つくばエキスプレス》もその例であろう。
しかし、全ての鉄道が初めから未開の地の開発を意図していたと理解することは大きな間違いであるように私は思う。
東京、浅草を起点にする東武鉄道・伊勢崎線という私鉄がある。日光に行くので知られている。ことによると、日光に行くことだけが知られていて、伊勢崎線という名称は知られていないのかもしれない。浅草を出た鉄道は、途中で伊勢崎行と日光行の二線に分かれる。伊勢崎行が本線で日光行は支線である(別掲地図参照)。


日光線は本線:伊勢崎線より大分遅れて開通したのだが、おそらく今は日光行の方がよく知られていると思われる。現在は途中まで地下鉄日比谷線と相互乗り入れををし、沿線の宅地化が進んでいる。それは、昭和30年代の後半に、住宅公団による大住宅団地が田んぼをつぶしてつくられるようになってからで、それまでは、東京を離れると直ぐ、窓の外に田園風景が拡がっていた。
東武鉄道は、営業キロ数が関東一の規模の私鉄で、約500キロに達し、全国でも一・二位を争う。鉄道に接続する沿線のバス路線もおよそ3500キロに及ぶという。
鉄道は、伊勢崎線、日光線の他にも多数の線があり、いずれもほとんど田園地帯のまんなかを走る(地図参照)。
   註 これらの数字は、1980年代の資料による数値である。
    なお、別掲の地図が小さいので、「地図帳」をご用意いただくか、図をプリントアウトしてください。。
沿線に東京へ通う人たちの家が建て込んできたのは昭和30年代のこと、敷設以来およそ半世紀以上は、田園の中を走り続けてきたのである。つまり、この鉄道は、現代の新線敷設のような、沿線の開発を意図したものではなかったのである。
では、いったい、この鉄道は、何を意図して敷設されたのだろうか?
東武・伊勢崎線は、浅草を出たあと、北千住、草加(そうか)、越ケ谷(こしがや)、春日部(かすかべ)、杉戸(すぎと、現東武動物公園)、久喜(くき)、加須(かぞ)、羽生(はにゅう)、ここで利根川を渡り群馬県に入り、館林(たてばやし)、足利(あしかが)太田(おおた)を経て伊勢崎に至る。途中、春日部で野田線、杉戸で日光線、羽生で高崎線の熊谷へ通じる羽生線、館林で佐野線、小泉線、太田では桐生線、という具合に、実に多くの支線を分けている(地図参照)。
この鉄道は、地図で分るように、関東平野の中央低地部から利根川を越え、赤城山をはじめとする平野北辺の山々の裾野一帯に点在・散在する大小の街々を、実に細やかに一つ一つつないでいるのである。
一方、この地域の国鉄は、東京・上野から浦和、大宮、熊谷、本庄を経て高崎へと至る上・信越線:高崎線、大宮で分れ久喜、古河、小山、宇都宮へと抜ける東北本線、そして高崎の先の前橋から伊勢崎、桐生、足利、佐野、小山と至る両毛線、この三本があるだけである。
   註 上毛野:かみつけの:今の群馬県と下毛野:しもつけの:今の栃木県:を結ぶので両毛線。
     なお、現在は、東北本線のこの部分を宇都宮線と呼んでいる。
東北本線の東側にあたる地域には、平野の東端沿いに走る常磐線までの間、国鉄は一本もない。わずかに北辺を走る水戸線があるだけである。
つまり、この広大な地域は、長い間、鉄道とは縁がなかったのである。同様に、先の国鉄三本が形づくる三角形の地域内も鉄道には縁がなかった。つまり、先に東武鉄道の通過地点として挙げた街々は、国鉄とは縁がなかった。それゆえ、東武鉄道がなかったころ、これらの地域へ国鉄を用いて訪れることは大ごとだったのである。これは、現在でも同じで、これらの街々へ鉄道で行くには東武鉄道のやっかいになるのではないだろうか。逆に言えば、この地域の人やものの《移動》は、東武鉄道に大きく依存しているということである。
ところで、ここに挙げた地名を、今東京に暮す人たちのどれだけが、どのくらいまで知っているだろうか?ことによると、草加は煎餅で、足利や伊勢崎はそこで産する織物:めいせん:で、そして館林はぶんぷくちゃがまで・・・、と具合にその土地がらみの物や話で知っているだけで、そこへどうやって行くかとなると、一瞬戸惑うのではなかろうか。まして、加須などともなれば、読めもしないに違いない。関東は関西と違い国鉄への依存度が高いから、たとえ私鉄が発達していても、私鉄の通る土地の知名度は低い。おまけに国鉄沿線の方が発展してしまっているから、これらの街々の名は、ともすれば忘れられる。
たしかに、これらの町の中には、名前も知られず寂れかかっている町もある。しかし、それらの多くは、近世までは、名前も知られ、交通路上の要所として繁栄していたのである。
私が《この事実》に気付いたのは、数年前のことである。筑波から埼玉平野の中央部へ向って車を知らせていたとき、「加須」という場所に偶然さしかかった。見渡す限りの田んぼのなかに、突然、島のような家々のかたまりが見えてきた。そして、いささか裏寂れた風情の街並みが続く町なかにとびこんでしまった。明らかに街道筋の町だ。どうしてこんなところに、と私は戸惑った。かなり広い構内を持つ駅もある。東武伊勢崎線の加須駅であった。そして、あとで調べてみて初めて、その町は、近世までの交通・運輸の一要所であったことを知らされたのである。「加須」と書いて「かぞ」と読むと知ったのもその時である。そして、先に書き連ねた東武線の諸駅が、ほとんど全て、鉄道開通以前から、つまり鉄道に拠るのではなく、栄えていた町々の玄関・駅であることも知ったのである。私がこのことを知らなかったのは、そして多分大方の人が知らないというのは、関東平野についての《知識》:頭の中にある関東平野の地図:というのが、鉄道の網の目、しかも国鉄のそれによってこうせいされているからだ、と考えてよいだろう。」しかも、鉄道:国鉄が通ってかれこれ一世紀に近くもなると、現状があたりまえと思われ、今栄えているところが昔から栄えていた、国鉄沿いが昔から交通の要所であった、かの「錯覚」「誤解」をもってしまってもおかしくない。ある意味ではいたしかたない「誤解」ではあるが、この「誤解」を放置しておいてよいわけではない。

関東平野の地図上から鉄道線路と各市町村の市街地を示す表示を取り去ると、平野のなかを貫流するいくつもの河川が見えてくる。
関東平野の衛星写真に、その様態が写っている(下図)。


それらの河川は、平野外縁の山々から海へと、特に東京湾へと向って走っている。言いかたを変えれば、東京湾を要にした扇の骨のように河川が平野を刻んでいる。利根川だけが東進しているが、当初はこの川も東京湾へそそいでいたのである。この東京湾にそそぐ諸河川のいわば集中点に東京=江戸の中心があったのである。東京から各地へ向う道もまた、放射状に、ほとんどが河川を横切らずに河川と河川の間を河川に並行して走っている。今の国道も基本的に変らない(新設のバイパスがこれを乱してはいるが)。
これらの国道は、大半が江戸期の街道を踏襲したものなのだ。そして、先に書き連ねてきた町々が、これらの街道の上に位置していることが分る。というより、街道はこれらの町々をつないでいるのである。この地図の上に、近世の大量輸送路:水運:舟運の経路を重ねてみる。実は平野を貫流する諸河川は、農業用水としてだけではなく、交通・通運の要路としての役割を担っていたのだ。利根川には、壮大な高瀬舟が通っていた。利根川の流路を東京湾に流入させず東進させた江戸時代の大事業も、江戸を洪水から護る目的だけではなく、舟運路の水位を一定に保つためでもあったという。つまり、関東平野には、陸路:街道と水路の二種類の交通網が張り巡らされていたのである。そして、先に挙げた町々は、この交通網と深い関係にあったのである。

江戸に向った物資は、江戸のどこに向ったのか。
輸送量は圧倒的に舟運が大きい。食料をはじめとする生活物資も建築用材:木材なども、ほとんどが舟運に拠った。
その江戸での集積地は、墨田川沿いの一画であった。今の浅草界隈である。蔵前という地名は、端的にそれを示している。蔵が軒を連ねていたのである。その近くに木場がある。関東平野を下ってきた木材、海運で関東以外から運ばれてきた木材がここに集められたのである。
それゆえ、この一帯は人通りもはげしく、賑わっていた。ゆえに、遊興地も、そこに集まる人びとを相手に生まれたのである。

過日「復刻・筑波通信-11 水田の風景」で関東平野の開拓の経緯を概略ながめてみたが、そこでは、運輸・交通網については全く触れなかった。それではほんとは片手落ちというもの。平野の開拓と交通網の整備は、互いに関連し、並行して行われていたのである。
関東平野全域に目を配りつつ計画的に《開発》が行われたのは、江戸に都をつくりだしてからのことである。江戸の町の自給自足体制の確立のために、灯台随一の穀倉地帯:関東平野の掌握が不可欠であり、その政策の一環として利水・治水計画をともなう新田の開発と輸送網の整備が並行して行われたのである。
しかし、この書きかたは正しくない。
この政策は、江戸に町をつくりだしてから考えだされたのではなく、むしろ、こういう施策を行うことで江戸に町がつくれる、という《計算》が先にあったとみるべきだからである。すなわち、関東平野は開拓すれば豊かな穀倉地帯となる可能性を秘めた土地であることを見通し、それを掌握すれば、絶対的な自給自足体制を確立できるとの見通しが持てたからこそ、江戸に幕府を構える決断が為されたのである。この見通しがその通りであったから、徳川は三百年という長期にわたり存続し得たのだ。この三百年の間に、関東平野は当時として出来得る限りの整備が施された。そして、江戸の町の成熟とともに、先に触れた町々や、それらを網の目のようにつなぐ通運路も、江戸との緊密な関係の下で成熟していった。

明治になり、大都市間だけではなく、関東平野内の鉄道敷設が計画されるようになる。1881年(明治11年)日本鉄道株式会社が設立され、先ず1884年に今の高崎線が開通、翌1885年には東北線が大宮~宇都宮間が開業する。これらはいずれも、東京と信越、東北・奥羽を結ぶことを目的とした国家的なスケールの計画の一環であった。高崎線は、そのときまでの重要陸路であった中山道をほぼ踏襲しているが、東北線は高崎線の大宮から岐れているため、既存の街道とは無関係なルートをとっている。陸路の多くが河川の横断を極力避け、ほぼ河川に並行しているのに対して、東北線は河川を横切る形で平野を走っていることが地図上に認められる。その結果、東北線は、既存の町を離れて通ることが多い。
東北線に遅れること数年、1888年~1889年に、両毛鉄道、現在の両毛線が開通する。この鉄道は、旧来の街道(旧くは古代の東山道にまでさかのぼる)沿いに、既存の栄えた町々をつないでいる。高崎線、東北線が東京と地方を結ぶことを意図したのに対し、これは、前橋、伊勢崎、桐生、足利、佐野、栃木、小山という江戸期に成長した江戸への通運路の起点:端末の拠点の町々:平野外縁の町々を横につなぐ役割を持っていた。つまり、1884年から僅か5年の間に、先に触れた国鉄の三角地帯が形成されたわけである。
因みに、前橋から先の上越線は大分遅れて1931年になってからの開通、信越線が1893年の開通だから、実に38年後。上越線が全通するまで、新潟は長野よりも遠かった。鉄道敷設の経済的効果:いわゆる近代化という点では、新潟はいわば遅れをとったのである。もしかしたら、その《苦い経験》が、上越新幹線の建設を先行させようという《政治的行動》の動機になったのかもしれない。
鉄道経済効果は極めて大きかった。物流の構造が変り始めたのである。それまでの体調輸送機関であった舟運も鉄道にはかなわなかった。集積地も変りはじめる。平野の西半分は、それでも影響が少なかった。鉄道がほぼ従来の街道に沿って計画されたからである。一方で、それまでの大動脈であった東部の河川筋は、真っ向からその影響を受けだした。上流で、舟運路に直交する鉄道に、荷がさらわれだしたのである。当然、町々の拠って立つ基盤が揺るぎだす。鉄道の通った町に羨望の目が注がれる(生活が乱されると鉄道敷設に反対する人びとが多かったのだが、それが後悔に変ったという話も多々あったようである)。

このような状況の大変化に見舞われた関東平野の東半分、かつての繁栄の中心地域、そして鉄道敷設の恩恵に浴さなかった一帯で、鉄道への《願望》が高まってくる。そしてそれに応えるべく計画されたのが、東武鉄道伊勢崎線だったのである。
伊勢崎線は、東北線に遅れること20数年、1907年(明治40年)に開通。東武伊勢崎線の支線、日光線は更に遅く、1929年(昭和4年)、それより前の1913~14年(大正2~3年)にかけて、桐生線、佐野線が開通している。
関東平野西部に重心が置かれていた鉄道敷設以来四半世紀、国の近代化政策とともに産業構造は大きく変り始め、鉄道の沿線が繁栄の中心になりつつあった。それによって、かつて舟運によって栄えていた商業町、街道沿いの町々は寂れ始めた。その役割が、鉄道沿いの町々に奪われだしたのである。東武鉄道は、まさに、そういった寂れ始めていた町々の夢よもう一度という期待、既存の生活の維持への願い・・・を背負って建設されたと言ってよい。おそらく、鉄道の経営者の願いもまた、それらの町々の繫栄との共存共栄にあった。つまり、この路線ルートの決定は、かつての通商路の代替を意図していたと見ることができる。背後には、それを支えてきた町々の「生活」があった。だからこそ、この鉄道は、かつて繁栄の中心であった街々を一つ一つ丁寧につなぎ、最終的に、これもかつての終着駅:一大集積地にして繁華な場所浅草へ到着するのである。起点・終点は浅草でなければならなかったのである。
この鉄道の第一の目的がかつての繁栄の復興をねらった、あるいは少なくとも「近代」化から取り残されだした関東平野東半分に点在する既存の町々の人びとの生活の《維持・救済》にあったということは、支線・日光線の開通時期を見ると分る。
今では東武鉄道の代表的路線と見なされる日光線の開通は、先に触れたように、本線開通より20年以上も後のことだ。現在なら、直ぐに儲けにつながる日光線の方が先に着手されるのではなかろうか。観光で商売を使用などという発想が、当初から全くなかったと言ってよい。つまり、鉄道敷設で沿線に新たな変化を生もうなどという発想はさらさらなく、あくまでも、かつてのあるいはそのときまでの人びとの生活・暮しを維持存続させることに意義を見出していたと理解できる。言うならば「保守的」なのであった。それゆえ、既存の繁栄を越えての発展や、儲かることなども期待しなかった。それでよし、としたのである。
東武鉄道と前後して、各地に、こういう《儲からない》鉄道がいくつも建設されている。それらはほとんど、国策の基幹路線から取り残された地域のかつての街道筋や舟運筋の代替として設けられた鉄道で、なかには後に国鉄に編入されたものもある。いずれにしろ、その発想は、「東武型」と言ってよい。いくつか例を挙げる。常磐線の取手から水戸線(東北本線の小山と常磐線の水戸を結び、1889年に開通)の下館を結ぶ1914年開通の常総鉄道。この鉄道は、かつての鬼怒川と小貝(こかい)川の舟運路沿いの町々を結んでいる。水戸線は、常磐線よりも早く開通している。前橋~水戸は、江戸期には江戸~水戸よりも重要な街道だったのである。現在は国道50号が通っている。先に挙げた両毛線は、伊勢崎に寄るためにかなり南へ経路をとっているが、そのため、前橋から桐生にかけての赤城山のふもとにほぼ等高線上に展開している町々(大胡(だいご)、大間々(おおまま)など)は取り残されてしまった。そこで、それを補う役割を担って上毛鉄道が1928年に敷設された。
同じようなことは各地で起きた。長野県の善光寺平では、最初の鉄道信越線が、かつての北国街道沿いではなく、まっすぐ長野に向ってしまった。おそらく、上田からの峠越えを避けたものと思われる。取り残されてしまった北国街道沿いの人びとの運動の結果、長野電鉄の河東線が敷設された。その開通は、信越線開通の実に29年後の1922年(大正11年)、そのとき、繁栄の中心はすでに長野市をはじめとする信越線沿いに移っていた。その状況は現在まで続いている。
ここに例として挙げた鉄道の沿線は、東武鉄道を含め、現代的な意味では《繁栄》しているとは言い難い。中心がみな新興の地に移ってしまい、町々の誇りもいまた《過去の栄光》にのみある、と言っては言い過ぎであろうか。多少でも人通りが多くなったとすれば、それは、その町の《過去の栄光》すなわち《文化財》目当ての観光客であり、その町の「生活・暮し」に縁あっての人たちではない。これら《過去の栄光の町々》をつなぐ鉄道は、今日的な意味では決して儲からない鉄道なのである。
しかし、近世までの「生活・暮し」の上に突然敷かれた一本の鉄道が、かくも地域を変容させてしまうなどということは、当初は誰も気が付かなかっただろう。それは、過去において一度も味わったことのない類の《経験》だった。

昭和に入ると、鉄道は地域を変えるという《影響力》を初めから計算にいれた鉄道が経営されだす。また、同じころ、観光客の輸送目当ての鉄道:《観光線》も増えてくる。
それまでの鉄道が、ここまで見てきたように、既存の町々をつなぐことを主目標としていたのに対し、新しく採られたやりかたは、むしろ人のあまり住んでいない所をねらって敷設される。関西で阪急電車が初めにやりだした方法で、いわば未開の地に鉄道を敷き人を住まわせ、それによって利益をあげるのである。そのためには、沿線に既存の町などない方が好ましいのだ。
   大阪と京都を結ぶ私鉄に、京阪と阪急がある。京阪は淀川左岸の旧街道沿いから鴨川に沿って敷かれたのに対し、阪急は山沿
   いを、かつての街道等とはほとんど無関係に走る。
人を寄せるために、沿線に大学などを誘致する例も現れる(東急東横線の慶応大学・日吉校舎など)。最近の田園都市線も同様の考えかたで、一段と巧妙になり、鉄道と沿線の宅地化事業が同時進行している。
《観光線》では、昭和に入り、先の日光線、関西の南海・高野山行、近鉄の奈良、伊勢行、関東の小田急・箱根行などが、相次いでつくられる。これらの観光対象地が、つまるところは江戸期以来の人びとの参拝地だというのが面白い。もっとも、阪急のように、新たに観光地までつくってしまうのも現れる。宝塚劇場・宝塚歌劇は、人寄せのためのものであった。これは、その駅名に如実に示される。たとえば、「自由が丘」のような既存の地名とは全く無関係に、ことばがただよわす《ムード》による駅名をつくりあげる。それ以前の鉄道、たとえば東武鉄道には、最近まで、そういう類の駅名はまったくなく、どこも昔からの土地の名が付けられていた。
このような《発想の転換》は、おそらく当初は、誰も思い及ばなかったに違いない。鉄道の敷設が及ぼす影響などまさに想像を絶することだっただろう。もちろん、鉄道以前にも、進歩や改変ということは存在した。しかしその進歩や改変は、常にその時代を承けた形での変化や進歩であったから、仮に一つの手段に変化があっても、それに伴う事態の変容のさまもまた、十分に感覚的に予測し得る範囲にあった。つまり、人びとは、進歩や変革を、目の前の現実からスタートさせたのである。
考えるまでもなく、今日のありさま(それはすなわち「来しかた」でもあるが)を基に明日(すなわち「行く末」)を考えるというのが、人間にとって一番素直な発想なのだ。だから、鉄道のぬ説が、単なる交通・運輸の変革の域を越えこれほどまでの状況の変化をもたらすなどということは、字のとおりまったく予想外だったはずである。けれども、この単なる手段の近代化が進んで半世紀、《思いもかけなかった結果》が顕わになってきたとき、それ自体を商売にするという、その《結果》を目的とした考えかたが現れたのだ。すなわち、阪急、東急型の考えかたの《誕生》である。
現在、「近代化」と言えば、多くの場合、この阪急、東急型のやりかたを支えている考えかたを指すと言ってよいだろう。
しかし、明治以降各界で為されてきたいわゆる「近代化」を全て、この今日的な意味での近代化として捉えてしまってよいだろうか?
そこでの「明日」は、「今日:来しかた」が欠落している。そこで描かれる「明日」は、今日の次に来る明日ではない。
残念ながら、建築関係者の描く「明日:計画」には、そういう類が多いように私には思える。 
                                                             了



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